ヒッタイトは、現在のトルコ中央部を中心に栄えた古代国家です。鉄を使った国として有名ですが、戦車、外交、条約、王族同士の結婚なども国の発展を支えていました。
この記事では、ヒッタイトがいつ、どこに存在したのか、どのような人々が暮らしていたのか、なぜ大国になったのかを紹介します。
この記事で分かること
- ヒッタイトが存在した時代と現在の場所
- ヒッタイト帝国が大国へ成長した理由
- 鉄や戦車、エジプトとの戦いの実像
- 帝国が滅亡した原因とその後の歴史
ヒッタイトとはどのような国?
ヒッタイトは紀元前17世紀ごろから紀元前12世紀初めまでアナトリアを中心に栄えた国です。
アナトリアとは現在のトルコの大部分を占める地域です。ヒッタイトはその中央部に首都を置き、やがてシリア北部まで支配を広げました。
最盛期にはエジプト新王国、ミタンニ、カッシート朝バビロニアと並ぶ古代オリエントの有力国となっています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 存在した時代 | 紀元前17世紀ごろから紀元前12世紀初め |
| 中心地域 | アナトリア中央部 |
| 現在の国 | トルコ |
| 首都 | ハットゥシャ |
| 主な言語 | ヒッタイト語 |
| 使用した文字 | 主に楔形文字 |
| 有名なもの | 鉄、戦車、条約、粘土板文書 |
| 主な周辺国 | エジプト、ミタンニ、バビロニア、アッシリア |
| 帝国が消えた時期 | 紀元前1200年ごろ |
ヒッタイト王国とヒッタイト帝国という二つの呼び方がありますが、どちらもハットゥシャを中心に栄えた国を指しています。
アナトリアを中心にしていた時代を王国、シリアまで広大な領域を治めた最盛期を帝国と呼ぶことが多いですね。
ヒッタイトは現在のどこにあった?
ヒッタイトの中心地は、現在のトルコ中央部にあたります。
首都ハットゥシャは、現在のトルコのボアズカレ付近にありました。古い本では、ボアズキョイという地名で紹介されることもあります。
ハットゥシャは、アナトリア高原に築かれた都市です。城壁に囲まれ、王宮、神殿、住居、倉庫などが置かれていました。
ヒッタイトが南東へ勢力を広げると、その支配地域は現在のシリア北部にまで及びました。シリアはアナトリア、メソポタミア、エジプトを結ぶ重要な地域だったため、多くの国が支配を求めたのです。
ヒッタイトの地図を見るときは、現在のトルコ中央部にハットゥシャを置き、その南東にシリア、南にエジプト、東にミタンニとアッシリアを置くと理解しやすいでしょう。
ヒッタイト人とは?
ヒッタイト人は、アナトリア中央部に国を築き、ヒッタイト語を使った人々です。
ヒッタイト帝国には、ヒッタイト語を話す人々だけが暮らしていたわけではありません。アナトリアにはハッティ人、ルウィ人、パラ人などが暮らし、シリア方面にはフルリ人やセム系の言葉を使う人々もいました。
ヒッタイトは、こうした異なる言語や文化を持つ人々を含む国だったんですね。
ヒッタイト語は、インド・ヨーロッパ語族に属します。英語、ギリシャ語、ラテン語、ペルシャ語などと遠い関係を持つ言語です。
ヒッタイト語を使う人々がどこからアナトリアへ来たのかについては、詳しくわかっていません。外部から移住してきた人々が、先にアナトリアに暮らしていた人々と共に国を作ったと考えられています。
石の彫刻には王や兵士の姿が残っていますが、それだけでヒッタイト人全体の顔立ちを決めることはできません。現代の特定民族とそのまま同じ人々だと考えるのも難しいでしょう。
ヒッタイトの歴史
ヒッタイトの歴史は、アナトリアに王国を築いた時代、シリアへ進出した時代、大帝国となった時代、国力を失った時代という歩みをたどりました。
ハットゥシリ1世が王国を拡大する
紀元前17世紀ごろ、ハットゥシリ1世がハットゥシャを王国の中心にしました。
ハットゥシリ1世はアナトリア各地へ遠征し、シリア北部にも軍を送りました。ヒッタイトが後に大国となるための基礎を築いた王です。
