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スレイマン1世・オスマン帝国の黄金時代を作った壮麗帝

スレイマン1世

スレイマン1世はオスマン帝国の第10代皇帝。領土を拡張しオスマン帝国の全盛期を築いた皇帝です。

ヨーロッパでは壮麗帝(the Magnificent:ザ・マグニフィセント)、日本ではスレイマン大帝と呼ばれることがあります。トルコでは様々な制度を作り、帝国の基礎を整備したことから立法帝(Kanuni:カーヌニー)と呼ばれます。

オスマン帝国が最盛期を迎えたのは18世紀ですが、その基礎を作ったのがスレイマン1世と考えられました。そのためスレイマン1世はオスマン帝国の歴代皇帝の中でも特別な人物とされています。

名前のスレイマンは伝説の王・ソロモンのトルコ語読みです。

スレイマン1世について紹介します。

目次

スレイマン1世の史実

名前:スレイマン(Süleyman I,)
地位:オスマン帝国皇帝(Kanuni Sultan)
生年:1494年
没年:1566年
父:セリム1世(SelimⅠ)
母:ハフサ・スルタン
正妻:ヒュッレム・スルタン
 子:メフメト 1521年
   ミフリマーフ 1522年
   セリム2世 1524年
   バヤズィット 1525年
   ジハンギル 1531年。
夫人:マヒデヴラン・スルタン
 子:ムスタファ 1515年

夫人:フーラナ・ハトゥン
 子:ファティマ 1520年。

夫人:ギュルフェム・ハトゥン
 子:ムラド 1519年

その他の子供
マフムート 1512年 母:不明
アブドゥラー 1522年 母:ヒュッレムかマヒデヴラン

スレイマン・モスク

スレイマン1世が造ったスレイマン・モスク

1494年。オスマン帝国9代皇帝セリム1世の息子として産まれました。

生母はセリム1世の側女だったハフサ・ハトゥン。

スレイマンは成人するとカッファの太守を勤め、政治経験をつみました。
父セリム1世が即位後はマニサの太守を勤めました。

セリム1世が遠征の間は宮殿のあるエディルネに行き国をまもっていました。

皇帝に即位

1520年。父・セリム1世が死去。その当時は一人息子だったスレイマンは即位しました。25歳でした。即位したその年にシリアで反乱が怒りましたが鎮圧しました。

1521年。ハンガリー遠征を行い、ベオグラードを奪いました。ベオグラードはキリスト教国の防波堤ともいえる場所。歴代の皇帝も攻め落とすことができなかったベオグラードを即位後わずかの期間で攻め落としたことはヨーロッパ諸国にとっては衝撃でした。

1522年。ロードス島に立てこもるヨハネ騎士団を攻撃。ヨハネ騎士団は地中海を航行するイスラム教国の船を襲って略奪を繰り返していました。ロードス島からヨハネ騎士団を追い出すことで海が安全になったのです。

イブラヒムを抜擢

ロードス島から帰るとスレイマンは寵臣イブラヒムを大宰相に抜擢しました。スレイマンの皇太子時代からの側近でしたが、スレイマンが即位後も公式的には政治的な役職についていませんでした。いきなり大宰相に任命したのです。またイブラヒムのためにイスタンブルに豪華な屋敷を建てさせました。イブラヒムは自宅の屋敷で会議をする権利を与えられました。イブラヒムの権限を強くしたのは、父王時代いからの旧臣に対しする牽制でした。先代から仕える重臣は若い王を甘く見て従わないことがあります。そこで自分の意のままになる家臣を取り立てたのです。

イブラヒムを名門イスケンデル・パシャの孫娘ムフスィネと結婚させました。イスケンデルはイブラヒムの後ろ盾となり、スレイマンの思い描く政治の実現が勧めやすくなりました。

1522年にはエジプトで反乱が起こります。父王セリムの時代にオスマン帝国に組み込まれたエジプトは不安定でした。スレイマン1世はイブラヒムを送り込み、反乱を鎮圧しました。

1526~27年にかけてはアナトリアでサファビー派の部族が反乱を起こしましたが鎮圧します。

1526年。モハーチの戦いで、ハンガリー王ラヨシュ2世を戦死させ、ハンガリーの首都ブダを攻略しました。サポヤイを王にしてハンガリーを従属させます。これに反対したのがハプスブルグ家のオーストリア大公フェルディナントです。フェルディナントはラヨシュ2世の姉と結婚していました。そこで自分に相続権があると主張したのです。それに対してスレイマンはウィーンを目指して遠征を行います。

ウィーン包囲戦

1529年5月。15万の大軍でオーストリアの首都ウィーンを目指しました。ところが悪天候に悩まされ、ウィーンに到着したのは4ヶ月後の9月でした。スレイマンが到着したとき、フェルディナントはすでにウィーンを脱出していました。スレイマンは闘う相手のいなくなったウィーンを3週間包囲しましたが、補給が追いつかなくなり撤退しました。ウィーンを落すことはできませんでしたが、ハンガリー王はサポヤイに決まりました。

