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ムスタファ皇子:父スレイマン1世によって処刑された悲劇の皇子

オスマン帝国国旗

ムスタファ皇子はオスマン帝国10代皇帝スレイマン1世の息子。

シェフザーデ・ムスタファともいいます。

ムスタファ皇子は兵や人々から人気があり、有力な王位継承者といわれました。でも謀反の疑いをかけられ皇帝の命令で処刑されてしまいます。

トルコドラマ「オスマン帝国外伝・愛と欲望のハレム」にも登場します。

史実のムスタファはどんな人だったのか紹介します。

 

目次

シェフザーデ・ムスタファの史実

ムスタファ皇子

1584年にヨーロッパで描かれたムスタファ皇子

commons.wikimedia.org

名前:ムスタファ(Mustafa)

地位:オスマン帝国皇子(シェフザーデ:Şehzade)
生年:1515年
没年:1553年
享年:38

父:スレイマン1世
母:マヒデヴラン
妻:ルメイサ・スルタン、ベガム・ノルチャン・ハトゥン、ミフルニッサ・スルタン
側女:ファトマ・ハンダン・ハトゥン、他
子供:
ネルギシャ 1536年。
スレイマン 不明 早逝
アフメドあるいはオルハン 1552年死亡。
メフメト 1547-1553年。ムスタファの死後に処刑。
シャー 1547-1577年。

ムスタファ(Mostafa)はイスラム教の預言者ムハンマドの別名。イスラム圏ではよくある名前です。「選ばれた者」「優先された者」という意味です。

父スレイマン同様に詩が好きでした。Muhlisî(ムフリス)というペンネームも持っています。

いつの時代の人?

彼が生きた時代は9代セリム1世や10代スレイマン1世が領土を拡大してオスマン帝国が最も栄えていたころです。

日本では戦国時代。斎藤道三(1494-1556)や武田信玄(1521-1573)とほぼ同時代です。

ムスタファのおいたち

 1515年。オスマン帝国の都市・マニサで生まれました。

父はスレイマン。スレイマンのシェフザーデ(皇子:Şehzade)時代に生まれた子供です。当時のスレイマンはマニサ県で知事をしていました。

母はスレイマンの愛妾マヒデヴラン。

スレイマンにとっては次男。

マヒデブランにとっては最初の男子になります。

ムスタファは見た目や立ちふるまいが祖父セリム1世に似ていたといいます。

1520年。祖父の皇帝セリム1世が死去。父のスレイマンが即位しました。父や母とともにマニサからイスタンブルのトプカプ宮殿に移り住みました。

1522年にスレイマンの長男マフムードが10歳で病死したため、ムスタファが有力な後継者として育てられました。事実上の長男です。

母マヒデブランはスレイマンの寵愛を受けた愛妾でした。

スレイマンはトプカプ宮殿に新しく来た側女ヒュレムを寵愛します。スレイマンとヒュレムとの間には4人の男の子が生まれました。メフメト(Mehmed)、セリム(Selim)、バヤジト(Bayezid)、ジハンギル(Cihangir)です。

とくにメフメト、セリム、バヤジトは王位継承者のライバルになりました。ジハンギルは若くて病弱だったのでライバルにはならなかったようです。

ヒュレムはスレイマンのお気に入りでした。

しかし宰相のイブラヒムもムスタファを支持していました。イブラヒムはムスタファを訓練して一人前の戦士に育てました。王位を次ぐ者ににふさわしい教育を行いました。

1529年。トルコ北部の町・カラマンの知事になりました。オスマン帝国の皇子は経験を積むために知事になることがよくありました。

マニサの知事・事実上の皇太子に

1533年。ムスタファはマニサの知事になりました。マニサは首都イスタンブルに近く有力な皇子が知事になることが多かったのです。マニサに来たムスタファを見て町の人々は将来の皇帝がやってきたと歓迎しました。

各国の大使もムスタファを優れた皇子だと本国に伝えました。

しかしスレイマン1世はメフメトが後継者としてふさわしいのではないかと考え始めます。メフメトも優秀な皇子だったといわれますが、それ以上に皇帝妃になったヒュッレムの影響があったのでしょう。