ムルシリ1世がバビロンを攻める
ハットゥシリ1世の後を継いだムルシリ1世は、さらに南へ進みました。
ムルシリ1世は北シリアのアレッポを征服し、その後はバビロンまで遠征しています。この攻撃によって、古バビロニア王国の第一王朝は終わりました。
ところが、ムルシリ1世は帰国後に暗殺されます。その後のヒッタイト王家では、王位をめぐる争いが繰り返されました。
シュッピルリウマ1世が大帝国を築く
紀元前14世紀に現れたシュッピルリウマ1世は、衰えていたヒッタイトを再び強国にしました。
シュッピルリウマ1世は、シリア北部を支配していたミタンニを破り、多くの都市や国をヒッタイトに従わせます。
カルケミシュやアレッポなどの重要な都市には、自分の息子を王として置きました。この時代にヒッタイトは、エジプトと並ぶ大国となったのです。
ムルシリ2世が帝国を守る
シュッピルリウマ1世の死後、息子のアルヌワンダ2世が即位しました。しかし、アルヌワンダ2世も疫病で亡くなります。
その後を継いだのが、弟のムルシリ2世です。
若い王が即位したため、ヒッタイトに従っていた国々では反乱が起こりました。ムルシリ2世は自ら軍を率い、西方のアルザワやシリア方面の反乱を鎮めています。
『天は赤い河のほとり』のカイル・ムルシリは、このムルシリ2世を主なモデルにした人物です。
ムワタリ2世がエジプトと戦う
ムルシリ2世の後を継いだムワタリ2世は、エジプト王ラムセス2世とシリアの支配をめぐって戦いました。
この戦いが、カデシュの戦いです。
エジプト側はラムセス2世の勝利を記録しましたが、ヒッタイトは戦いの後もカデシュ周辺を支配しています。一方が完全に勝った戦いとは言いにくいでしょう。
ハットゥシリ3世が平和条約を結ぶ
ムワタリ2世の弟ハットゥシリ3世は、エジプトとの関係改善を進めました。
ハットゥシリ3世とラムセス2世は平和条約を結び、互いの国を攻撃しないことや、外国から攻撃された場合には助け合うことを約束しています。
その後、ヒッタイト王女がラムセス2世の妃となりました。長く争った両国は、条約と王族の結婚によって協力する関係になったんですね。
ヒッタイトはなぜ強かった?
ヒッタイトが大国になった理由として、鉄の武器がよく知られています。
実際のヒッタイトの強さは、鉄だけで説明できません。
ヒッタイトは、アナトリアとシリアを結ぶ地域を支配していました。交易や軍の移動に重要な土地を押さえていたため、周辺国へ影響を及ぼしやすかったのです。
征服した国の王を残し、ヒッタイト大王に従う王として利用する方法も使いました。従属国は、兵士や貢ぎ物をヒッタイトへ提供します。
特に重要な都市には、ヒッタイト王家の王子を置きました。王族の結婚や条約も外交に使われています。
さらに、各地の兵士や戦車を集めることで、大規模な軍隊を動員できました。
ヒッタイトの強さは、軍事力、外交、従属国との関係を組み合わせたところにあったのです。
ヒッタイトと鉄
ヒッタイトは、鉄を使った国として有名です。
古い世界史の説明では、ヒッタイトが製鉄技術を独占し、鉄の武器で周辺国を征服したと書かれることもありました。
ヒッタイトが鉄を加工していたことは確かです。鉄製品や鉄に関する記録が残り、鉄は王への贈り物や貴重品として扱われていました。
一方、ヒッタイトが栄えた時代は青銅器時代です。軍隊で使われた武器や道具の多くは、青銅製だったと考えられています。
鉄は加工が難しく、初期には大量生産に向いていませんでした。ヒッタイト軍の兵士全員が鉄の剣を持って戦っていたわけではないんですね。
ヒッタイトだけが製鉄技術を持ち、その秘密を完全に独占していたという説についても、現在では慎重に考えられています。
ヒッタイトは鉄の利用に関わった重要な国ですが、鉄だけで大帝国を築いたと考えると、実際の姿から離れてしまいます。
ヒッタイトの戦車
ヒッタイト軍を代表する兵器の一つが戦車です。