1532年。再びウィーンを目指して遠征しますが、途中で和睦しました。この協定でオーストリアは毎年3万グルデンの上納金を治めることになりました。

サファビー朝との戦い

ハプスブルグ家との争いが一応の小康状態になると、スレイマン1世は東方に目を向けます。

サファヴィー朝ではイスマイール1世の死後、部族間の争いが続いていました。

1533年。イブラヒムをアゼルバイジャンに遠征させ、自らもイラクに遠征します。

サファヴィー朝に仕えていたバクダード城司がオスマン帝国に寝返ると、1534年。スレイマンは軍を派遣してイラクのバグダートを占領しました。サファヴィー朝のタフマースブはオスマン帝国と正面から闘うことは避け、補給切れを狙う作戦に出ました。サファビー朝とは大きな戦いはおきず和睦。イラクを支配下に置きました。

イブラヒムの処刑

遠征後の1536年にイブラヒムが処刑されました。増長したからだとも、宮廷の陰謀に巻き込まれたともいわれましたが、その理由は不明です。大きな権限を持っていたイブラヒムが宮廷の人々の妬みや批判を受けたのは事実でしょう。またイブラヒムはムスタファ皇子を支持していたため、自分の息子の即位を狙うヒュレムたちの讒言があったともいわれます。

イブラヒムの死の影響は権力者の交代にとどまりませんでした。オスマン帝国はイスラム教国でしたが、キリスト教やユダヤ教にも理解を示し、同じ一神教の民族同士が協力し合う国を目指していました。イスラム教に改宗後もキリスト教文化を捨てなかったイブラヒムはある意味、オスマン帝国の目指する姿を表現していました。しかしイブラヒムの死後、オスマン帝国はイスラム教の支配が強くなり他の宗教への寛容性が失われていきます。

その後もスレイマンは2度遠征を行いましたが目立った成果は出せませんでした。

ヒュレム時代

イブラヒムの死後、大きな力を持ったのが寵妃ヒュレムです。1534年に奴隷の身分から開放され、法的な妻となりました。オスマン帝国では久しぶりに皇后が復活したのです。

オスマン帝国では建国からしばらくは、皇帝の妻に周辺国から王女を迎えて正式な婚姻を行っていました。皇后の座は政略結婚のためにあけておくものだったのです。しかしスレイマンの時代には政略結婚できる相手はいませんでした。まして奴隷身分のものを開放して正式な婚姻を行うことは始めてでした。

スレイマンはヒュレムのためにトプカプ宮殿のハレムを増築。ヒュレムがトプカプ宮殿で暮らすことを許可しました。

皇子が知事になって地方に赴任するときは母親が付いていくのが慣習でした。しかしヒュレムはトプカプ宮殿から出ませんでした。ヒュレムの扱いは異例続きでした。

イブラヒムの死後、スレイマンは目立った遠征は行っていません。広くなった領土を治める方に力を注ぐことになります。

1550年。スレイマンの命令でモスクを建設。7年の歳月をかけて完成しました。スレイマン1世のほかヒュレムの墓所もモスク内にあります。現在はスレイマン・モスクと呼ばれ世界文化遺産にもなっています。

後継者争い

スレイマンの治世も後半になると後継者問題が大きな課題になります。

スレイマンには何人もの皇子がいました。その中で第一夫人マヒデヴランが産んだムスタファが軍や民衆の人気を集めていました。

スレイマンは才能があるメフメトに期待していました。しかし1543年に天然痘で死亡しました。

有力な後継者がいなくなると、イエニチェリ(常設歩兵)たち軍人はムスタファの即位を望むようになりました。

1553年。スレイマンはサファビー朝への遠征中にムスタファを呼び出します。ムスタファがやって来たところを兵に命じて殺害させました。殺害の理由は謀反の罪でした。ムスタファの子どもたちや側近も処刑されました。かつて父王セリム1世は祖父バヤズィット2世を廃して即位しました。人気と才能があったムスタファが、自分にとって変わるのではないかと恐れたのだと言われます。

同じ年、病弱だったジハンギルが死亡。

1558年。ヒュレムが死亡。

スレイマンは息子たちの反乱を怖れ首都から遠くの都市に赴任させました。するとセリムとバヤジットの争いが始まります。セリム派はバヤジットの良くない噂をスレイマンに吹きこみバヤジットへの信頼を失わせます。

1559年。あせったバヤジットが反乱を起こすと、スレイマンはセリムを援助して鎮圧させます。バヤジットはサファビー朝に亡命しました。スレイマンは圧力をかけて現地で処刑させました。

セリムが後継者として残りました。

1566年。スレイマンは久しぶりに遠征を行います。オーストリア大公フェルディナントの死後、上納を行ったマクリシミリアン2世を討つためでした。しかし遠征途中で死去します。71歳でした。

スレイマン時代の栄光と闇

晩年のスレイマンは若い頃のような、判断力を失い疑心暗鬼に陥っていたようにも思えます。ヒュレムをちょうあいするあまり、慣例を破りハレムに権限をもたせすぎました。その結果、ハレムの人々が政治に口を出し、国の政治を左右する時代がやってくるようになります。

スレイマン1世はヨーロッパのキリスト教国と戦い大きな衝撃を与えました。また周辺のイスラム教国とも戦い勢力を広げます。ヨーロッパではスレイマン1世を壮麗帝(the Magnificent:ザ・マグニフィセント)と呼び強力な皇帝として人々の記憶に残りました。オスマン帝国でも栄光の時代として記憶され、後の世にオスマン帝国が衰退すると「スレイマンの時代に戻れ」と後世の人々からも目標にされるようになります。

スレイマンの死後は、スレイマンが残した優秀な重臣がいたため問題にはなりませんでした。しかしやがてオスマン帝国は衰退に向かいます。

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