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ムラト4世・恐怖政治でオスマン帝国を立て直し

オスマン帝国国旗

ムラト4世はオスマン帝国第17代皇帝。

第14代皇帝アフメト1世の息子です。
母はキョセム・スルタン。

キョセムにとっては次男になります。

異母兄にオスマン2世がいます。
同母兄にメフメト皇子、イブラヒム1世がいます。

伯父のムスタファ1世の2度めの廃位のあと皇帝になりました。

12歳で皇帝になったので最初の9年ほどは母キョセムが摂政になって政治を補佐しました。

自ら政治を行うようになってからはムラト4世の決めた規則を守らないと厳しい罰を与えたり、強硬な姿勢も目立ちます。そのため恐怖政治と言われることもありますが、乱れていた国内を立て直し遠征も行ってイランに占領されたバクダートを取り戻しました。

ムラト4世はどのような人物だったのかご紹介します。

目次

ムラト4世の史実

名前:ムラト4世(IV.Murad)
国:オスマン帝国
地位:皇帝
生年:1612年7月27日
没年:1640年2月9日
享年:28歳
父:アフメト1世
母:キョセム・スルタン

妃:アイシェ・ハセキスルタン
  
子:

皇子の時代

メフメトは、アフメト1世の治世の1612年に生まれました。

父は14代皇帝 アフメト1世
母はキョセム・スルタン。

1617年。5歳のとき父のアフメト1世が亡くなりました。

その後、即位したのは伯父のムスタファ1世。しかし3ヶ月で退位させられ。
1618年2月26日。兄のオスマン2世が即位しました。
1622年。オスマン2世は兵士たちの反乱で廃され処刑されました。
再びムスタファ1世が即位。
1623年。ムスタファ1世の退位後。ムラト4世が即位しました。

皇帝に即位・キョセム摂政時代

ムラト4世が即位した時はまだ12歳。

母后のキョセム・スルタンが摂政(saltanat naibesi)になり大きな影響力を持ちました。皇帝の母親が皇帝の代わりに政治を行うのはオスマン史上始めてです。

イランとの戦い

1624年。サファビー朝イランはバグダートを占領。バグダートはイスラム教にとって重要な場所です。ここをスンニー派のオスマン帝国が支配するかシーア派のイランが支配するかでイスラム社会への影響も変わってきます。

しかしオスマン帝国とイランとの戦いは一進一退でした。

アバザ・メフメト・パシャの反乱

オスマン2世の処刑後。東アナトリアの豪族アバザ・メフメト・パシャはオスマン2世を殺害したイェニチェリ(歩兵常備軍)を憎み、領内のイェニチェリ捕まえては処刑していました。ムラト4世の治世になってもアバザ・メフメト・パシャの反乱は続いていました。

大宰相ハリル・パシャはアバザ・メフメト・パシャの鎮圧を任されましたが失敗。解任されました。

1628年。大宰相ヒュスレブ・パシャが遠征。アバザ・メフメト・パシャを降伏させました。キョセムは皇帝の命令でアバザ・メフメト・パシャをボスニア総督に任命。

アナトリアでの反乱は終わりました。

イェニチェリの反乱

ムラト4世が母后キョセムの支配を排除して自分で政治を行うきっかけになったのが1632年のイェニチェリの反乱です。

1632年。大宰相ヒュスレブ・パシャがイランへの遠征で敗退。キョセムはヒュスレブ・パシャを解任。ハフィズ・アフメド・パシャが大宰相になりました。

するとヒュスレブ・パシャたちに扇動されたイェニチェリ(常備歩兵軍)は宮殿を襲撃。ハフィズ・アフメド・パシャたち高官の処刑を要求。皇子たちが殺されないように皇子の一部はイェニチェリ軍団の保護下に置くように要求しました。

兵士たちはムラト4世の言葉を聞かずハフィズ・アフメド・パシャの処刑を要求。ハフィズ・アハメド・パシャは自ら群衆の中に飛び込むと兵士たちによって殺害されました。ムラト4世はその様子を泣きながら見ていました。その後、反乱軍を鎮めるためトパル・レジェップ・パシャを大宰相にしました。イスラム長老や大宰相の協力を得てイェニチェリと交渉を行い。イェニチェリは要求をとりされ反乱は終わりました。

ムラト4世の統治

ムラト4世は兵士たちが自分が若いということで馬鹿にされ。兵士たちが言うことを聞かないことに挫折感を味わいました。

母后キョセムのいうことは聞かなくなり、独自の権力持とうと考えました。

ムラト4世は反乱を先導したヒュスレブ・パシャを処刑。その後、トパル・レジェップ・パシャも処刑しました。

カドゥザーデ派

ムラト4世は治安回復と綱紀粛正を目指します。そこでイスラム教カドゥザーデ派の力を借りました。トルコはイスラム圏でも戒律がゆるく他の宗教とイスラム教が共存している社会でした。でもカドゥザーデ派はコーランをより厳格に解釈しようとするイスラム原理主義的な教団です。

でもカドゥザーデ派は庶民に広がりました。カドゥザーデ派は高位のウラマー(イスラム法学者)があまりいないかわりに腕のいい説教師を多く抱えていて庶民への影響力が大きかったのです。

ムラト4世はときには皇帝の命令に逆らう高位のイスラム法学者よりも庶民に訴える力の強いカドゥザーデ派と手を組み、世の中の綱紀粛正と治安回復を目指しました。

ムラト4世の保護をうけてカドゥザーデ派が広まり。トルコにもイスラム原理主義的な考えが広まりました。

カドゥザーデ派の支持をうけてムラト4世はタバコやコーヒーを禁止。居酒屋を廃止しました。直接の理由はイスタンブールで大火事が起きたことでした。居酒屋やコーヒーハウスが兵士たちのたまり場になっていて、ここで反乱の打ち合わせをすることが多かったのも理由の一つでした。

ムラト4世はカドゥザーデ派を使って民衆の支持を集める一方で、違反するものは処刑したり厳しく罰しました。綱紀粛正と治安維持の目的はあるていど達成され。世の中は安定します。

イラン遠征

1638年。ムラト4世は自分の権力が高まり国内が落ち着くとイランに遠征しました。

ムラト4世は遠征先で自分に従わない役人、反政府勢力、イランの間者をみつけては処刑しました。

1624年以来バグダートはイランに占領されていましたが、オスマン軍は40日間バグダートを包囲しました。
1639年5月。イランは和平をもとめカスル・イ・シリン条約が結ばれました。バグダートとその周辺のイラク方面はオスマン帝国のものになりました。

 

ムラト4世の最期

こうして国内の安定化と外国との戦いでも勝利をおさめたアフメト4世でしたが。遠征の最中に病気になってしまいます。一時期回復しましたが、1639 年 11 月に再び症状が悪化。

1640年2月8日。ムラト4世が病死。享年27歳という若さでした。

 

 

 

 

 

 

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