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オスマン帝国スルタン(皇帝)・初代オスマンから10代スレイマン1世まで

オスマン帝国国旗

オスマン帝国は今のトルコを中心に13世紀末から20世紀まで続いた王朝です。

日本でいうと鎌倉時代から大正時代まで続いたのです。これほどの大国が600年以上も続いたのは珍しいです。

600年近い歴史の中には様々な皇帝(スルタン)が誕生しました。

今回は国ができて発展するまでの期間。初代オスマンから10代スレイマン1世まで紹介します。

 

目次

オスマン帝国ができるまで

オスマン帝国が誕生したのは13世紀末から14世紀はじめ。

アナトリア半島(現在のトルコ共和国のアジア側の地域)は11世紀まで東ローマ帝国が支配していました。

しかしイスラム教を信仰するトルコ人の王朝 大セルジューク朝がやってきて占領しました。大セルジューク朝は衰退しますが、アナトリア半島を支配したのはセルジューク朝から別れたルーム・セルジューク朝でした。

13世紀前半。アナトリアにモンゴル帝国が攻めてきてルーム・セルジューク朝は敗北。モンゴル帝国の属国になります。

ルーム・セルジューク朝の力は衰え各地でトルコ系民族(テュルク人)が小さな国(侯国)をつくりました。その中でルーム・セルジューク朝から独立した豪族のひとりがオスマン国の初代国王となるオスマン1世です。

オスマン侯国・中東の小国だった時代

初代 オスマン1世

名前:アスマン1世(I. Osman)
愛称:信仰戦士(ĠĀZĪ)ガーズィー

生没年:1258年~1326年ごろ

在位年:1299~1326年ごろ
在位期間:約27年

父:エルトゥールル
母:不明

アナトリアの地方領主だった父のあとを継ぎ勢力拡大。
1299年。イェニシェヒルを占領してルーム・セルジューク朝から独立。「オスマン侯国」が誕生。アナトリアにあった東ローマ帝国の都市ブルサを攻略中に死亡。

初代スルタン(王)ですがその実体は大国から独立したばかりの豪族のような存在。

2代 オルハン

名前:オルハン(Orhan)
愛称:信仰戦士(ĠĀZĪ)ガーズィー

生年:1281年
没年: 1359~1362年ごろ
在位年:1326~1359年ごろ
在位期間:約36年くらい

父:オスマン1世
母:オメル・ベイの娘

父オスマンのあとをついで東ローマ帝国の都市ブルサを占領。ブルサを首都にして領土拡大。北西アナトリアを支配下にします。宰相のポストや組織や制度を整え国家の基礎を作りました。
東ローマ帝国の皇位争いにも干渉。バルカン半島にも影響を与えるようになりました。

首都を決めて国の組織や制度を作った人。実質的な建国者とされることもあります。

3代 ムラト1世

名前:ムラト1世(I. Murat)

愛称:支配者(Hüdavendigar)ヒュダヴェンディギャール

生年:1319か1326年
没年:1389年
在位:1359~1389年

父:オルハン
母:ホロフィラ

アナトリアの都市アンカラを占領。バルカン半島では東ローマ帝国のアドリアノープル(エディルネ)を占領。その後もバルカン半島で領土を拡大します。
イェニチェリ(常備歩兵軍団)を創設。宰相が増えたので大宰相のポストを新設。

4代 バヤジット1世

名前:バヤズィト、バヤジト(I. Beyazıt)

愛称:雷帝、稲妻(Yıldırım)イュルドゥルム

生年:1319か1326年
没年:1389年
在位:1389~1402年

父:ムラト1世
母:

セルビアの王女デスピナと結婚。テイムール帝国との戦い破れムラト1世、王妃でスピナ、皇子ムスタファが捕虜になりました。領地は残された息子たちが分割。

王のいない時代が約10年続き、王子(チェレビ)たちの争いが始まります。妃のデスピナは王室にキリスト教国の習慣を持ち込んだので評判がよくありません。悪女として有名。

5代 メフメト1世

名称:メフメト1世(I. Mehmed) 
愛称:典雅王( Çelebi)チェレビー

生年:1379年または1389年
没年:1421年5月26日
在位:1413~1421年

父:バヤジット1世
母:デウレト・ハトゥン

10年間続いた兄弟たちとの争いを勝ち抜いて領土を再統一。1413年にスルタン(王)に即位。即位後も何度か反乱が起きました。統治機関の末期には「皇子ムスタファ」を名乗る者が反乱をおこしました。「偽ムスタファの反乱」とよばれます。メフメト1世は偽ムスタファを討伐できずに死去。

