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セリム皇子対バヤジット皇子の争い、その結末

セリムバヤジット皇子赴任先

オスマン帝国の10代皇帝スレイマン1世には5人の成人した息子がいました。

その中で最後まで後継者の座を争ったのがセリム皇子とバヤジット皇子です。スレイマン1世の晩年は後継者争いが激しくなり、セリム皇子とバヤジット皇子は軍を率いて戦ってしまいます。

勝ったのは父を味方につけたセリム皇子でした。

負けたバヤジット皇子はイランに亡命したものの最期は処刑されてしまいます。

ムスタファ皇子処刑の直後からおこった後継者争いの最終ラウンド。

セリム皇子とバヤジット皇子の争いを紹介します。

目次

偽ムスタファ事件でバヤジットが黒幕にされる

 

オスマン帝国

1553年。皇帝スレイマン1世は息子のムスタファ皇子を謀反の罪で処刑。

ムスタファの死後。1ヶ月ほどしてジハンギルも死亡。

後継者争いはセリム皇子とバヤジット皇子に絞られました。

1553~1555年の間。スレイマン1世はイラン遠征を行いました。セリムはスレイマン1世とともに遠征しました。その間、バヤジットはエディルネ宮殿に入りヨーロッパ側の守備を任されていました。

1555年。スレイマン1世はイラン遠征を終えてイスタンブールに戻ってきました。

そのころ、ルメリ州(ルメリア)で反乱が起きました。彼らはスレイマン1世の統治に不満を持つ者たち。非正規兵や没落した豪族たち野盗集団家した人々が勝手にムスタファ皇子の知名度を利用しているのです。

エディルネにいたバヤジットはスレイマン1世に報告。反乱を知らされたスレイマン1世は第三宰相兼ルメリア総督のソコルル・メフメト・パシャに反乱軍の討伐を命令しました。

バヤジットも反乱鎮圧のために部隊を派遣。ニコポル(現在のブルガリア北部)の県知事メフメトハンにも鎮圧を命令しました。しかし鎮圧軍の編成に手間取り派遣が遅れてしまいました。

そうしている間にソコルル・メフメト・パシャの軍が出動。

偽ムスタファは東トラキア周辺であっけなく捕まりました。ソコルルに引き渡されたあとイスタンブルに連行され処刑になりました。

この事件でスレイマン1世はバヤジットの対応が遅いと不満でした。

「バヤジット皇子が黒幕」の噂が流れる

さらにバヤジットが反乱を扇動しているという噂も流れました。当時、イスタンブールにた神聖ローマ帝国の大使は「セリムが皇帝なったときに殺されるのを防ぐため、裏で反乱を扇動した」と知人に手紙を書いています。

当然、スレイマン1世の耳にも「バヤジットが反乱の黒幕」という噂も届たいでしょう。スレイマンは怒ってバヤジットを処分しそうな勢いでした。それを知ったヒュッレムはバヤジットをかばいスレイマン1世をなだめてました。バヤジットに処分はなく赴任先のキュタフヤへに戻るように命令がありました。

バヤジットはほっとして父スレイマン1世に「私はあなたの下僕」と感謝の言葉を残してます。

ムスタファの死後。セリム皇子は後継者の座は安泰と安心しきって動かなかったのに対して。
バヤジット皇子は後継者になるため、支持者を集め始めました。バヤジットはセリムより自分が優れていると考え、自分が皇帝に相応しいと思っていました。またセリムが皇帝になれば自分は粛清されると思ったようです。

この時期とくに二人の関係に影響を与えたと言われるのがララ・ムスタファ・パシャ。この時期。セリムの側近になっていましたが。かつてはバヤジットのララ(教育係・師父)をしていました。

ララ・ムスタファ・パシャは二人の皇子の不破をスレイマン1世に報告。セリムに仕えるララ・ムスタファはバヤジット側に不利な内容の報告を送っていました。

ヒュッレムの死後、対立が激化

1558年4月15日。セリムとバヤジットの争いを抑えていたヒュッレムが死去。

もう二人の皇子の仲を取り持つ人はいません。むしろ重臣たちがそれぞれの利益のため皇子たちに加勢して二人の対立はますます激しくなります。

スレイマン1世は息子達を帝都から遠ざける

スレイマン1世は対立する息子たちを叱り赴任地を変えることにしました。

1558年9月6日。
セリムはコンヤに。
バヤジットはアマスヤに移動になりました。

セリムバヤジット皇子赴任先

どちらの州もイスタンブールから遠く離れていますが、それでも距離は同じくらいです。

アマスヤはかつてムスタファ皇子の赴任地でした。アマスヤそのものは東の国境を付近を守る重要な拠点です。でも1553年にムスタファ皇子が処刑されたばかり。バヤジットはまさか自分も同じ運命にあうのではと不吉に思ったかもしれません。

セリムは父の命令にすぐに従ってコンヤに移りました。

でもバヤジットは遠くに移動するが不満でした。スレイマン1世に手紙を書き、あれこれと理由を付けては移動を取り消してもらおうとしました。

でもスレイマン1世はバヤジットの言い分を認めません。

1558年10月28。仕方なくバヤジットはキュタヒヤを出発。途中で兵を集めながら約600kmの距離を55日かけて移動。12月21日アマスヤに到着しました。

バヤジットの反乱

父は後継者にセリムを選んだ。

と思ったバヤジットは兵を集めました。ムスタファの処刑以後もアナトリアにはスレイマン1世の治世に不満を持つ人々がいました。バヤジットはそういった人々を自分の軍に呼び寄せました。

