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スレイマン1世がムスタファ皇子を処刑した理由

ムスタファ皇子処刑

ムスタファ皇子(Şehzade Mustafa)はオスマン帝国 第10代皇帝・スレイマン1世の息子。

兵士や人々からの人気も高かった皇子です。でも1553年に父のスレイマン大帝の命令で処刑されてしまいました。処刑した直接の理由は「謀反を起こそうとしたから」。

でもそれだけが理由ではありません。皇子を処刑するためには「根拠」が必要なのでもっともらしい理由が作られます。むしろ「イランと内通した」というのはムスタファ皇子を処刑するための口実。スレイマン1世がムスタファ皇子を処刑したかった理由は他にもありそうです。

なぜスレイマン1世は息子のムスタファ皇子を殺したのか。本当のことはスレイマン本人に聞かないとわかりません。でも当時のムスタファ皇子のおかれた環境を見ればある程度わかります。

どうしてムスタファ皇子が処刑されなければいけなかったのか考えてみます。

目次

スレイマン大帝がムスタファ皇子を処刑した理由

イェニチェリ(常備歩兵軍団)たちに人気があるから

オスマン帝国の軍隊にはいくつかの部隊があります。イェニチェリはそのひとつ。もともとは皇帝直属の親衛隊でした。城攻めには歩兵が必要なので数が増やされ。鉄砲も装備。当時のヨーロッパでも最強クラスの精鋭部隊になりました。イェニチェリはデヴシルメで領内から徴兵された人たち。全員が皇帝の下僕です。

イェニチェリは故郷から切り離されているので皇帝しか頼るものがありません。逆にいうと皇帝への期待が大きいです。自分たちの生活を保証してくれない皇帝は必要ありません。ところが当時のオスマン帝国は不景気でした。給料で生活している兵士は物価の高騰で生活が苦しくなります。そこで遠征でもらえる恩賞を期待しているのです。

だから遠征せずに宮殿に引きこもっているスレイマン1世には不満でした。俺達の苦労がわかってない、自分だけいい生活をしている。そんな皇帝には忠誠を誓う気にはなれません。

皇帝が元気な姿を見せて軍隊を引っ張っていればイエニチェリは大人しく従います。彼らは皇帝に逆らう気はありません。自分たちの生活を保証してほしいだけです。

それができない場合は、イブラヒムやカラ・アフメト、ソコルル・メフメトのように大宰相がうまくカバーすればいいのです。でもリュステムは経済や外交は得意ですが軍隊の指揮は得意ではありません。

そこでスレイマン1世を見限ってやる気のありそうな皇子に期待が集まるのです。

メフメトも有能でしたが若くして亡くなってしまいます。セリムは内向的で兵士に人気のあるタイプではありません。バヤジットも勇敢でしたが。ムスタファとの経験の差(10歳離れている)は大きいです。同じ勇敢な皇子ならムスタファに人気が集まってしまいます。

過去に反乱を起こして父を退位させた皇子がいるから

イェニチェリに人気のある皇子と関わる問題です。

オスマン帝国では過去に衰えた皇帝が息子に反乱を起こされて退位させられたことがありました。

8代皇帝バヤジット2世はイェニチェリを味方につけた息子のセリムに譲位を迫られ退位。セリム1世が即位しました。セリム1世は二人の兄とその息子を処刑。バヤジットも退位して2ヶ月後に謎の死を迎えます。

セリム1世はスレイマン1世の父親。スレイマン1世は父が祖父から皇帝の座を奪った。そして殺したかもしれないのを知ってます。

セリム1世はその冷酷さからヤヴズ(冷酷)セリムとあだ名されました。

スレイマン1世は自分も祖父のようになるかもしれない。という恐怖感はあったでしょう。

ムスタファ皇子はセリム1世に似てるから

スレイマン1世の息子の中で一番セリム1世に似ていると言われたのがムスタファです。

ムスタファは背が高くて男前。見た目や仕草までセリム1世に似ていたと言われます。

交流のあった詩人の中にはムスタファはスレイマン1世に似ているという人もいました。祖父・父・息子なのだから当然かもしれません。少なくとも皇子たちの中では祖父や父に一番似ていたのでしょう。

