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メフメト3世ギライ|王位争いに明け暮れたクリミアハン国のハン

クリミアハン国国旗

メフメト3世ギライは16世紀末から17世紀のクリミアハン国のハン(国王)。

メフメト3世ギライが生きていた時代のクリミアハン国は王位を巡って争いが続いていました。

ハンだった祖父や父を殺され国外に逃げましたが。国に戻りハンの座を狙いました。

ハンになった後は。対立する王族との戦いが続きます。クリミアハン国の王位争いはオスマン帝国の思惑にも振り回されました。

地位を失った後はコサックなどと協力してハンに戻ろうとしましたが戦死してしまいます。

メフメト3世ギライとはどのような人物だったのか紹介します。

目次

メフメト3世ギライの史実

名前:メフメト3世ギライ(Mehmed III Giray)
国:クリミアハン国
地位:王族→ハン(王)
民族:クリミアタタール人
生年:1584年
没年:1629年
在位:1623-1628年
父:サーデト2世・ギライ
母:エス・トゥルガン
兄:メフメト3世・ギライ

妻:不明
子:不明

 

メフメト3世ギライ時代のクリミアハン国とその周辺

クリミアハン国

おいたち

父はクリミアハン国のハン(国王)

1584年誕生。祖父はクリミアハン国のハン(国王)メフメト2世ギライ

父は後にクリミアハン国のハン(国王)になるサーデト・ギライ。
母はエス・トゥルガン。

当時、クリミアハン国は王位をめぐって争いが続き。

1584年。祖父 クリミアハン国のハン(国王)メフメト2世ギライが殺害され。家族は国外に逃亡。数カ月後、父サーデト・ギライがクリミアに戻りハンを名乗ります。

父サーデト2世・ギライと家族はイスリヤム2世に国を追われてしまいます。父サーデト2世は1587年に死亡しました。ロシアによる毒殺と言われます。

1594年頃。ガージー2世ギライの時代。メフメトは兄デヴレットや弟シャーヒンと母エス・トゥルガンたちはクリミアに戻りました。

兄デヴレットがヌレディン(重臣)になりました。

1601年。兄デヴレットはガージー2世に反乱を企て処刑されました。メフメトとシャーヒンの兄弟は逃亡。数カ月後、ガジ2世の弟セラメトも謀反を疑われ逃亡。

メフメト、シャーヒン兄弟はオスマン帝国に逃亡

メフメト兄弟とセラメトはオスマン帝国に逃げました。

ガージー2世ギライはオスマン帝国にセラメトの返還を要求。オスマン帝国皇帝メフメト3世はセラメトをアナトリアへ追放。

メフメト兄弟はセラメトとともにジェラーリ反乱軍に参加しました。

1603年頃。兄弟と反乱軍は赦免されましたが。やがて兄弟は何らかの理由でイェディクレ要塞に幽閉されました。

1607年。ガージー2世が死去。王位は息子のトクタミシュが継ぎました。ところがオスマン帝国は拒否。セラメトを獄中から釈放してハンにしてメフメトをカルガ(宰相)に任命しました。

1608年メフメトたちはイェニチェリ(オスマン帝国の常備歩兵軍)を率いてクリミアに向かいました。途中でトクタミシュ・ギライを討ち破りました。

メフメト兄弟とセラメトはクリミアに入り。セラメト1世ギライは正式に即位しました。

セラメト1世ギライとの対立

やがてメフメト、シャーヒン兄弟はセラメト1世ギライから王位を奪おうと考えます。しかしセラメト1世ギライも気づいてメフメトたちを捉えようとしました。

メフメト兄弟はコーカサスへ逃亡して兵を集めました。

ジャニベックがカルガ(宰相)になりました。

セラメト1世ギライはオスマン帝国に援軍を求めましたが、アフメト1世はリズヴァン・パシャを派遣。セラメト1世ギライとメフメト兄弟を和解させました。

メフメトたちがクリミアに戻る途中でセラメト1世ギライが死亡。

クリミアハン国のハンになる

兄弟はクリミアハン国の首都バフチサライに向かいました。メフメト3世ギライがハン(国王)を名乗り、弟のシャーヒンはカルガ(宰相)になりました。

ただしクリミアハン国の歴史ではこのときのメフメト3世は正統なハン(国王)とは認められていません。

ジャニベック・ギライはオスマン帝国に助けを求めました。

メフメト3世ギライはジャニベックを戻すように要求。リズヴァン・パシャはメフメト3世ギライは正当なハンではないと拒否。アフメト1世はジャニベックをクリミアのハンに任命。オスマン軍とともにクリミアに派遣しました。