6代 ムラト2世

名前:ムラト2世(II. Murad)

生年:1404年
没年:1451年
在位:1421~1444年

父:メフメト1世
母:エミネ・ハトゥン

東ローマ帝国が支援する偽ムスタファを倒し。東ローマ帝国の首都・コンスタンティノープルを包囲して和睦させました。その後、アナトリアで従わない諸侯たちを攻めて服従させ、ヨーロッパ遠征も行い。祖父バヤジット1世時代の領土を回復しました。1443年。生前退位して12歳の息子メフメトに皇帝の座を譲りました。

ところが和平条約を結んでいたハンガリーとワラキアが条約を破棄。十字軍を編成して攻めてきました。臣下に説得されて復位。

バヤジット1世は軍を率いて十字軍を撃破。ハンガリー、アルバニアを攻めて敵対勢力を弱めました。

オスマン帝国・領土拡大を続ける世界帝国

7代 メフメト2世

名称:メフメト2世(II. Mehmed)
愛称:征服王(Fatih)ファーティフ

生年:1432年
没年:1389年
在位:1444~1446年
2回目:1451~1481年

父:ムラト2世
母:ヒュマ・ハトゥン

2度めの即位後。兄弟を処刑。
アナトリアでカラマン侯国を滅亡させ。東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(イスタンブル)を占領。1000年近く続いた東ローマ帝国を滅亡させました。キリスト教国にショックを与え「オスマンの衝撃」とよばれます。その後も領土拡大。メフメト2世の時代。オスマン国は帝国と呼ぶに相応しい大国になりました。

晩年にイスラム法学者に自分の弟殺しを合法化させ。「兄弟殺し」の前例を作ります。

8代 バヤジット2世

名称:バヤジット2世(II. Beyazıt)
愛称:聖者(ヴェリー)

生年:1447年12月3日
没年:1512年5月26日
在位: 1481年5月21日~1512年4月25日

父:メフメト2世
母:ギュルバハル・ハトゥン

父メフメト2世の死後。兄ジットを即位させようとしていた大宰相がイェニチェリに殺害され。イェニチェリとメフメト2世の政策に批判的な臣下に支持されて即位。晩年、遠征が減るとイェニチェリは勇敢な皇子セリムを支持。イェニチェリを味方にしたセリムが反乱を起こして退位サせられました。その後、密かに死亡。暗殺されたともいわれます。

9代 セリム1世

名称:セリム1世
愛称:冷徹王・冷酷王(Yavuz)ヤヴズ

生年:1465年10月10日
没年:1520年9月22日
在位:1512年5月26日~1520年9月22日

父:バヤズィト2世
母:ギュルバハル・ハトゥン

兄弟同士の後継者争いを勝ち抜き兄たちを処刑。父バヤジット2世を引退させて即位しました。

火器を即位後はハンガリーと和睦してアナトリア方面を支配下におき。サファビー朝イランのイスマイール1世との戦いに勝ってイラン方面へ領土拡大。マムルーク朝を滅ぼしエジプト、シリア、パレスチナを併合。大砲・鉄砲を増やして近代化の遅れていたイスラム諸国を圧倒しました。

10代 スレイマン1世

名称:スレイマン1世(I.Suleiman )

愛称:立法王( Kanuni)カヌーニ
ヨーロッパでの愛称:荘厳王(The Magnificent)ザ・マグニフィセント
日本では「スレイマン大帝」

生年:1494年11月6日
没年: 1566年9月7日(満71歳)
在位:1520年9月30日~1566年9月7日
在位期間:45年341日

即位直後からベオグラードを攻撃占領。聖ヨハネ騎士団が立てこもっていたロドス島を占領。ハンガリーを攻めて降伏させ属国化。オーストリアのウィーンを攻めましたが膠着状態になって和睦。その後は東のサファビー朝との戦いバクダートを占領。南イラクとアゼルバイジャンを支配下におきました。地中海ではキリスト教国から「バルバロス」と恐れられたフズル帝国の海軍が活躍して地中海の制海権を支配。
大宰相イブラヒムを重用しましたが謎の処刑。その後は、ヒュレム妃の影響力が強まり後に「女人の統治」とよばれるハレムが政治に影響を与える時代のきっかけを作ったとも言われます。

最新兵器をそなえた近代化された軍隊をもち当時のヨーロッパ・イスラム諸国では最強。オスマン帝国の全盛期を築いたと言われます。

・スレイマン1世の詳しい説明はこちら。

 

 

オスマン帝国歴代皇帝・10代スレイマン1世から19代アフメト4世まで

 

 

 

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