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オスマン2世・史上初反乱で殺害された若い皇帝

オスマン帝国国旗

オスマン2世はオスマン帝国の16代皇帝です。

14歳で即位した若い皇帝でしたが、意欲的に政治に取り組み遠征を行いました。

ところが兵士たちと対立。兵士たちが反乱を起こして殺害されました。オスマン2世はオスマン帝国の皇帝の中で初めて反乱で殺されたスルタンであり、最年少で亡くなった皇帝です。

メフメオスマン2世はどのような人物だったのかご紹介します。

 

目次

オスマン2世の史実

名前:オスマン2世(Ⅱ. Osman)
愛称:ゲンチ(若い) オスマン(Genç Osman)
ペンネーム:ファリシー(Farisî)
国:オスマン帝国
地位:皇帝
在位:1618年2月26日 – 1622年5月20日
生年:1604 年 11月3日
没年:1622 年 5月20日
享年:17歳
父:アフメト1世
母:マフフィルーゼ・ハトゥン
妻:アイシェ・スルタン
メイリシャ・ハトゥン
アキレ・ハトゥン

子:
シェフザーデ・オメル(1621年10月20日生まれ、1622年1月死亡)
シェフザーデ・ムスタファ (1622 年 11 月生まれ、1623 年没)
ゼイネプ・スルタン (1622 年 11 月生まれ、没?)

 

オスマン皇子のおいたち

1604 年 11月3日。オスマン皇子が誕生。

父はオスマン帝国 第14代皇帝アフメト1世
母はマフフィルーゼ・ハトゥン。

オスマン皇子は弟のメフメト皇子と共に成長。師父オメル・エフェンディが彼らの教育を担当しました。

俗説では母親のマフフィルーゼはキョセムによってトプカプ宮殿を追い出され。旧宮殿に送られたとされますが、実際にはトプカプ宮殿にいたようです。

1608~1612年ごろ。母マフフィルーゼ・ハトゥンが死亡。死因は出産によるものと考えられます。その後は乳母や女官、宦官たちに育てられました。

オスマン皇子はオスマン語、アラビア語、ペルシャ語を学びました。西洋の記録ではオスマン皇子は非常に教養があり、ラテン語、ギリシャ語、イタリア語を学んだといわれます。

ヴェネツィア大使の報告書によると、キョセム・スルタンはオスマンとメフメトを連れて馬車で出かけたと書かれています。キョセムは母のいない皇子の面倒もみていたのかもしれません。

ところが1616年にアフメト1世はキョセムとオスマンが会うのをを禁止しました。キョセムがオスマンに危害を加えるのではないかと心配したのかも知れません。

ムスタファ1世の時代

1617年。父のアフメト1世が崩御。叔父のムスタファ1世が即位しました。

即位できなかった理由としては母のマフフィルーゼが既に亡くなっていたため宮廷で指示してくれる人が少なかったからと考えられます。

オスマン皇子は旧宮殿で暮らしました。

しかしムスタファ1世は精神的に不安定だったので96日で退位させられました。

 

オスマン2世即位後

1618年2月26日。オスマン2世は皇帝に即位。トプカプ宮殿に戻ってきました。このとき13歳。

即位の後、軍人に謝礼が配られました。ところがムスタファ1世のときにも謝礼金が配られて1年もたっておらず。財政が厳しかったので一部の兵士がお金を受け取れませんでした。

オスマン2世が即位して間もないころ。イェディクレ牢に幽閉されていたメフメト・ギライが儀式のどさくさに紛れて脱走。オスマン2世最初の命令は彼を捕らえるために兵を送り込むことでした。

そして自分ではなくムスタファ1世の即位を支持した大宰相ソフ・メフメト・パシャを解任。代わりにダマト・ハリル・パシャを大宰相にしました。

イスラム長老エサド・エフェンディの権限を制限、オメル・エフェンディに権限を与えました。こうした決定には師父のオメル・エフェンディの影響があったといいます。

サファヴィー朝イランと和睦

オスマン2世が即位したとき、オスマン軍はサファヴィー朝イランに遠征している最中でした。

オスマン軍はプリ・シケステでイラン軍に敗北。でもイランは神聖視していたアルデビール市がオスマン軍の手に落ちるかもしれないと考え和平を要求。セラブ条約が締結しました。

この条約は1612年のナスフ・パシャ条約の時よりもサファヴィー側に領土を少し譲る形になっています。この和平は1623年にアッバース1世が率いるサファヴィー側に破られるまで続きました。

