シュッピルリウマ1世は紀元前14世紀にヒッタイトを治めた大王です。
王になる前から軍を率い、周辺勢力の攻撃で領土を失っていたヒッタイトを立て直しました。即位後はアナトリアからシリア、北メソポタミアへ勢力を広げ、ミタンニ王国との戦いにも勝利しています。
その一方で王位継承をめぐる争いや、エジプト王家から息子を婿に欲しいという要請を受けてザンナンザを派遣しましたが殺害されています。晩年に始まった疫病は息子ムルシリ2世の時代までヒッタイトを苦しめmした。
この記事では、シュッピルリウマ1世がどのようにヒッタイトを再建し、どのような問題を次の世代へ残したのかを、生涯の順に紹介します。
この記事で分かること
- シュッピルリウマ1世の出自と王位獲得までの経緯
- ミタンニ戦争とヒッタイトのシリア進出
- 息子や娘の配置・婚姻を活用した統治方法
- ザンナンザ事件と疫病が王家に与えた影響
シュッピルリウマ1世とは
プロフィール
・名前:シュッピルリウマ1世
・別表記:シュッピルリウマ、シュッピルリウマシュ
・地位:ヒッタイト王
・在位:紀元前1350年ごろ~紀元前1322年ごろ
・前王:トゥドハリヤ3世
・後継者:アルヌワンダ2世
・没年:紀元前1322年ごろ
家族
・父:トゥドハリヤ2世
・母:ダドゥエパ?
・最初の妃:ヘンティ
・後の妃:マルニガル
・息子:アルヌワンダ2世
・息子:テリピヌ
・息子:ピヤシリ
・息子:ザンナンザ
・息子:ムルシリ2世
・娘:ムワッティ
・弟:ジダ、またはジダナ
シュッピルリウマ1世の出自
シュッピルリウマ1世は、ヒッタイト王トゥドハリヤ2世の息子とされます。兄にのちに王位を継いだトゥドハリヤ3世がいました。
シュッピルリウマは父トゥドハリヤ2世と兄トゥドハリヤ3世のもとで軍を率いました。当時のヒッタイトは周辺勢力の攻撃を受けて旧都ハットゥシャを離れてサムハを拠点にしていました。
北方ではカシュカ族の支配者ピヤピリと戦いました。東方ではハヤサの支配者カランニと戦っています。
シュッピルリウマは各地の戦いで領土を取り戻し、ヒッタイト王宮を旧都ハットゥシャへ戻すことに成功しました。こうした軍事活動を通して、王家の中でも軍を率いる人物として地位を高めていったのでしょう。
兄トゥドハリヤ3世を倒して王になる
父トゥドハリヤ2世の死後、兄のトゥドハリヤ3世が王位を継ぎました。
ところがトゥドハリヤ3世の即位から間もなく、シュッピルリウマは貴族とともに陰謀を企て兄を殺害。他の兄弟も殺害したとされます。その後、シュッピルリウマがヒッタイトの大王に即位しました。
即位当初のヒッタイト国内には、王位継承をめぐる政治的な混乱が残っていたと考えられます。シュッピルリウマは国内をまとめる一方、周辺地域への遠征を繰り返しました。
当時のヒッタイトは、カシュカ族やハヤサ、アルザワなどの攻撃によって弱体化していました。シュッピルリウマは王になる前から続けていた領土回復を即位後も進め、ヒッタイトの再建を図りました。
若トゥドハリヤを倒して王となる
トゥドハリヤ2世の死後、兄のトゥドハリヤ3世が王位を継ぎました。
シュッピルリウマやヒッタイトの有力者たちも、トゥドハリヤ3世の忠誠を誓っていました。しかしトゥドハリヤ3世は兄弟の一部とともに、シュッピルリウマを支持する人々によって殺されます。
その後、シュッピルリウマがヒッタイト王となりました。
シュッピルリウマが殺害を直接命じたのか、どこまで関与したのかは分かっていません。ただし、息子ムルシリ2世の時代には、この事件が王家の罪として問題になりました。
ヒッタイトで疫病が続いたとき、神託は若トゥドハリヤ殺害を原因の一つに挙げています。
妃ヘンティとバビロニア王女
シュッピルリウマ1世の最初の妃はヘンティです。
ヘンティはアルヌワンダ2世、テリピヌ、ピヤシリ、ザンナンザ、ムルシリ2世らの母だったと考えられています。
ところがヘンティは後にアッヒヤワへ追放された可能性があります。記録文書が壊れているため、追放の理由は分かりません。
その後、シュッピルリウマはバビロニアから王女を妃に迎えました。彼女はマルニガルという名前だったと言われます。
この婚姻には、バビロニアとの外交関係を固める目的があったのでしょう。シュッピルリウマは軍事だけでなく、王家同士の結婚も使って周辺国との関係を築きました。
息子たちを各地の王にする
シュッピルリウマ1世は、征服した土地を息子たちに任せました。
テリピヌはキズワトナの神官を務めた後、シリアのアレッポ王となりました。
ピヤシリはシャッリ・クシュフとも呼ばれ、カルケミシュ王となっています。カルケミシュは、ヒッタイトがシリアとユーフラテス川流域を支配するための拠点でした。
長男アルヌワンダ2世は王位継承者となり、父の死後にヒッタイト王となりました。
ムルシリ2世は兄の死後に王位を継ぎ、父の事績や疫病について多くの文書を残しています。
シュッピルリウマは、息子を各地の王にすることで、広がった領土を王家の者に管理させました。
アナトリア各地を従わせる
即位後のシュッピルリウマ1世は、西アナトリアや北方でも戦いを続けました。
西方では、王位を追われたマシュフイルワを保護し、娘ムワッティと結婚させました。その後、マシュフイルワをミラ・クワリヤ王として戻しています。
北方ではカシュカ人との戦いが続きました。ヒッタイト軍は一時的に敵地を占領しましたが、反乱が起こり、築いた拠点を失うこともありました。