セリム1世はヤヴズ(冷徹)セリムと言われました。ヤヴズは日本語で「冷酷」と訳されます。でもこの日本語訳は正しくありません。ヤヴズには「断固とした態度をとる」「意志の強い」という意味もあります。ヤヴズはただ残酷という意味ではなく、肯定的な意味もあります。セリム1世は反乱鎮圧を行ったり他国との戦争に勝ち。領土を広げ強いオスマン帝国を作り上げました。

まわりを敵に囲まれている国では強い王が求められました。古参の兵士や高官たちはムスタファをセリム1世の再来と期待したのです。

でもそんなセリム1世に似ているムスタファだからこそ。スレイマン1世は父を思い出して不安になったのかもしれません。

トルコ貴族 対 皇帝の下僕の争いに巻き込まれたから

オスマン帝国の皇帝の下で国を動かしているのは貴族ではありません。

皇帝の下僕(カプクル)です。

初代オスマンが挙兵した時、メフメト2世がイスタンブールを攻め落とした時。彼らとともに戦ったのはトルコ人の豪族だったり部族長とその仲間。彼らがトルコ貴族の祖先。でもメフメト2世以降の皇帝達は貴族に邪魔されずに自分の政治をしたくてたまりません。独裁したいのです。

そこで奴隷を高官にしてトルコ貴族に対抗させました。

皇帝の手先となって貴族と対立したのがカプクル(家の下僕)と呼ばれる人たち。デヴシルメで集められ、高等教育を受けて高官になった人たちです。カプクルは時代と共に増えてセリム1世、スレイマン1世の時代の大宰相はほとんどカプクル。とくにスレイマン1世が任命した大宰相は全員カプクルです。イブラヒムもリュステムもソコルルもトルコ貴族ではありません。皇帝の下僕、皇帝の奴隷です。

当然、出世の道を閉ざされたトルコ貴族は面白くありません。

スレイマン1世のやりかたが不満。そこで若い皇帝を担いで自分たちが政治に復帰しようと目論んでいました。ムスタファを支持していた高官達の中にはそのようなトルコ貴族がいました。

ドラマ「オスマン帝国外伝」ではピーリー・レイスと仲間たちがトルコ貴族の立場を代弁しています。現実にはドラマみたいな秘密組織はありませんけれど。トルコ貴族たちがムスタファを支持していたのは事実です。

ムスタファが彼らのためにトルコ貴族の政治を取り戻すと約束したことはありません。勝手に期待しているだけです。でもスレイマン1世にとっては支持されているだけでも認められません。ドラマのスレイマンのセリフではありませんが「そんなの慰めにもならん」のです。

没落豪族の不満の受け皿になったから

スレイマン1世の時代。イスラム教スンニ派の教えを元にした法律が整えられ、国の仕組みも色々変わりました。

新しい秩序ができる一方で、新しい社会に馴染めない人、阻害される人達も出てきます。

オスマン帝国は昔からいるトルコ人豪族や支配地域の豪族・部族長をスィパーヒー(在郷騎士)に任命。治安維持や税の徴収を任せました。彼らは戦争があるとオスマン軍の一員として戦いました。トルコ人はもともと遊牧騎馬民族。騎馬での戦いが得意です。オスマン帝国の支配下に入った人たちはスィパーヒーと呼ばれました。でもオスマン帝国がヨーロッパと戦争するようになるとスィパーヒーはあまり役に立たなくなります。騎兵は城攻めには仕えませんし、鉄砲や大砲の時代になったからです。

そこでスィパーヒーを解体。イェニチェリを増やし、税の徴収方法も新しく作りました。新しい制度は中央から地方へどんどん広まります。新しい制度に入り込めなかったスィパーヒーたちは没落。軍人になる者もいましたが。盗賊集団になるものもいました。

没落した人たちはスレイマン1世や新しい税の徴収制度を広めたリュステムは許せません。生活に不安を感じる地方の名士たちはムスタファを支持しました。

でもムスタファは反乱は起こさず処刑されました。

スレイマン1世はなぜムスタファが支持されているのかわからなかったでしょう。「皇帝ではなく皇子を支持する不埒な者共」くらいにしか思ってなかったかもしれません。自分たちは国を良くするためにやっている、なぜわからんのだ。と思ったかもしれません。