キリスト教国の争いに介入

当時のヨーロッパではカトリックとプロテスタントが対立。オスマン帝国はスレイマン1世の時代からプロテスタントを支援していました。オスマン2世の時代もプロテスタントへの支援は続けられました。とくにトランシルヴァニアで起きたプロテスタントの反乱ではオスマン帝国が影響を与えています。

イタリアと地中海への遠征

ダマト・ハリル・パシャ指揮下のオスマン帝国海軍は1620年に地中海遠征に出ました。彼は軍をイタリアに上陸させスペイン領だった港湾都市マンフレドニアを占領しました。

 

ポーランド遠征

次にオスマン2世はポーランド遠征を計画しました。遠征を提案したのはアリ・パシャでしたが、アリ・パシャの死後も遠征計画は続けられました。

オスマン2世がポーランド遠征を決めた理由はいくつかあります。

モルダヴィアの所属をめぐる問題

伝統的にモルダヴィアはポーランドの属国と考えられていましたが。16世紀ごろからオスマン帝国がモルダヴィアへの影響力を強め、オスマン帝国の保護国と考えるようになっていました。それに対して16世紀末から17世紀初頭にかけてポーランドの有力者がモルダヴィアに介入していました。

コサックの襲撃の問題

黒海北岸にはコサックと呼ばれる人々がいて、ときおり黒海を船で南下しアナトリア北岸を略奪していました。さらにはボスポラス海峡に侵入してイスタンブール郊外を襲撃することもありました。

オスマン2世はこのコサックをポーランドが支援していると考え、ポーランドに襲撃を止めさせるように要求。ポーランドはオスマン領を攻撃しているのはポーランドの支配下にあるザポリージャコサックではなく、モスクワの援助を受けたドンコサックだと回答。でもオスマン2世はポーランドに警告。

皇帝の権威を高める

また、遠征に勝利して皇帝の権威を高めるのも目的のひとつでした。若いオスマン2世は祖先のような偉大な皇帝になりたいと思っていました。

そして1621年。オスマン2世はポーランドへの親征を宣言しました。

メフメト皇子の処刑

オスマン2世は出陣の前に、反乱者に担がれる恐れのある弟メフメトを処刑しました。イスラム長老エサトはこの処刑に反対しました。オスマン2世はイスラム長老に次ぐ帝国第2位のウラマー、バルカンの軍法官から処刑に賛成する法意見書を得て処刑を正当化しました。

遠征の失敗

しかし、ポーランド軍はオーストリアから援助を受けて軍を強化。このころイェニチェリのモラルが低下。戦争に行かない兵士も増えていました。その結果、オスマン軍はホティン要塞の占領に失敗しました。

1621年10月。オスマン軍とポーランド軍は和睦。ホーティン条約が結ぼれました。

主な内容は以下の通り。
・タタール人(クリミア・ハン国の人々)はポーランドを襲撃しない。
・ホーティンはオスマン帝国統治下のモルダヴィア領に所属する。
・ポーランドはクリミア・ハン国に税を払う。

その結果、ポーランドはオスマン帝国のポーランド本土への侵攻を阻止した。オスマン帝国はモルダヴィアの安全を確保した、とお互いに勝利を主張しました。

この後、しばらくオスマン帝国とポーランドの間には平和が続きました。

オスマン2世は帰国後、イスタンブールで勝利の凱旋を行いました。

しかし戦いに勝利できなかったため皇帝の権威は落ちました。

オメル皇子の死亡

遠征から帰還後。遠征の勝利と皇子の誕生を祝っての祝賀記念行事が行われました。行事ではポーランド戦を再現したショーが実演されました。その最中に幼いオメル皇子が死亡。理由はよくわかりません。オスマン2世は皇子の死を悲しみ、三日間喪に服したと言われます。

オスマン2世の政治

オスマン2世は様々な改革を進めようとした人物と言われますが。その多くは19世紀に想像で書かれた物が多く、オスマン2世が実際に様々な改革をしようとしたわけではありません。

でも記録に残るものをみてもオスマン2世が何かをした・しようとしていたことは確かです。

1619年10月。新しい貨幣を鋳造させました。また頻繁にトファンを訪れ、大砲の鋳造工事を視察。大砲やライフルの訓練を見ました。

オスマン2世はポーランドとの戦いに勝てなかったのはイェニチェリが堕落しているためだと考え、軍の秩序と規律を直そうとしました。

また、変装してイスタンブールの街を頻繁に視察。兵士がよく利用する酒場を抜き打ち調査。逮捕した兵士を厳しく処罰しました。しかし皇帝が民の格好をして街に出てこのような行動をするのは皇帝の権威を損なう行いだとして批判的な人もいました。

