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ムスタファ皇子の最期・スレイマン1世が息子を処刑するまでのいきさつ

オスマン帝国

オスマン帝国の10代皇帝・スレイマン1世にはムスタファという皇子がいました。

ムスタファ皇子は国民や兵たちからも人気のある皇子でした。ところが1553年。スレイマン1世は息子のムスタファ皇子を処刑してしまいます。

その原因はスレイマン1世が寵愛していた正妃ヒュッレムの息子セリムかバヤジトを後継者にしたかったからとも言われます。

息子の命がかかっているヒュッレムや娘婿のリュステム・パシャがムスタファ皇子を亡き者にしたいと思うのは当然かも知れません。

でもムスタファ皇子は政敵や王位継承のライバルに暗殺されたのではありません。父親のスレイマン1世の命令で処刑されたのです。

なぜスレイマン1世はムスタファ皇子を処刑したのでしょうか?

なぜムスタファ皇子は父親の命令で殺されなければいけなかったのでしょうか?

目次

衰えた皇帝のまわりで憶測が飛び交う

1548~1549年。オスマン帝国とイランのサファビー朝が戦いました。戦争終結後。オスマン帝国軍は撤退。

50歳を越えた皇帝スレイマン1世は病に悩まされるようになりました。

兵士たちの間には皇帝の病気は重いのではないか?
もう軍を率いることはできないのではないか?
と動揺が広まりました。
中には「陛下はムスタファ皇子に皇帝の座を譲る気なのだ」と言う兵士もいました。

スレイマン1世は周囲の者から「ムスタファ皇子は皇帝の座を狙っている」と聞かされましたが信じたくありませんでした。

ムスタファ皇子の救援要請を無視するリュステム

一方で、オスマン軍がイランから撤退後。イラン軍は何度もオスマン帝国領に侵入、略奪を行っていました。

オスマン領東部を守るムスタファ皇子は何度もイスタンブールに援軍要請を出しました。でも大宰相リュステムは適当に返事して援軍を出しませんでした。もしムスタファ皇子がイラン軍を討伐して手柄を立てれば後継者争いで有利になるからです。

リュステム・パシャは海軍提督に自分の弟のシナン・パシャを任命。ムスタファ皇子が勝手に海を渡ってイスタンブールに来ることができないようにしました。

皇子を陥れるワナ

さらにリュステムはイランのシャー・タフマースブがムスタファ皇子あてに出したとされる手紙をスレイマン1世に見せました。(ヒュッレムが見せたという説もあります)

その手紙には、ムスタファ皇子がタフマースブの娘と結婚してイランの援助を受けてオスマン帝国の皇帝になる。と書かれていました。

おそらく、リュステムがムスタファ皇子の印章を偽造してイランのシャー・タフマースブに手紙を書き。ムスタファ皇子がイランのシャーと同盟を結びたがっているように見せかけたのでしょう。

イランのシャー・タフマースブは返事を出し。リュステム・パシャはその返事を受け取ってスレイマン1世に見せたのだと思われます。

スレイマン1世は最初は信じようとはしなかったと言われますが、ムスタファ皇子への信頼が薄れていきました。

現在この手紙はトプカプ宮殿に保管されています。本当にムスタファ皇子がイランと謀反を計画していたのか?リュステム達の偽造なのか?それともスレイマン1世がムスタファ皇子の処刑を正当化するためにでっち上げたものなのかは不明です。

本当にムスタファ皇子がイランとつながっていたら、スレイマン1世の呼び出しを受けたときに出ていったりはしなかったはず。イラン軍とともに挙兵すればよかったはずです。ムスタファ皇子が挙兵すれば付いてくる兵たちも多くいたでしょう。

でもそれをせず無防備に父親の前に出ていったということは。ムスタファ皇子に謀反を起こす気はなかった。手紙は捏造されたものといえます。

スレイマン1世はイランとの開戦を決意

1552年。イラン軍のオスマン領への侵入はスレイマン1世の耳にも届き、放置できない問題になりました。でもスレイマン1世は相変わらず病気がちです。リュステムが軍を率いて遠征することになりました。

1552年9月ごろ。リュステムは5万のオスマン帝国軍を率いてイスタンブールを出発。

ところが途中でイスタンブールからスレイマンの病は重いと報告がありました。リュステムと兵士たちに動揺が走ります。

大宰相の命令を聞かない兵士たち

冬になってリュステムが率いるオスマン軍が中央アナトリアにさしかかったところで事件は起きました。兵士たちはリュステムのいう事を聞かなくなくなり将来の皇帝であるムスタファ皇子に仕えたいと言い出したのです。

別の報告では、大雪が降り軍の行進が遅くなったのでリュステムは野営して冬を越すと発表。それに我慢できなくなった兵士達が戻りたいと懇願したところリュステムが拒否。そこで兵たちはリュステムには従えないと怒り出したのだと言います。

ある説では。野営地はムスタファ皇子の赴任先に近い場所でもあったので。兵士の中にはムスタファ皇子に挨拶に行きたいと言う者がいて。リュステムは断ったら殺されると思い兵士たちを行かせたとか。

ムスタファ皇子に会った兵士たちは皇子の手にキスをして敬意を表したと言います。このとき兵の中のある男が「あなたの偉大な父は年老いた。もう軍を率いることができません。そのためリュステム・パシャを最高司令官に任命しアナトリアに送りました。このパシャはあなたに悪意があります。でも今あなたがやってきて彼の頭を落とせば、あなたの目的は実現します」とそそのかしたともいいます。

でも、ムスタファ皇子はリュステムを斬ることはありませんでした。でも兵士たちの忠誠を拒否した様子もありません。兵士たちはその後、ムスタファ皇子に連れられてリュステムと合流しました。そのときムスタファ皇子に従った兵は約5000人だったといいます。

大宰相は皇帝の代理人。その命令に従わないということは皇帝の命令を聞かないのと同じです。この件で大宰相が軍のコントールを失いかけていることがわかりました。

リュステムはイスタンブールに使者を送り「兵士たちは皇帝の命令を聞くつもりはなく、ムスタファ皇子に仕えることを望んでいる」と報告、スレイマン1世の出陣を求めました。スレイマンは自ら遠征することを決断しました。

スレイマン1世がムスタファ皇子の粛清を決意?

