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タシュルジャル(ドゥカジニ)軍人としても活躍したオスマン帝国最高の詩人

オスマン帝国国旗

タシュルジャルはオスマン帝国の軍人であり詩人。

16世紀のオスマン帝国で最も有名な詩人といわれます。

オスマン帝国外伝「愛と欲望のハレム」ではシーズン3・4に登場します。

タシュルジャルはヨーロッパではドゥカジニという名で知られます。彼の出身がアルバニアの名門貴族の末裔といわれ、ヨーロッパにも縁のある人物です。タシュルジャルはオスマン帝国でつけられたあだ名で、アルバニア語ではドゥカジニといいます。

軍人として活躍した一方で詩人としても有名でした。生前に数多くの詩を残しました。

タシュルジャルについて紹介します。

目次

タシュルジャルの史実

名前:タシュルジャル・ヤフヤ(トルコ語:Taşlıcalı Yahya)
ヤヤ・ベイ・ドゥカジニ(アルバニア語:Jahja bej Dukagjini)
地位:オスマン帝国軍人兼詩人
生年:1498年?
没年:1582年?

アルバニア貴族の末裔?

タシュルジャルの生年はよくわかっていません。1488~1498年だといわれています。

ムスタファ皇子は1515年生まれなので。少なくとも皇子より17歳年上。もっと年上の可能性もあります。

タシュルジャルは徴用後に付けられた名前。本来の名前はドゥカジニ(Dukagjini)です。

タシュルジャルはモンテネグロ出身のアルバニア人。(モンテネグロもアルバニアもバルカン半島にある国です。当時はオスマン帝国の領土でした)。

タシュルジャルはアルバニアの名門ドゥカジニ家の末裔といわれます。

わかいころデヴシルメで集められイエニチェリ(常設歩兵軍)に配置属されました。

多くの軍人役人を出したデヴシルメとは

デヴシルメとはオスマン帝国が行った徴兵制度です。集められた人々はカプクルと呼ばれ皇帝個人に仕える奴隷とされます。主にアナトリアやバルカン半島にすむ帝国内のキリスト教徒から集めました。デヴシルメで集められた人々はイスラム教に改宗させられ教育や軍人の訓練を受けます。教育や訓練をうけたあと、役人や軍人として配属されました。

奴隷といってもキリスト教国で肉体労働させられている作業員とは大きく違います。一般市民ではないので制限はありますが、一定の権利もあります。カプクルは教育や訓練が受けられます。本人の能力や働き次第では高官や司令官などの重役になることもできます。イブラヒムやアヤスもカプクルです。デヴシルメで徴用される男子は8~10歳が理想とされます。18歳くらいまでは徴用されたようです。

キリスト教徒が多いのはイスラムの制度ではイスラム教徒を奴隷にするのは禁止されているからです。

 初期の経歴

デヴシルメで徴用されたタシュルジャルはオスマン帝国の学校に入れられ兵士としての訓練を受けました。歩兵部隊(イエニチェリ)の将校になりました。

軍の書記官シーハブ・アル=ダンはタシュルジャルに文学の才能があることを発見しました。

ケマルパシャザード、カドリエフェンディ、フェナリザデムヒヒディンチェレビたちから教育を受けました。

タシュルジャルの文学の才能は後に政治家として出世するときの大きな助けになります。

オスマン帝国の著明な詩人ハヤロ・ベイとも交流がありました。

軍人として活躍するタシュルジャル

セリム1世の時代。

1514年。チャルディラーンの戦いに参戦。オスマン帝国とサファビー朝がアナトリア高原で戦いました。銃や大砲を大量に使用したオスマン帝国軍が勝ちます。

1516~1517年に行われたオスマン・マムルーク戦争に参戦。

マムルーク朝はアラビア半島からエジプトを勢力範囲に持つイスラム教の大国でしたが、セリム1世はマムルーク朝を滅亡させました。

これらの戦いで活躍したのがタシュルジャルが所属するイエニチェリ(常設歩兵軍)です。16世紀のヨーロッパ・中東でも大量の銃や大砲を使うイエニチェリは各国にとって大きな脅威でした。