バヤジットの動きを知ったスレイマン1世は激怒。赴任県から離れたバヤジットを反逆者とみなし。イスラム法学者に討伐のためのファトワ(法的根拠)を出させ。セリムのもとに宰相ソコルル・メフメト・パシャと正規軍を派遣。セリムにバヤジット討伐の命令を出しました。

アンカラまで移動していたバヤジットは自分が反逆者と認定されたことを知り。セリムを討つためコンヤに移動。

1559年5月29日。バヤジットはコンヤに到着。3万の兵を集めていました。

セリムにはスレイマン1世が派遣した宰相ソコルル・メフメト・パシャやその他の将兵が味方。正規軍を味方につけたせリムの軍は質・量共にバヤジットの軍を上回っていました。

1559年5月30日。セリムとバヤジットの軍は戦闘開始。2日間の戦闘の末、バヤジット軍は敗北。

バヤジットの軍は練度が低く戦いになると正規軍に負けてしまいます。

バヤジットはアマスヤに逃げました。そしてスレイマン1世に使者を送って謝罪。でもスレイマン1世は許しません。配下に逮捕するように命令しました。バヤジットは息子のオルハン、オスマン、マフムード、アブドラを連れて7月7日にアマスヤを出ました。

東の国境まで逃げ、追手と戦って振り切ることに成功。でもオスマン帝国の国内に居場所はないと考え、1559年8月中旬に部下と一緒にイランに亡命しました。

イランに亡命

10月23日。バヤジットはイランの街カズヴィンに到着。タフマースブ1世による華麗な式典で迎えられました。

イラン側の国境付近の街エレバン(現在のアゼルバイジャンの首都)に到着。州知事から歓迎を受けました。その後、イランの首都カズヴィンに到着。シャー・ タフマースブ1世よる華麗な式典で迎えられました。

最初はバヤジットを歓迎したタフマースブ1世でしたが。スレイマン1世やセリムの使者がやってきて交渉をすすめていく間にバヤジットの扱いは変わってしまいます。スレイマン1世とセリムの両方が使者を送ってバヤジットを引き渡すように要求。とくにセリムは強硬に死刑を主張していました。

1560年4月16日。バヤジットが王の暗殺を企てているという理由で投獄され、バヤジットの率いていた兵たちは解散させられました。

そして。イランはオスマン帝国にバヤジット親子を引き渡し。その見返りにオスマン帝国はイランに金貨50万枚の支払いと1555年のアマスヤ条約を続けることで和平案がまとまりました。

7月16日。バヤジットの引き渡しのためにオスマン帝国の使者がイランに到着。オスマン帝国の使節団は交渉の末、金貨40万枚、カルス城をイランに残し、セリムが王になっても和平を続けることで合意。バヤジット親子の身柄を引き受けました。

1561年9月25日。オスマン帝国の使節に引き渡されたバヤジットは、セリムの使者あり・アガによってカズウィンで絞首刑になりました。バヤジットの4人の息子たちも絞首刑になりました。

バヤジットと4人の息子の遺体はオスマン帝国に運ばれてシヴァスにあるメレキ・アセム(Melik-i Acem)墓に埋葬されました。

オスマン帝国内に残っていたバヤジットの妻(名前不明)と末息子メフメトは捉えられブルサ城に換金。バヤジットの処刑後。1561年10月5日。メフメトはブルサで殺害され。ブルサの墓地(ムラト2世複合施設内)に埋葬されました。

バヤジットの息子の棺はセリム2世即位後に建設されたムスタファ皇子霊廟に安置されました。

皇子の事件の影響

さらにバヤジットの協力者の取りしまわりが行われ、協力者が逮捕処刑されました。

追求を逃れた末端の兵たちは野盗化して略奪を行うようになりました。反乱を起こした者の多くは生活に困っている人達です。

ムスタファ皇子は人気のある皇子でしたが、支持者には様々な立場の人がいます。単純に人柄や人望だけで集まったのではありません。

またオスマン帝国に支配される前からいた地元の領主や豪族たちはスィパーヒー(騎兵)としてオスマン帝国に仕えていました。でもスレイマン1世はヨーロッパとの戦争では城攻めに役立たない騎兵を減らして鉄砲隊を増やしました。その結果、没落するスィパーヒーも出てきました。

生活に苦しくなった人たちはムスタファ皇子を支持していましたが。ムスタファ皇子は反乱を起こしませんでした。

そしてバヤジット皇子のもとにあつまった兵の多くがそうした不満を持った生活に苦しい兵たちでした。

一方、イェニチェリは身分は皇帝の下僕です。オスマン帝国にも必要な戦力なので様々な特権が認められました。彼らは特定の皇子を支持することはあっても皇帝スレイマン1世に逆らったりはしません。皇帝が「敵」と決めた相手と戦います。

バヤジットの敗因はイエニチェリを味方にできずに、没落した軍人や豪族に頼ったことでした。

16世紀末~17世紀のオスマン帝国では何度か反乱が起こります。生活に困った兵士や元兵士・元領主・耕作放棄した農民が反乱を起こしました。でもその兆候はムスタファ皇子・バヤジット皇子の事件のとき出ていました。

スレイマン1世の時代は「なぜ彼らが皇子たちを担ぐのか」考えずにただの権力争いとして片付けてしまいました。スレイマン1世のもとでオスマン帝国は全盛期を迎えましたが混乱と衰退の前触れは始まっていたのです。

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