オスマン帝国について– category –
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オスマン帝国について
オスマン家が途絶えたらギライ家が継ぐ?クリミアハン国の王家とは?
ギライ家は15世紀から18世紀にかけてクリミア半島に存在したクリミアハン国のハン(王)の一族でした。 クリミアハン国は黒海に面したクリミア半島を中心に現在のウクライナ南部・モルドバ・ロシアの一部を領土にしていました。首都はバフチサライです。 ... -
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デヴシルメとは
デヴシルメ(devşirme)とはオスマン帝国で採用された徴用制度のこと。 ほぼ強制的に人を連れて行くので税ともいわれました。 キリスト教徒の若い子どもたちがデヴシルメで集められ。イエニチェリ(常備歩兵軍団)や官僚として採用されました。デヴシルメ... -
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スレイマン1世がムスタファ皇子を処刑した理由
ムスタファ皇子(Şehzade Mustafa)はオスマン帝国 第10代皇帝・スレイマン1世の息子。 兵士や人々からの人気も高かった皇子です。でも1553年に父のスレイマン大帝の命令で処刑されてしまいました。処刑した直接の理由は「謀反を起こそうとしたから」。 ... -
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セリム皇子対バヤジット皇子の争い、その結末
オスマン帝国の10代皇帝スレイマン1世には5人の成人した息子がいました。 その中で最後まで後継者の座を争ったのがセリム皇子とバヤジット皇子です。スレイマン1世の晩年は後継者争いが激しくなり、セリム皇子とバヤジット皇子は軍を率いて戦ってしまい... -
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偽ムスタファ事件とは
オスマン帝国の第10代皇帝スレイマン1世の長男・ムスタファ皇子は兵士や人々から人気があり、将来を期待されていました。ところがスレイマン1世から謀反の疑いをかけられ処刑されてしまいます。 https://history.sseikatsu.net/endofmustafa/ 皇子処刑の... -
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「ムスタファ皇子の挽歌」タシュルジャルの作ったオスマン史上最も悲しい詩
1553年。イラン遠征中の皇帝スレイマン1世のもとにムスタファ皇子が呼ばれてやってきました。ムスタファ皇子は兵たちに歓迎されました。 しかしムスタファ皇子は皇帝のテントの中に入ったきり生きて出ててきませんでした。出てきたときには遺体になってい... -
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ムスタファ皇子の最期・スレイマン1世が息子を処刑するまでのいきさつ
オスマン帝国の10代皇帝・スレイマン1世にはムスタファという皇子がいました。 ムスタファ皇子は国民や兵たちからも人気のある皇子でした。ところが1553年。スレイマン1世は息子のムスタファ皇子を処刑してしまいます。 その原因はスレイマン1世が寵愛... -
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オスマン帝国ハレムの女性たち、妃や側女の位とは
オスマン帝国では皇帝の母・妃・側室たちが暮らす空間のことをハレムといいます。 江戸城の大奥やアジアの王朝によくある後宮と同じものだと思えばいいでしょう。 ハレムは2代オルハンの時代にはあったといわれます。 7代皇帝メフメト2世の時代に制度が... -
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スレイマンの時代にオスマン帝国にコーヒーが伝わり広まった
トルコドラマ「オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~シーズン4」では後宮宦官長のスンビュルが引退した後、街でコーヒーを提供する喫茶店を開いています。 この時代のオスマン帝国の人々はコーヒーを知らない人がほとんどで、みんなが苦い苦いと言ってな... -
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なぜオスマン帝国の妃や側室は奴隷から選ぶの?
ドラマ「オスマン帝国外伝」ではオスマン帝国のハレム(後宮)の様子が詳しく描かれています。 ハレム(後宮)には大勢の女性がいます。皇帝妃や側女はほとんどが「奴隷」と紹介されています。 オスマン帝国では王の母が奴隷なのも珍しくありません。 奴隷...
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