1535年。バグダッド遠征に参加。

スレイマン1世の時代も多くの作戦に参加しました。交友関係の広い人物でしたが、妬みをうけることもあり。友人と同じくらい敵も多かったようでとす。

1536年には詩人のハヤリ・メフメット・ベイと論争になることもありました。

タシュルジャルはハヤリを批判する詩を作りスレイマン1世と大宰相リュステム・パシャに提出しました。

詩人の批判に辟易していたリュステムはタシュルジャルの詩に満足。リュステム・パシャの支持を得たタシュルジャルは軍を引退後。ブルサとイスタンブールのムスクの管財人を任されました。このころはリュステム・パシャとは良好な関係でした。

ムスタファの処刑を悲しむ詩を作って追放

1553年。皇帝スレイマン1世はムスタファ皇子を処刑しました。スレイマン1世は大宰相リュステム・パシャからの「謀反を企んでいる」という誤った情報を信じてムスタファの処刑を命令しました。兵士たちの暴動を抑えるためスレイマン1世は大宰相リュステム・パシャを解任し。カラ・アフメト・パシャを大宰相にしました。

ムスタファ皇子処刑の話を聞いたタシュルジャルはショックを受けました。ムスタファ皇子はイェニチェリには人気がありました。

タシュルジャルはムスタファ皇子が処刑されたときには現地にはいませんでした。イェニチェリの知人から当時の様子を聞いて詩にまとめ。兵士たちの気持ちを代弁して詩を作ったのです。

タシュルジャルは「ŞehzadeMersiyesi(王子の哀歌)」というタイトルの挽歌(故人を追悼する詩)を書きました。ムスタファ皇子の死を嘆く詩です。

この詩は人々の間で好評でした。タシュルジャルは詩の中でリュステムの名前を出し皇帝を騙して皇子を殺害させたと批判してます。

1555年。リュステムは大宰相に復帰しました。

するとさっそく大宰相リュステム・パシャはタシュルジャルを呼び出して「皇帝が非難した者をあえて嘆き悲しむとは何事か」と叱りつけます。しかしタシュルジャルは「私達は確かに非難した。だが私達は多くの人々ともに彼の死を嘆き悲しんだのだ」と反論しました。

もともとムスタファ皇子はイエニチェリの兵士たちには人気がありました。軍人出身のタシュルジャルも彼らの気持ちがよくわかったでしょう。

良好だったリュステムとの関係は修復不可能なほど悪くなりました。

リュステム・パシャはタシュルジャルを処刑しようとします。でもスレイマン1世はタシュルジャルの処刑は認めせんでした。リュステム・パシャはタシュルジャルの財産を没収して追放しました。

タシュルジャルはイスタンブールで暮らすことはできなくなりました。

ボスニアに追放されたといいます。

亡命生活

タシュルジャルは中央政界からは追放されたましたが、ボスニアで領地を与えら暮らしました。トルコ人からみると辺境の地でしたが、アルバニア系のタシュルジャルにとっては居心地の悪い場所ではなかったようです。

残りの人生をボスニアで暮らしました。亡命後も詩の創作活動は続けました。

リュステム・パシャの死後はリュステムを風刺する詩を書きました。

1565~66年。オスマン帝国とハンガリーとの間で戦争が起こりました。タシュルジャルはすでに高齢でしたが部下とともにスィゲトヴァール包囲戦に参加したともいわれます。

そのとき詩を描いてスレイマン1世に贈っています。

スィゲトヴァール包囲戦はスレイマン最後の戦い。この遠征中にスレイマンは病死しています。

スレイマン1世の死後、ヒュッレムの息子・セリムが皇帝になりました。

セリム2世時代

1574から1575年にかけて。タシュルジャルはムスタファ・アリと交流しました。ムスタファ・アリはオスマン帝国の役人。この時期、ボスニアに派遣されていました。ムスタファ・アリは文学に詳しくさまざまな文化人と交流していました。

ムスタファ・アリはタシュルジャルのことを「嫉妬深い政治家に非難され、国境地帯に亡命することを余儀なくされた才能ある詩人」と評価しました。

タシュルジャルがいつ死亡したのかはよくわかっていません。1582年が有力とされますが、1573、1575年という説もあります。

トルコのドラマ「オスマン帝国外伝・愛と欲望のハレム」ではシーズン3・4に登場。イスケンダー・チェレビの配下として登場。イブラヒムの信頼を得ます。後にムスタファと親しくなって側近になります。

歴史上のタシュルジャルがリュステムと親しかったのは事実です。イスケンダーと親しかったかどうかは分かりません。イブラヒムとの間にどのような関係があったのかも分かりません。ドラマと違って史実ではムスタファ皇子の側近になったことはありません。でも皇子を支持する一人だったようです。

 

 

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