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「ムスタファ皇子の挽歌」タシュルジャルの作ったオスマン史上最も悲しい詩

オスマン帝国国旗

1553年。イラン遠征中の皇帝スレイマン1世のもとにムスタファ皇子が呼ばれてやってきました。ムスタファ皇子は兵たちに歓迎されました。

しかしムスタファ皇子は皇帝のテントの中に入ったきり生きて出ててきませんでした。出てきたときには遺体になっていました。

ムスタファ皇子を応援していたタシュルジャルはショックを受けました。

タシュルジャル・ヤヒヤ・ベイはオスマン帝国の軍人です。詩人としても有名でした。

そして Şehzade Mersiyesi(皇子の挽歌)という有名な詩を残しました。

Şehzade Musutafa Mersiyesi(ムスタファ皇子の挽歌)と紹介されることもあります。

ドラマ「オスマン帝国外伝」ではタシュルジャルはムスタファのそばで仕える一番の側近のように描かれています。でも実際には皇子の側近ではなく軍人や役人の立場で支持していました。だから処刑されずに生き残り、詩を広めることができました。

彼の作った詩は市民や兵士たちの間で評判になりました。ムスタファ皇子の死後、多くの詩人が追悼の詩を書きました。タシュルジャルの詩はその中でも一番有名な詩です。

オスマン帝国史上、皇子のために複数の詩人が詩を書いたのはムスタファ皇子だけです。

それだけ衝撃的な出来事でした。

タシュルジャルの書いた「ムスタファ皇子の挽歌」はテレビドラマ「オスマン帝国外伝・シーズン4」
第52話「慟哭」で紹介されました。
第57話「挽歌」でもスレイマンがこの詩を読む場面があります。

オスマン史上最も悲しい挽歌とも言われる「ムスタファ皇子の挽歌」を紹介します。

目次

タシュルジャルの詩の特徴

タシュルジャルの詩はトルコ語のものが公開されています。

http://www.siirparki.com/taslicali.html

タシュルジャルの詩は七章あって非常に長いです。さまざまなところにイスラムの教えや宗教観が入っています。オスマン帝国時代前半の時代はイスラム神秘主義も盛んです。アラブ社会で主流の理屈っぽいイスラム教とは違って、スピリチュアルな表現が多いのが特徴です。

日本人には分かりづらい部分があるかもしれません。

でも大切な人をなくした。悲しい。大切なものを奪った敵が憎い。という感情は世界共通です。

この記事では分かりづらい部分はカットして。タシュルジャルの想いがよくわかる部分を抜き出して紹介します。

タシュルジャル作「ムスタファ皇子の挽歌」日本語訳

1章 皇子の死を目撃した者の嘆き

点線で囲った部分が詩の日本語訳です。

 

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なんということだ!この世の一部が崩壊した。
死のジェラーリ(反逆者)がムスタファ・ハンを絞殺した。

太陽のように美しい笑顔は沈み、彼の側近たちも失われた。
彼ら(反逆者)はオスマン家のスルタンを騙して罪に陥れた。

(皇子が)戦場で名声をはせるにつれ、彼らは憎んでいった。
運命は世界のスルタンを彼らの味方にした.

嘘つきの乾いた誹謗中傷と秘密の敵意は
私たちに涙を流させ、別れの炎を灯した。

残虐な行いとは無縁だった皇子の魂は
災いの洪水にのみ込まれ、側近達も殺された。

私はこの惨劇を見たくなかった。
私は皇子への裁きが正しいとは思わない。罰は正義に対して行われたのだ。

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ドラマ「オスマン帝国外伝シーズン4」52話ではこの1章を簡潔にしたものをタシュルジャルが詠んでいます。

最初に皇子が亡くなったことの衝撃を表現。タシュルジャル達にとっては世界の一部が崩れ去ってしまったかのようなショックでした。というよりムスタファ派にとっては世界そのものだったでしょう。

元の詩ではムスタファ皇子を陥れた者たちを「ジェラーリ(反逆者)」と表現。

皇子を「ハン(khan)」と表現。ハンとはテュルク系遊牧民の「王」の称号。

オスマン帝国を建国したトルコ人の祖先は遊牧民族のテュユルク人。オスマン帝国はイスラム化しているので公式には王の称号に「スルタン」を使います。タシュルジャルは詩的表現として王を意味する「ハン」を使いました。

タシュルジャルは詩の中でスレイマン1世をパーディシャー(君主・支配者)と呼んでいます。皇帝には敬意を表しつつも、ムスタファ皇子には自分たちの王になってほしいという願望を表現しています。

2章 皇子がテントに入る前と出た時の様子

ムスタファ皇子が皇帝のテントに入って殺害されるまでの様子が描かれます。

 

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皇子は白い衣装を身にまとい、光の尖塔(ミナレット)のようだった。
父親に会いに行くので幸せそうに輝く顔は、まるで太陽のようだった。

皇子は花の咲く木のように我々の前に現れた。
彼の従者は花畑のチューリップのようだった。

世界のスルタンは怒りに燃えていた。彼のテントは雪山のようだった。
皇子は手にキスをするために、天をめぐる太陽のように歩いていった。

そして、月の欠片のように沈んだのだ。皇子は戻ってこなかった。
それを見た者たちは春の雨のように泣いた。

この大きなテントは双頭のドラゴンだ。
その口の中に落ちるものは見えなくなるのだ。

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ミナレットとはモスクにある尖塔のこと。

ミナレット

白くて高くて威厳のある建物。タシュルジャルの目にはムスタファ皇子がそのように思えたのです。ムスタファ皇子は不安な様子ではなく、父親が面会を許したのが嬉しかったようです。