1610年。オスマン軍が来るとメフメト1世ギライとシャーヒンは草原に逃亡。ジャニベック・ギライがクリミアのハンになりました。

オスマン軍がクリミアを去ると兄弟はクリミアに戻り戦いましたが敗北。

シャーヒンはブジャク(ウクライナ・ベッサラビア地方)に逃げました。メフメトはオスマン帝国に行って支援を求めました。

オスマン帝国に援助を求める

メフメト・ギライはオスマン帝国のナスハ・パシャの支持を得ました。

ナスハ・パシャは狩りの機会を用意してメフメト・ギライがアフメト1世に会える場面を作りました。

ところがナスハ・パシャの政敵はアフメト1世を暗殺しようとしたと非難。ナスハ・パシャはナスフは権力を失い、1614年に処刑された。

メフメト・ギライはイエディクレ牢獄に送られました。

1618年2月。メフメトは脱獄。ブルガリアの海岸で捕らえられロードス島に流されました。

しかしロードス島での待遇は悪くありません。ここでメレ・ヒュゼイン・パシャと出会い、彼と親しくなりました。

1623年2月。メレ・フセイン・パシャは宰相になりました。彼はメフメト・ギライをロードスから開放。無能なジャニベック・ギライの後任としてクリミアハン国のカンにしました。

メフメト3世ギライが公式にクリミアのハンになる

1623年5月19日。メフメト3世ギライはカッファに到着。ジャニベック・ギライは逃亡しました。

メフメト3世ギライは武装勢力 ブジャック大群とそれを率いるカーン・テミルをなんとかしようと考えました。

オスマン帝国とポーランドは和平を結んだばかり。ところがカーン・テミルは金儲けのために略奪を続けていたのです。

メフメト3世ギライはクリミア軍を率いてカーン・テミルを説得して東のシュット・スー川付近に移動させました。

ところが今度はザポロージアコサックがクリミアを襲撃。首都に到達しそうになりました。

その報復としてマンスール・ベイはポーランドを襲撃。多くの捕虜を捕らえました。

オスマン帝国と対立

1623年8月。オスマン帝国でムラト4世が即位。メレ・フセイン・パシャが失脚しました。

オスマン帝国の有力者はジャニベック・ギライを支持するようになります。それを知ったクリミアハン国の貴族たちはオスマン帝国にメフメト3世ギライの不満をもらします。

彼らの言い分はドンコサックがクリミアを襲撃したのにメフメト3世ギライがそれを止めなかったことでした。

オスマン帝国はメフメト3世ギライに兵を率いてサファビー朝イランに遠征するように指示。でもメフメト3世ギライはザポリージャコサックからクリミアを守るためと言って遠征しませんでした。

ムラト4世はメフメト3世ギライを退位させ、ジャニベック・ギライをカンにしようと考えました。

このころ弟シャーヒンが戻ってきたのでカルガ(宰相)にしました。

メフメト3世ギライとシャーヒン・ギライはオスマン帝国に抵抗することに決め、貴族の子供を人質にして味方にして、反対するベイ(貴族)を粛清。民衆を説得。ノガイ人、サーカシア人、クリミア人から兵を集めました。ザポロージア・コサックとも同盟を結びました。

6月。オスマン帝国はジャニベック・ギライとオスマン軍をカッファに上陸させました。

7月には同盟したザポリージャ・コサックの船団がイスタンブール郊外を襲撃しました。コサックの船団はオスマン軍の抵抗にあって撤退しました。オスマン軍は首都を守るため船団をクリミアから撤退させました。

一方、クリミア軍はジャニベック・ギライ率いる軍を撃破。ジャニベック・ギライを敗走させました。

シャーヒン・ギレイはカッファに攻め込もうとしましたが。カッファはオスマン領のため、メフメト3世ギライは攻撃を中止させ和平交渉しました。

ムラト4世はメフメト3世ギライをクリミアハン国のハンと認めました。歴史上はこのとき公式にハンに認められたことになります。

弟シャーヒン・ギライの暴走

メフメト3世ギライはオスマン帝国とこれ以上戦うつもりはありませんでした。

しかし好戦的なシャーヒン・ギライはクリミア・ポーランド・ザポロージア同盟を提案。共同でオスマン帝国と戦おうと呼びかけます。ポーランドはオスマン帝国と和平したばかりなので非協力的でした。

1625年。クリミアとザポリージャ・コサックが同盟を結びました。それまでポーランドの支配下にあったザポリージャ・コサックを初めて独立国と認めた同盟といわれます。

その動きを知ったオスマン帝国は、ポーランドが和平を破ったと判断(ザポリージャコサックはポーランドの支配下にあると思われていたため)。メフメト3世ギライにポーランド攻撃を命令。