オスマン2世は兵士の数を調査。名簿よりも実際の兵士の数が少ないことがわかりました。でも給料は名簿に記載された分だけ払われています。いない兵士の給料は隊長たちが自分のものにしていました。軍ではそのような給与の水増し請求が横行していました。

それに対してオスマン2世は余剰分の給与の支給を削減。横領できなくなった軍の者たちは不満を強めます。またオスマン2世は伝統的なイスラム法学者にあまり印象をもっておらず、彼らに払う給料を削減しました。

自由人との結婚

その後。オスマン2世は有力政治家ペルデヴ・パシャの娘とイスラム長老エサトの娘との正式な婚姻を結ぶことにしました。イスラム教では4人まで妻をもつことを許されています。有力者と婚姻関係を作って皇帝の影響力を強めようとしたのです。

しかしオスマン帝国では長い間、皇帝と自由身分のムスリム女性との正式な婚姻は行われていません。君主が臣下の娘と結婚するのは前代未聞です。伝統を壊す行いにイスラム長老たちは反対しました。しかしオスマン2世は実行しました。

オスマン2世の最期

オスマン2世がポーランド遠征から戻ってから5ヵ月後。

当時レバノンでマノル・ファハレッディンが反乱を起こしたので、討伐のためにオスマン2世が自ら遠征を決定しました。臣下たちは小さな反乱のために皇帝が遠征する必要はないと反対しました。

さらにオスマン2世は遠征の途中でメッカ巡礼も計画しました。ポーランド戦での結果を悔やみ、祖先たちが誰もやっていないことをして権威を高めようとしました。でも皇帝がメッカ巡礼したことは一度もなく、臣下たちは反対しました。メッカに行く代わりに皇帝の名前を付けたモスクを建てることを提案しましたが、オスマン2世は決定を変えません。

やがて「皇帝はイスタンブールを放棄してアナトリアに遷都しようとしている」「イェニチェリを廃止してアナトリアから兵を集めダマスカスやエジプトからの兵とともに新しい軍隊を作ろうとしている」という噂が流れました。これはオスマン2世を快く思わない者たちが流した嘘なので、事実ではありません。

大宰相やイスラム法学者、宦官長たちが遠征やメッカ巡礼をしないように説得しましたが、オスマン2世は決定を変えません。

オスマン2世の時代には母后がいません。ハレムは乳母のダイエ・ハトゥンが管理。母后の権限を担当していました。でも乳母ダイエや皇帝妃のアイシェに政治的な力はありません。一方、ムスタファ1世の母ハリメやキョセムはオスマン2世に反感をもつ兵士に資金援助しました。

もともと兵士やイスラム法学者の間にはオスマン2世に不満を持つものが大勢いました。そこにこのような噂が流れ兵士たちは動揺し、ついに挙兵します。

イェニチェリの反乱

1622年。イェニチェリ軍団はダヴト・パシャを大宰相に擁立、彼らと共に蜂起しました。

兵士とイスラム法学者たちはスレイマン・アガやホカ・オメル・エフェンディ、ディラヴェル・パシャなどの高官を処刑するようにオスマン2世に要求。オスマン2世が拒否すると宮殿に突入。

オスマン2世はしばらく抵抗しましたが、兵士たちは幽閉されていたムスタファ1世を助け出すと彼を皇帝だと宣言します。

抵抗は難しいと考えたオスマン2世はディラヴェル・パシャと宦官スレイマン・アガを引き渡しました。イスラム長老エサトが兵士たちに兵舎に帰るよう説得しましたが、兵士たちの怒りは収まりません。

オスマン2世はオフリド・フセイン・パシャの提案でイエニチェリ長官アリ・アガの邸宅に行き、そこに非難。アリ・アガ長官にイェニチェリの説得を命じます。

しかし兵士たちはアリ・アガ長官の説得を聞かずにアリ・アガ長官を殺害しました。イェニチェリたちはオスマン2世がアリ・アガ長官の邸宅にいるのを知り、襲撃。オスマン2世を捕らえた兵士たちはオスマンを馬に乗せて引き回し侮辱しました。オスマン2世の具体的な殺害方法については諸説ありますが、「イェディ・クレ(七塔の砦)」の牢で絞殺されたと考えられています。殺害後、遺体から右耳が切り取られ、新母后ハリメのもとに送られました。

オスマン2世の死後、叔父のムスタファ1世が再び復位しました。

しかしオスマン2世の殺害に不満を持ったエルズルム州総督のアバザ・メフメト・パシャが反乱をおこすなど混乱は続きます。

ドラマ

新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム 
シーズン1 2016年、トルコ 演:タネル・オルメズ(Taner Ölmez)

 

 

 

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