ただタシュルジャルたちムスタファ派の人たちにとっては皇帝が怖い存在に思えたようです。

皇帝のテントはドラゴンに例えられています。日本ではドラゴン=龍=かっこいいイメージですが。イスラム教やキリスト教ではドラゴンは悪の怪物と決まっています。ここでは巨大な恐怖の象徴として描かれています。

三章は宗教的な表現で悲しみが綴られます。
省略します。

第四章 皇子を陥れたものが明かされる

タシュルジャルの怒りはムスタファ皇子を殺した者たちに向けられます。

 

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ザールは皇子の体を地面に打ち倒し、
リュステムの残酷さによって傷つけられた。

星のように涙が流れ、悲鳴があがった。
彼の死の時は最後の審判のようだった。

宇宙は嘆き、嘆き、うめき声​​で満たされていた。
老いも若きも、川のように涙を流した。

涙は体中にこぼれた。
ああ、至福の王座に座る世界のスルタンよ!

皆が愛した皇子は土に返った。
悪魔が生き続けることは許されるのですか?

彼は私達のパーディシャー(皇帝)の血統を侮辱した
明け方の霞のように地面にたなびかせておいていいはずがない。

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「ザール」と「リュステム」はペルシャ神話の英雄の名前です。でもこの時代のオスマン帝国の人が聞いたら大宰相リュステムと皇帝の警護隊長のザール・マフムードを思い浮かべるでしょう。もともと神話の人物から名前をつけているのですから。

タシュルジャルは皇帝を騙して皇子を殺させたのはリュステムだと思っていたようです。ザール・マフムードは死刑執行人を管理する立場でもあったので直接殺害を指揮したとされているのです。

詩の中でリュステムとザールが名指しで批判され、悪魔よばわりされました。そこで宮廷や軍の内情に詳しくない市民たちもリュステムが犯人だと信じるようになりました。

「星のように涙が流れ」と例えられているのは。たくさんの星が天から降ってくるのは最後の審判で描かれた光景だから。

「最後の審判」はキリスト教でいうあの最後の審判です。イスラム教はキリスト教、ユダヤ教と同じ神話から生まれているので。イスラム教にも最後の審判はあります。

第五章

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剣のように曲がった数人の詐欺師達
彼らは王子を殺すため、矢のようないくつもの偽の手紙を使った。

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第五章は一部だけ紹介します。宗教的表現、比喩的表現が多いので訳すのが難しいです。

曲がった剣とはオスマン帝国で使っている剣は 曲刀(トルコ語でクルチ(kılıç)、アラビア語シャムシール、英語のシミターも同じ)が主流だから。

「リュステム達は偽の手紙をいくつも作って皇帝を騙した」とタシュルジャルは思っていたようです。

ちなみに「王子を殺すため、矢のようないくつもの偽の手紙」という部分ですが。

ドラマ「オスマン帝国外伝・シーズン4」のオープニングでムスタファ皇子が歩く場面を無数の矢が狙う場面があります。(動画を見られる人は見てください)

そのモチーフになったと思ってます(私個人の感想です)。

第六章、第七章もイスラム教の世界観や神秘主義的な死生観でムスタファ皇子の死について書いてるので省略。

第七章の最後の部分。詩を締めくくるのはこのような言葉。

 

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神が私の年齢と同じくらい私に慈悲を与えてくださいますように。

私の神よ!フィルデスの楽園(エデンの園)が彼の住まいになりますように。

世界に秩序を与えてくれたスルタンに感謝します。

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歳の数と同じ数の慈悲を与えるなんて。そういう発想があるんですね。節分のときに歳の数だけ豆を食べるのを思い出してしまいました。

イスラム教の神にムスタファ皇子の魂が天国に行けるように祈りってます。「フィルデスの楽園」とはイスラム教のコーランに書かれている天国の楽園のこと。ユダヤ・キリスト教でいう「エデンの園」です。

詩の最後で皇帝への謝辞を述べています。不思議に思うかもしれませんが。

タシュルジャルの本職は皇帝に仕える軍人です。だからいちおう皇帝には敬意を払っています。ここでタシュルジャルたちが皇帝に敵対するとムスタファ皇子を謀反人だと認め、皇子の名誉を傷つけることになってしまいます。なのでそれはできません。

民間の詩人のようにお気楽な立場ではないので威勢よく皇帝を批判するわけにもいかないのです。悪いのはリュステム達ということです。

でも大宰相を任命するのは皇帝です。皇帝の代理人を批判するのは皇帝を批判するのと同じ。上辺では大宰相を批判しているようでも遠回しに皇帝を批判しているのです。

こうした表現は専制君主国家ではよくあります。

事実、この詩を書いたためにタシュルジャルはリュステムによって死刑にされるところでした。皇帝の裁量で資産没収、中央での職を解雇。バルカン半島(ルーマニアかボスニア)に追放になりました。

 

タシュルジャルはドラマではムスタファ皇子の側近になっています。史実では元軍人ですが側近ではなくムスタファ支持者の一人、詩人仲間だったようです。

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