スレイマン1世がいつムスタファ皇子の処刑を決断したのか記録はありません。

しかし兵たちは大宰相の言う事を聞かなくなくなりつつあります。この事件はスレイマン1世に衝撃を与えたかもしれません。

かつてセリム1世がイエニチェリの協力を得て兄たちを粛清、父のバヤジト2世を退位に追い込みました。

ムスタファ皇子は確かに兵たち支持を受け入れていました。皇帝の座への野心はありましたが、セリム1世のように父を排除して皇帝になるつもりはありません。父のあとを受け継ぎたいと思っていたのです。そのことは自分を支持する高官にあてた手紙にもはっきり書いています。

でもこのときのスレイマン1世はすでにムスタファ皇子を信用できなくなっていました。「自分が祖父バヤジト2世のようになるかもしれない」と思ったかもしれません。

また。スレイマン1世はイスラム長老のエブッスードに相談。イスラム法ではこういうときどうすべきか聞いて決断したともいいます。

そしてスレイマン1世はムスタファ皇子の処刑を決断した。と考えられます。

ムスタファ皇子の最期

ムスタファに出頭命令が来る

1553年8月。イスタンブールにイランの使者がやってきました。オスマン軍がやってくると知ったシャー・タフマースブが和平のために派遣したのです。このときムスタファ皇子とイランの同盟について話題がでたかどうかは不明です。

1553年8月28日。スレイマン1世はイランの使者をイスタンブールに拘束したまま、軍を率いてイスタンブールを出発しました。

スレイマン1世はエレグリ(コンヤの南西にある平原)でリュステム・パシャと合流。ムスタファ皇子に合流するように指示を出しました。

ムスタファ皇子はスレイマン1世の命令を受け取りました。マヒデヴランや側近たちは行かないように言いました。でもムスタファ皇子は自分の忠誠心が疑われているのを知っているので、放置しておけば更に状況が悪くなる。自分が行って話せば理解してもらえる。と軍を率いて父のもとに向かいました。

ムスタファ皇子の処刑

Mort de Mustapha.jpg

「ムスタファ皇子の最期」1747年パリで発行されたもの。フランス人が想像で描いたので実際とは違う部分もあります。

出典:wikipedia.org

 

ムスタファ皇子の軍が動いたことはリュステム・パシャからスレイマン1世に報告されました。そしてムスタファ皇子は陛下を殺しに来るに違いありません。と報告しました。

このとき既にスレイマン1世はムスタファ皇子を処刑するつもりだったはずです。リュステムとしては、ここにきてスレイマンに情が出て処刑を思いとどまるのをやめさせようと最後の決断を促したのでしょう。

9月21日にはセリム皇子も到着。スレイマン1世に挨拶しました。

10月5日。ムスタファ皇子が野営地に到着。兵士たちはムスタファ皇子の到着を歓迎しました。彼を慕う役人たちもやってきてムスタファ皇子に挨拶しました。

10月6日。ムスタファ皇子はスレイマン1世から与えられた白い長衣(カフタン)を来て挨拶するため皇帝の天幕まで来て馬を降り、歩いていきました。するとリュステム・パシャがやってきて皇帝がいるという天幕に案内されました。

ムスタファ皇子は皇帝に挨拶するために天幕の中に入りました。

中にはスレイマン1世がいました。「犬め、まだ余に敬礼するつもりがあるのか」と言った後。控えていた死刑執行人にムスタファ皇子を処刑するよう命令しました。

別の説ではスレイマン1世は直接対面したのではなくカーテンの向こうにいたとも。無言だったとも言われます。

どちらにしても皇帝の命令を受けた死刑執行人はムスタファに襲いかかりました。ムスタファ皇子は死刑執行人を振り切って逃げようとしました。最初の攻撃は振り切りましたが、しかし最後は3人の死刑執行人に取り押さえられ首を絞め殺されました。

あるいは最後にとどめを刺したのは警備隊長のザール・マフムートだったとも言われます。

処刑後

ムスタファ皇子が処刑された直後、彼に付いてきた側近たちも処刑されました。

ムスタファ皇子の遺体はウラマー(イスラム教の聖職者)によって祈りが捧げられ、皇子の格式で葬式が行われました。

ペルシャ絨毯の上にムスタファ皇子の遺体が寝かせられ、ムスタファ皇子とイランのシャー・タフマースブとのつながりを示す書類が一緒に展示されたといいます。

もしかすると「ムスタファ皇子とシャー・タフマースブの手紙」はスレイマン1世の指示で用意されたのかもしれません。老いて病んでいく自分の代わりに支持を集める皇子を葬るために。あるいは不穏分子の受け皿になりつつあるように見える皇子を排除するため。その口実として。もちろん今となっては真実はわかりません。

ムスタファ皇子は皇帝に反乱を起こそうとした謀反人として処刑されたのです。

 

スレイマン1世がムスタファ皇子処刑の決断をした理由についてはこちらでも詳しく紹介しています。

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