でも地方の豪族にとっては、国庫が潤っても自分たちが生活できなくなったら意味ありません。

彼らが期待したのがムスタファです。

現実にはムスタファは反乱は起こしませんでした。

でもその後の偽ムスタファ事件バヤジットの反乱で戦いに参加したのは彼ら社会の変化に取り残された人たちです。

スレイマン1世の時代はまだスィパーヒーの没落は始まったばかり。それほど大きな勢力にはなってません。バヤジットも正規軍を味方にしたセリムにあっけなく敗れています。でもスィパーヒーの没落はこの先も続き17世紀には各地で反乱が起こります。

ヒュッレムの息子じゃないから

最大の理由はこれでしょう。

ヒュッレム妃はスレイマンが寵愛した女性。その溺愛ぶりは凄まじく、ヒュッレムのためにオスマン帝国の慣習(ルール)を次々破りました。

オスマン帝国の慣習では
・側女の息子は一人まで。
・皇帝は側女とは結婚しない。
・皇子が知事になって赴任したら生母も一緒に赴任先で暮らす。

というルールがありました。でもスレイマンはことごとく破ってヒュッレムとの間に4人の息子をもうけ。ヒュッレムを奴隷の身分から解放して正式に結婚。息子のメフメトやセリム、バヤジットが県知事になって赴任してもヒュッレムをトプカプ宮殿に住まわせました。

スレイマン1世の先代まではハレムはエスキサライ(旧宮殿)にありました。ハレムをトプカプ宮殿の敷地内に作ってそこに側女達を集めたのもスレイマンの時代から。最初は母ハフサをトプカプ宮殿に呼ぶためだったようです。

さらに。

皇帝の母はスレイマンの前までは「ヴァリデ・ハトゥン」と呼ばれました。スレイマンは母の地位を上げて「ヴァリデ・スルタン」。皇子の母の呼び名を「ハセキ・スルタン」に変えました。

宰相経験のない小姓頭イブラヒムを大宰相にしたこともあります。

とにかくスレイマン1世は「これがいい」と思ったら前例破りも平気でやってしまう型破りな皇帝でした。

ヒュッレムが自分の息子を次の皇帝にしたいと思うのは当然です。スレイマン1世も溺愛した女性の息子を跡継ぎにしたいと思ったことでしょう。

まずこれをクリアしないとムスタファに生き残る道はありません。

でも不可能です。

ヒュッレムがスレイマン1世の正妻になった時点でムスタファの人生はほぼ終わりました。残りの人生はそこからなんとか生き残ろうともがいた人生です。

でもやればやるほどスレイマンの希望から遠ざかってしまいます

セリムとバヤジットのようにヒュッレムの息子同志でも争いは起こり、バヤジットは処刑されました。でもヒュッレムが生きている間は息子たちの殺し合いはありませんでした。

もしセリムとバヤジットよりも優勢な後継者がヒュッレムの息子だったら。その後の悲劇もなかったかもしれません。慣習を壊すのが得意なスレイマンの息子ですから。

ムスタファ皇子の背後にいるもの

ムスタファ皇子は様々な人達から支持されました。単に人柄や勇敢だ、人徳がある。という理由だけではありません。

それぞれの立場の利益や自分の生活のために支持していました。

ドラマ「オスマン帝国外伝シーズン4」ではバヤジットが「兄上がイランと内通したとは信じられない」セリフがあります。それに対してルメリ総督兼宰相ソコルルは「皇子の背後にいる勢力が問題なのです」というセリフがありました。ドラマは作り話ですが。歴史的上のムスタファが置かれた立場をよく表現しています。もはやムスタファ個人が何をしたかは問題ではありません。

スレイマン1世に不満を持つ者が皇子を担いで反乱を起こすのが問題なのです。

現実には同じムスタファ支持派でもイェニチェリとティマールでは立場が違います。トルコ人貴族も思惑は違います。

スレイマンの世に不満を持つ人達の中にはムスタファをそそのかす人もいました。でもムスタファ自身は反乱を起こさずに微妙なバランスを保っていました。

でも微妙なバランスを保っていたムスタファが処刑された時。

歯止めのなくなった人々の不満がどこかで爆発します。

それが偽ムスタファの反乱やバヤジットの反乱です。

そしていくら皇子を粛清しても反乱の種はなくなりません。社会そのものに問題があるからです。そして17世紀。オスマン帝国では不満を持つ人々が勝手に反乱を起こすようになります。その混乱の時代が「キョセム」の生きた時代です。

 

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