1533~34年の間にヒュレムがスレイマン1世と結婚。スレイマンには何人もの愛妾はいましたが正式な妻はいませんでした。ヒュレムが正妻になってしまったのです。

1536年。大宰相のイブラハムが処刑されました。ムスタファは有力な支援者を失ってしまいます。

マニサからアマスヤに異動

1541年。ムスタファはアマスヤの知事になりました。かわりにマニサの知事になったのはメフメトでした。バヤジトはキュタヒヤの知事になりました。キュタヒヤとマニサはイスタンブルからほぼ同じ距離にあります。

1543年。メフメトが病死します。王位継承者のライバルはいなくなったかのように思われました。

1544年。マニサの知事になったのはセリムでした。

1549年。ムスタファはコンヤの知事になりました。

ムスタファが知事を任された都市はこのような位置にあります。

ムスタファ皇子の赴任先

マニサがイスタンブルに最も近く、次第に遠くに移動しています。アマスィヤは黒海やサファビー朝にも近く、東の国境を守る重要な都市です。コンヤは地方都市なので皇子の赴任先としては重要性は低いです。

 都市の説明についてはこちらをどうぞ。

マニサ・アマスヤ・コンヤ・オスマン帝国の皇子たちが暮らした都市

父スレイマン1世の命令で殺害される

1553年。オスマン帝国はサファビー朝イランとの戦争中にリュステム・パシャがムスタファにスレイマンの軍に合流するよう伝えます。

スレイマン1世がムスタファを殺そうとしているという噂を聞いたマヒデブランは、ムスタファにスレイマン1世のもとには行かないように伝えました。しかし、ムスタファはスレイマン1世のもとへ行きます。

一方で、リュステム・パシャはムスタファが謀反を企んでいるとスレイマン1世に報告します。リュステム・パシャはヒュレムの娘婿。ヒュレムのおかげで出世したのでヒュレムの息子を王位につけようとしていました。

既に高齢のスレイマン1世は軍を率いて合流しようとやってきたムスタファを見て驚異になるに違いないと考えてしまいました。ムスタファの処刑を命令します。

ムスタファは呼び出されてスレイマンのいるテントに向かいます。しかしそこにはスレイマン1世はいませんでした。そこにいたのは兵士たちで一斉にムスタファに襲いかかってきました。ムスタファも必死に反撃して戦いましたが最後は絞殺されてしまいます。享年38。

ムスタファには息子メフメトがいましたがメフメトも処刑されました。

ムスタファの死の影響

ムスタファが死亡した数週間後に末弟のジハンギルが死亡しました。ジハンギルはもともと病弱でしたがムスタファとは仲がよかったのです。ジハンギルは自分の兄弟を殺そうとする母には反感をもっていたといいます。ジハンギルの直接の死因は分かっていませんが、ムスタファの死が影響しているといわれます。

イエニチェリ(常設歩兵軍団)の兵たちはムスタファを慕っていました。ムスタファの死を聞いた兵たちは反乱を起こします。スレイマン1世を「狂った年寄り」と批判。スレイマン1世を惑わせたリュステム・パシャとヒュッレムの処刑を主張しました。そこでスレイマン1世は兵たちを鎮めるためリュステム・パシャを解任しました。

ムスタファは悲劇の王子として有名でヨーロッパでは様々な文学の題材になっています。

ムスタファの死後、多くの詩人たちがムスタファの死を悼む詩を作りました。生前のムスタファも詩を作り、詩人たちと交流していました。ムスタファには詩人仲間が多かったのです。その中でもとくに有名なのがタシュルジャルの作った詩です。タシュルジャルの詩は市民の反響をよんだためリュステムが処刑しようとしました。しかしスレイマンの命令で地方に左遷になりました。

ムスタファの死の8年後、フランスの作家ガブリエルブナンはムスタファの死を題材にした劇を作りフランスで上演されたました。フランスでオスマン帝国の物語が上演されたのはこれが初めてでした。そのくらい有名になったのです。

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