古代の戦車は、馬に二輪の車を引かせ、その上に兵士が乗る乗り物でした。兵士が馬に直接乗る騎兵とは違います。
戦車には御者と戦士が乗り、槍や弓を使って戦いました。ヒッタイトの戦車には三人が乗ったと説明されることもありますが、すべての時代や部隊が同じ人数だったのかはわかりません。
戦車を使うには、馬を育て、御者を訓練し、車体を作る必要があります。多くの戦車を戦場へ送れること自体が、国の財力や動員力を表していました。
カデシュの戦いでは、ヒッタイトとその従属国から多数の戦車が集められています。
ヒッタイトを取り巻く国々
ヒッタイトの歴史を理解するには、周辺国との関係が重要です。
| 国や地域 | ヒッタイトとの関係 |
|---|---|
| ミタンニ | シリア北部をめぐって争った有力国 |
| エジプト新王国 | シリアをめぐって戦い、後に平和条約を結んだ |
| カッシート朝バビロニア | 王族同士の結婚や外交関係があった |
| アッシリア | ヒッタイト後期に東方から勢力を広げた |
| アルザワ | アナトリア西部にあった国で、ムルシリ2世が征服した |
| カシュカ族 | アナトリア北部に暮らし、ヒッタイト領へたびたび侵入した |
ヒッタイトは、すべての国を直接治めたわけではありません。
現地の王と条約を結び、ヒッタイト大王への忠誠を求める方法をよく使いました。反乱が起これば軍を送り、王族の結婚によって関係を深めることもあります。
ヒッタイトの王とタワナンナ
ヒッタイトの王は、政治や軍事を担う支配者でした。
同時に、神々を祭る最高位の男性神官でもあります。王は戦争だけでなく、各地の祭礼にも参加しました。
| 王 | 主な出来事 |
|---|---|
| ハットゥシリ1世 | ハットゥシャを中心に王国を拡大 |
| ムルシリ1世 | アレッポとバビロンへ遠征 |
| テリピヌ | 王位継承について規定を残した |
| シュッピルリウマ1世 | ミタンニを破り大帝国を築いた |
| ムルシリ2世 | 各地の反乱を鎮め帝国を維持した |
| ムワタリ2世 | カデシュの戦いでラムセス2世と戦った |
| ハットゥシリ3世 | エジプトと平和条約を結んだ |
| シュッピルリウマ2世 | 記録に残る最後のヒッタイト王 |
ヒッタイト王家で最高位にあった女性の称号が、タワナンナです。
多くの場合、国王の第一の妃がタワナンナとなりました。タワナンナは王の妻という立場に加え、国家の祭祀を担う最高位の女性神官でもありました。
夫である王が亡くなった後も、タワナンナの称号を持ち続けたと考えられています。そのため、新しい王の時代にも前王の妃が宮廷に残り、大きな影響力を持つ場合がありました。
ヒッタイト語と文字
ヒッタイト語は、インド・ヨーロッパ語族に属する古い言語です。
ヒッタイト人自身は、自分たちの言葉をネシリ、つまりネシャの言葉と呼んでいました。
文書には、主にメソポタミアから伝わった楔形文字が使われています。粘土板には、王の年代記、外国との条約、手紙、法律、祭礼、神話などが記録されました。
外交文書では、当時の国際共通語だったアッカド語も使われています。
石碑や印章には、アナトリア象形文字も使われました。この文字で記された言葉の多くは、ヒッタイト語に近いルウィ語です。
ヒッタイトの宗教と暮らし
ヒッタイトでは、多くの神々が祭られていました。
ヒッタイトは征服した土地の神々を排除せず、自分たちの祭礼に取り入れています。そのため、ヒッタイトの文書には「ハッティの千の神々」という表現が登場します。
代表的な神には、嵐の神と太陽女神がいます。王とタワナンナは、国を守る神々へ祈り、各地の祭礼に参加しました。
一般の人々は、農耕や牧畜を行って暮らしていました。大麦や小麦を育て、パンや酒を作り、羊、山羊、牛などを飼っています。
法律も粘土板に記録されていました。土地、結婚、家畜、窃盗、傷害などに関する規定が残っています。
ヒッタイトはなぜ滅亡した?
