ムスタファ皇子はオスマン帝国でも人気のあった皇子でした。
第10代皇帝スレイマン1世の事実上の長男(幼い頃に早世した兄がいます)で、兵や人々からも人気がありました。でも彼は父スレイマン1世の命令で処刑されました。
人気のあったムスタファ皇子の処刑は様々な方面に影響を与えました。
そして国内での反乱や後継者争いにも影響を与えます。
ムスタファ皇子の処刑のその後と。家族の処遇、オスマン帝国に与えた影響を紹介します。
ムスタファ皇子処刑、その直後
1553年10月6日。コンヤの野営地でムスタファ皇子は殺害されました。
スレイマン1世率いるオスマン軍は、イランと戦うためコンヤの平原に野営していました。ムスタファ皇子は皇帝から呼び出しをうけてやってきて。皇帝のいるテントに入ったところを死刑執行人に襲われたのです。処刑の命令を出したのは父親であるスレイマン1世でした。
ムスタファの側近もその場で処刑されました。
Bilinmiyor – Hüner-nāme, II, Library of the Topkapi Palace Museum, Bağlantı
スレイマン1世はペルシャ絨毯の上にムスタファの遺体を起き、イランのシャー(王)と繋がりを示す書類とともに公開されました。スレイマン1世はムスタファ皇子をイランと同盟した裏切り者として処刑したのです。
ムスタファの遺体はエレグリに運ばれ、そこでウラマー(イスラム教の聖職者)によって遺体に祈りが捧げられ、皇子の格式で葬式が行われました。
その後、遺体はブルサに運ばれてムラト2世の墓の敷地内に埋葬されました。しかしムスタファ皇子の霊廟(故人を祀る建物)を作ることは禁止されました。
ムスタファ皇子の霊廟が完成したのは約20年後。セリム2世の時代です。
ムスタファの家族達の処分
ムスタファの財産は国に没収され、ムスタファに仕えていた側近、従者は処刑されました。
コンヤにいたムスタファの家族達(母マヒデヴラン、妃、息子のメフメト、その他の子どもたち)はムスタファの遺体のあるブルサに移されました。
しかしスレイマン1世は兵たちがムスタファの息子メフメトを担いで謀反を起こすのを恐れ、メフメトの処刑を決定。7歳のメフメトは首を絞められ処刑され、ムスタファの隣に埋葬されました。
マヒデヴランは宮殿で暮らすことを許されず、侍女とともに借家で生活しました。生活は苦しく家賃が払えないほどでした。ヒュッレムの死後、ブルサ城に訴えがあり。スレイマン1世は滞っていた家賃を家主に支払いました。セリム2世即位後はマヒデヴランに年金が支給され、ムスタファ皇子の霊廟が作られました。
皇帝スレイマン1世は大宰相リュステムを解任
大宰相リュステム・パシャはムスタファ皇子が処刑された日の夜に野営地を抜け出して逃げたと言われます。
ムスタファ皇子を慕っていた兵士たちは皇子の突然の死に悲しみました。やがてその怒りは大宰相リュステム・パシャに向けられました。ムスタファ皇子の死に怒ったイエニチェリがリュステム・パシャのテントを襲撃したとき、すでにリュステム・パシャはいませんでした。
イエニチェリたちは抗議のために断食を行い。スレイマンを大声で呪い罵りはじめました。スレイマンは自分のテントの中にいても兵士たちの声が聞こえてきたといいます。
スレイマン1世は大宰相リュステム・パシャを解任。そして第二宰相のカラ・アフメト・パシャを大宰相に任命しました。
この行いにイエニチェリたちはスレイマン1世が自分の過ちを認めリュステムが悪いと認めたと受け取りました。
その後、リュステムの命を狙うイエニチェリもいたようですが、正規軍(スレイマン1世かバヤジトの兵)によって阻止されました。
リュステムは1553年10月31日にイスタンブールに戻り。その後、ユスキュダルの邸宅で暮らしました。
世間ではムスタファ皇子殺しの犯人として批判されていましたが。ハセキスルタン(妃)のヒュッレムやリュステムの妻・ミフリマーフ皇女はリュステムを大宰相に戻すよう嘆願書をスレイマン1世に送りました。
スレイマン1世はリュステムを解雇して責任を押し付けることで兵士たちの不満をそらし。1553年から1555年にかけて自らイラン遠征を行い有利な形で和平交渉をまとめ、ムスタファ皇子に傾きかけていた軍隊の求心力を取り戻しました。
しかし。ムスタファ皇子殺害の影響はこれだけでは収まりません。
人々の反応
詩人たちが次々に皇子を悼む詩を発表
まちなかではムスタファ皇子と交流のあった詩人たちがムスタファ皇子を追悼する詩(挽歌)を次々に発表しました。
わかっているだけでも、フニニ、ラーミ、エディルネリ・ナズミ、ムイニ、ムスタファ、ムダミ、サミ、カラ・ファズリ、ニサール、シェイ・アフメド・エフェンディ、セリミ、カディリがいます。
その中で最も有名なのはタシュルジャル・ヤヒヤ・ベイの挽歌です。宮廷や軍の内部を知らないはずの一般市民も、詩人たちが発表した詩によって「ムスタファ皇子殺しはリュステムが犯人」と信じるようになりました。市民はムスタファ皇子の死を嘆きリュステムを批判しました。
タシュルジャルは後に復帰したリュステムによって逮捕され処刑されそうになりました。財産は没収されたもの、スレイマン1世の命令で命は助けられ地方に左遷されました。
タシュルジャルがどのような詩を書いたのかはこちらで紹介しています。
二サールという女性詩人もムスタファ皇子の詩を書いています。二サールは当時珍しかった女性詩人で、ムスタファ皇子の詩が残っている中では唯一の女性詩人。どのような人物なのかはまったくわかっていません。
詩の内容からは宮廷にいたことがある、あるいは出入りしたことがある人物と考えられています。彼女の作った詩の中でヒュッレムのことを「ロシアの魔女」と罵り、スレイマンを「魔術に惑わされた」「年老いて不正義をおこなった」と批判しました。
ムスタファ皇子の死が反乱のきっかけになる
しかし市民がいくらリュステムを批判しても皇帝に守られているリュステムを傷つけることはできません。リュステムは解任はされたものの生活は保証され、リュステム自身も私兵(リュステムは1000人以上の奴隷を所有していました)を雇っていたからです。
でもそれで大人しく黙っている人たちばかりではありません。
アナトリア。とくにマニサ、アマスヤ、コンヤ(いずれも皇子の赴任先)では人々の動揺が大きく各地で反乱が起こりました。
やがて「ムスタファ」を名乗り反乱を起こす者が現れるのでした。
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