1626年。クリミア・ブジャック大群はヴォルィーニとガリツィアの村(現在のウクライナ。当時はポーランドのザポリージャコサックの支配地域)を襲撃しました。しかしザポリージャコサックの抵抗にあって撤退します。

シャーヒン・ギライはポーランドへの攻撃命令に反対。軍を率いてブジャック大群を支配下に置きました。しかしブジャックの貴族たちには不満がたまります。

ハンの地位を失う

ブジャック大群のカーン・テミルとの対立

メフメト3世ギライはシャーヒンに命じてブジャック大群を東に移動させました。

そのころメフメト3世ギライの義父がブジャク・ミルザに殺害されました。メフメト3世ギライの義父はかつてカーン・テミルの叔父を冊が押しており、カーン・テミルの仕業に違いないと思いました。そこでシャーヒンにカーン・テミルの逮捕を命令。カーン・テミルは逃げたのでシャーヒンはカーン・テミルの親戚を人質に取り戻るように要求。カーン・テミルが拒否するとシャーヒンは人質を殺害しました。

カーン・テミルはオスマン帝国に助けを求めました。

メフメト3世ギライはオスマン帝国と交渉しましたがうまくいきません。

オスマン帝国はクリミアにポーランドを攻めるように要求。

1628年。シャーヒンが軍を率いてポーランド遠征に向かうふりをしてブジャクのカーン・テミルを攻めました。ところがババダグの村の村でブジャク大群と戦闘になって敗北。シャーヒンはバフチサライに戻ってきました。カーン・テミルはバフチサライに攻めてきます。クリミア軍はババダグの戦いで多くの兵を失っていたので、メフメト3世ギライとシャーヒンは、バフチサライを出てチュフトケールの要塞に逃げ込みました。

カーン・テミルはバフチサライを占領したものの。ザボリージャ・コサックがクリミアに攻め込みバフチサライを占領。カーン・テミルは逃亡してカッファのオスマン軍に助けを求めました。

メフメト3世ギライとシャーヒンは兵を集めるとカーンテミルのいるカッファを包囲。ところがオスマン帝国の援軍がジャニベック・ギライとともに到着。

メフメト3世ギライとシャーヒンは逃げました。

ジャニベック・ギライはオスマン帝国の助けを借りてクリミアハン国のハンになりました。

ザボリージャ・コサックと再び同盟

このときメフメト3世ギライは山に逃げこみました。

シャーヒンはドニエプル川のポーランドにコサックを派遣するように要請しました。

ポーランドはザボリージャ・コサックを派遣。シャーヒンと合流しました。しかしポーランドはオスマン帝国と対立したくなかったので、コサックが勝手に動いていることにしました。

このころメフメト1世ギライは山からクリミア半島を横断しシャーヒンに合流しました。

1度目のバフチサライ攻撃

1628年11月。シャーヒンとメフメト3世ギライはジャニベック・ギライのいるバフチサライの攻撃を計画。クリミア軍とザボリージャコサックバフチサライを攻撃をしかけました。ところがコサックはコサックは牛の大群がいるのを見つけると牛を略奪してそのまま帰ってしまいました。

メフメトたちはコサックを止めることができませんでした。

メフメトたちもジャニベック・ギライに味方するカーンテミルの追撃を振り切って撤退しました。

2度目のバフチサライ攻撃

1629年。春が来てドニエプル川の氷が溶けたころコサックと共にクリミア襲撃を計画。クリミアを襲撃しましたが敗退。

5月。カーン・テミルがザポリージャに攻めてきました。

部隊は水不足で部隊の士気が下がっていました。負けたと思ったメフメト3世ギライはカーン・テミルの部下に降伏を伝えます。

カーン・テミルは部下を連れて投降しようとしましたが。コサックたちは投降を止めようとしました。それを見ていたカーン・テミルはブジャック軍を突撃させました。

乱戦になり、メフメト3世ギライはコサックの矛に貫かれて戦死しました。メフメト3世ギライの遺体はクリミアに持ち帰られ、父親や祖父と一緒に埋葬されました。

弟のシャーヒン・ギライは数人の部下とともに脱出してその後も戦い続けました。

 

ドラマ

新オスマン帝国外伝キョセム 2015年、トルコ 演:カディル・ドウル

クリミアの領主。シャーヒン・ギライの兄。後のクリミアハン国のハーン。ファーリエ・スルタンと恋仲になります。

 

 

 

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