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オスマン帝国について
デヴシルメとは
デヴシルメ(devşirme)とはオスマン帝国で採用された徴用制度のこと。 ほぼ強制的に人を連れて行くので税ともいわれました。 キリスト教徒の若い子どもたちがデヴシルメで集められ。イエニチェリ(常備歩兵軍団)や官僚として採用されました。デヴシルメ... -
オスマン帝国について
スレイマン1世がムスタファ皇子を処刑した理由
ムスタファ皇子(Şehzade Mustafa)はオスマン帝国 第10代皇帝・スレイマン1世の息子。 兵士や人々からの人気も高かった皇子です。でも1553年に父のスレイマン大帝の命令で処刑されてしまいました。処刑した直接の理由は「謀反を起こそうとしたから」。 ... -
オスマン帝国について
セリム皇子対バヤジット皇子の争い、その結末
オスマン帝国の10代皇帝スレイマン1世には5人の成人した息子がいました。 その中で最後まで後継者の座を争ったのがセリム皇子とバヤジット皇子です。スレイマン1世の晩年は後継者争いが激しくなり、セリム皇子とバヤジット皇子は軍を率いて戦ってしまい... -
6.オスマン帝国の人々
ララ(師父)ムスタファ・パシャ|バヤジットを裏切りセリムの味方になった?
ララ・ムスタファ・パシャはオスマン帝国の政治家で軍人。 スレイマン1世からムラト3世の時代に活躍。ベネチアが支配していたキプロス島の占領に成功したので「キプロスの征服者」として知られます。 サファビー朝との戦争ではコーカサス地方を占領する... -
2.オスマン帝国の皇子
ムスタファ皇子とマヒデヴラン妃のお墓はどこにある?
1553年10月6日。トルコ南東部のコンヤ・エレシリで父スレイマン1世の命令でムスタファ皇子が処刑されました。 イランと密かに同盟して謀反を企んだという罪で処刑されたのですが。ムスタファ皇子は無実で殺されたといわれます。 ムスタファ皇子は処刑後。... -
オスマン帝国について
偽ムスタファ事件とは
オスマン帝国の第10代皇帝スレイマン1世の長男・ムスタファ皇子は兵士や人々から人気があり、将来を期待されていました。ところがスレイマン1世から謀反の疑いをかけられ処刑されてしまいます。 https://history.sseikatsu.net/endofmustafa/ 皇子処刑の... -
オスマン帝国について
「ムスタファ皇子の挽歌」タシュルジャルの作ったオスマン史上最も悲しい詩
1553年。イラン遠征中の皇帝スレイマン1世のもとにムスタファ皇子が呼ばれてやってきました。ムスタファ皇子は兵たちに歓迎されました。 しかしムスタファ皇子は皇帝のテントの中に入ったきり生きて出ててきませんでした。出てきたときには遺体になってい... -
2.オスマン帝国の皇子
ムスタファ皇子処刑の影響と家族の行方
ムスタファ皇子はオスマン帝国でも人気のあった皇子でした。 第10代皇帝スレイマン1世の事実上の長男(幼い頃に早世した兄がいます)で、兵や人々からも人気がありました。でも彼は父スレイマン1世の命令で処刑されました。 人気のあったムスタファ皇子... -
オスマン帝国について
ムスタファ皇子の最期・スレイマン1世が息子を処刑するまでのいきさつ
オスマン帝国の10代皇帝・スレイマン1世にはムスタファという皇子がいました。 ムスタファ皇子は国民や兵たちからも人気のある皇子でした。ところが1553年。スレイマン1世は息子のムスタファ皇子を処刑してしまいます。 その原因はスレイマン1世が寵愛... -
2.オスマン帝国の皇子
ムスタファ皇子が兵士や人々に人気があった理由
16世紀に生きたオスマン帝国のムスタファ皇子は人気のあった皇子です。 10代皇帝スレイマン1世の息子。成人した皇子の中では最年長だったので、事実上の長男として扱われます。 ムスタファ皇子は兵士や人々から人気のある皇子でした。でも謀反の疑いをか...