ヒッタイト帝国は、紀元前1200年ごろに首都ハットゥシャを中心とする支配を失いました。
記録に残る最後の王は、シュッピルリウマ2世です。その後の王や王家について、詳しい記録は残っていません。
ヒッタイトの滅亡は、海の民の活動と結び付けて説明されることがあります。
同じ時期、東地中海では多くの都市や王国が衰えました。エジプトの記録には、現在では海の民と呼ばれる集団も登場します。
海の民が東地中海の混乱に関わったことは確かです。しかし、海の民がハットゥシャを攻めたという記録は残っていません。
食料不足、交易の混乱、従属国の離反、王家の対立、周辺国との争いなど、複数の問題が関係した可能性があります。
ヒッタイト帝国が消えた後も、ヒッタイト文化を受け継ぐ人々は残りました。シリア北部やアナトリア南東部では、後期ヒッタイト諸国と呼ばれる国々が続いています。
『天は赤い河のほとり』とヒッタイト
『天は赤い河のほとり』の中心となる時代はシュッピルリウマ1世の晩年からムルシリ2世の時代をもとにしています。
作品に登場するカイル・ムルシリの主なモデルは実在したムルシリ2世です。
父シュッピルリウマ1世、兄アルヌワンダ2世、弟ザンナンザにも実在した王家の人物がいます。
ユーリ・イシュタルは架空の人物です。現代の日本から古代ヒッタイトへ召喚され、後にカイルの妃となります。
ナキアも作品のために作られた人物ですが、バビロニア王家出身でシュッピルリウマ1世の妃となったマルニガルとの共通点があります。
ヒッタイトの遺跡
ヒッタイトの首都ハットゥシャは、現在も遺跡として残っています。
遺跡には、城壁、王宮跡、神殿、獅子門、王門、スフィンクス門などがあります。多数の楔形文字粘土板も発見されました。
ハットゥシャの近くには、ヤズルカヤと呼ばれる岩の神殿があります。岩壁には、神々の行列やヒッタイト王の姿が彫られています。
アラジャホユックにも、ヒッタイト時代の門やレリーフが残っています。
建物の上部や屋根は失われていますが、巨大な石の門や城壁を見ると、ヒッタイトが古代オリエントを代表する大国だったことが伝わってきます。
関連記事:ヒッタイトの首都ハットゥシャと遺跡
まとめ
ヒッタイトは、紀元前17世紀ごろから紀元前12世紀初めまで、現在のトルコ中央部を中心に栄えた古代国家です。
首都はハットゥシャにあり、最盛期にはシリア北部まで支配しました。エジプト、ミタンニ、バビロニア、アッシリアなどと、戦争や外交を行っています。
ヒッタイトは鉄を利用していましたが、鉄の武器だけで大国になったわけではありません。
戦車軍、従属国との条約、王族の配置、婚姻外交など、さまざまな方法を使って広い地域を治めました。
紀元前1200年ごろにヒッタイト帝国は消えましたが、その原因を一つに決めることはできません。帝国が消えた後も、シリア北部などではヒッタイト文化を受け継ぐ国々が続いています。
『天は赤い河のほとり』には、ヒッタイトの王や王妃、周辺国、戦争、外交など、史実をもとにした要素が数多く登場します。
ヒッタイトの歴史を知ると、カイルやユーリが生きた世界の背景が、さらにわかりやすくなるのではないでしょうか。


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