シュッピルリウマの治世にヒッタイトの領土は広がりましたが、すべての地域を安定して支配できたわけではなかったようです。
アナトリア方面の戦いは、西方政策とカシュカ人との戦争を個別に見ると、シュッピルリウマが抱えていた問題を追いやすくなります。
ミタンニ王国との戦い
シュッピルリウマ1世の治世で大きな出来事となったのが、ミタンニ王国との戦争です。
ミタンニは北メソポタミアを中心に勢力を持ち、シリアの諸国にも影響を及ぼしていました。当初、シュッピルリウマはミタンニへの攻撃に失敗しています。
その後、ミタンニ王家の対立者やバビロニアと関係を結び、再び遠征を行いました。
シュッピルリウマはミタンニの首都ワシュカンニを攻め、ユーフラテス川を渡ってシリアへ進出します。アレッポ、ムキシュ、ヌハッシェなどを従わせ、ウガリットとも主従関係を結びました。
この遠征は一年戦争と呼ばれています。
その後も戦いは続き、六年戦争ではカルケミシュを占領しました。シュッピルリウマは息子ピヤシリをカルケミシュ王に任じ、シリア支配を固めています。
ミタンニ戦争には多くの国と人物が関わるため、一年戦争、六年戦争、カルケミシュ攻略を分けて読むと流れをつかみやすいでしょう。
ミタンニ王シャッティワザを支援する
ミタンニ王トゥシュラッタが殺されると、国内では王位をめぐる争いが起こりました。
トゥシュラッタの息子シャッティワザは国を追われ、シュッピルリウマを頼ります。
シュッピルリウマはシャッティワザを保護し、自分の娘と結婚させました。さらにピヤシリが率いるヒッタイト軍を同行させ、ミタンニへ戻しています。
シャッティワザは王位を得ましたが、かつてのミタンニ領すべてを取り戻すことはできませんでした。残された国はヒッタイトの影響下に入り、シリアの多くの地域もヒッタイト側へ組み込まれました。
シュッピルリウマはミタンニを完全に滅ぼすのではなく、王家の人物を支援し、従属国として残す方法を選んだことになります。
エジプトとの対立
ヒッタイトとエジプトは、シリアの諸国をめぐって次第に対立しました。
アムル王アジルは、もともとエジプトに従っていました。しかし周辺のヒッタイト従属国と関係を深め、最終的にシュッピルリウマへ従います。
エジプト軍はヒッタイト側のカデシュを攻撃しました。
シュッピルリウマは報復として、将軍たちにエジプト領アムカを攻撃させています。
両国の争いは、このあと起きたザンナンザ事件によってさらに深まりました。
ザンナンザ事件
エジプト王の未亡人から届いた婚姻の申し出
シュッピルリウマ1世がカルケミシュを包囲していたころ、エジプト王の未亡人から手紙が届きました。
女性は、息子がいないため、シュッピルリウマの王子を夫として迎えたいと申し出ます。その王子をエジプト王にするという内容でした。
この女性は、ツタンカーメンの未亡人アンケセナーメンだったとする説が有力です。アクエンアテンの妃ネフェルティティを候補とする説もあり、正体は確定していません。
シュッピルリウマはエジプト側の企みを疑い、使者を送って事情を調べました。
その後、申し出が本当だと判断し、息子ザンナンザをエジプトへ向かわせます。
ところが、ザンナンザはエジプトへ到着する前に殺されました。
エジプトと報復戦争
ザンナンザを殺した人物は分かっていません。
シュッピルリウマはエジプト側が息子を殺したと考えました。エジプト王は関与を否定したようですが、シュッピルリウマは説明を受け入れませんでした。
その後、ヒッタイト軍はエジプト領を攻撃し、多くの捕虜を連れて帰国します。
エジプト王の未亡人が誰だったのか、ザンナンザを誰が殺したのか、当時のエジプト王位継承とどのような関係があったのかについては、今も意見が分かれています。
ザンナンザ事件は登場人物と諸説が多いため、個別に取り上げた方が分かりやすい事件ですね。
ヒッタイトを襲った疫病
エジプトとの戦いで連れ帰った捕虜の間から、疫病が広がりました。
病気はヒッタイト本国にも入り、多くの人々が亡くなります。流行は約20年続いたとされ、シュッピルリウマ1世もこの疫病で亡くなった可能性があります。
後を継いだアルヌワンダ2世も、短期間で病死しました。そのため弟のムルシリ2世が王となります。
ムルシリ2世は、長く続く疫病の理由を神々に問いかけました。
神託では、若トゥドハリヤの殺害と、父がエジプトとの誓約を破って攻撃したことが原因として挙げられています。
当時のヒッタイト王家は、疫病を病気だけの問題と考えず、王や国が犯した罪への神罰として受け止めたのでしょう。
シュッピルリウマ1世の最期
シュッピルリウマ1世は紀元前1322年ごろに亡くなりました。彼は衰退していたヒッタイトを立て直すため王になる前から軍を率い失われた領土を取り戻しました。即位後にはミタンニを破り、シリアと北メソポタミアへ支配を広げています。
息子たちをアレッポやカルケミシュへ配置し、娘たちの婚姻も使いながら広い地域をヒッタイト王家のもとへ結びつけました。
一方で即位前にはトゥドハリヤ3世が殺され、晩年にはザンナンザ事件からエジプトとの戦争が起こりました。そこから広がった疫病は次の世代まで続いています。
シュッピルリウマ1世の生涯からはヒッタイト帝国が領土を広げた過程とその支配を維持する難しさの両方が見えてきます。


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