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偽ムスタファ事件とは

オスマン帝国

オスマン帝国の第10代皇帝スレイマン1世の長男・ムスタファ皇子は兵士や人々から人気があり、将来を期待されていました。ところがスレイマン1世から謀反の疑いをかけられ処刑されてしまいます。

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皇子処刑の影響は大きく兵士たちが騒ぎ出したり様々なところで影響が出ました。アナトリア。とくに皇子の赴任先だったマニサ、アマスヤ、コンヤ(いずれも皇子の赴任先)では人々の動揺が大きかったようです。スレイマン1世は大宰相リュステムを解任して騒ぎを収めようとしました。

ところが「ムスタファ皇子」を名乗る者が反乱を起こしてしまいます。

偽ムスタファ(Düzmece Mustafa)事件、偽ムスタファの反乱とよばれる出来事です。

オスマン帝国の歴史にはムスタファという名前の人物は何人もいます。偽ムスタファ事件も何度かおきています。

歴史上は5代皇帝メフメト1世の時代におきた偽ムスタファ事件が有名です。4代バヤジット1世の息子ムスタファはティムール王朝に捕まって死んだものと思われていました。メフメト1世の治世に「ムスタファ」を名乗る人物が反乱を起こしました。オスマン帝国の記録では「偽ムスタファ」とよばれています。でもこのときの偽ムスタファは本物だったともいわれます。

でもここで紹介するのは10代皇帝スレイマン1世の時代。皇帝に処刑されたムスタファ皇子の偽物が起こした反乱です。

いったいどのような反乱だったのでしょうか?どのような人が反乱をおこしたのか紹介します。

目次

ルメリ州で起きた偽ムスタファ事件

1555年。皇帝スレイマン1世がイラン遠征からもどっていたころ。エディルネに残していたバヤジット皇子から「ルメリ州(ルメリア)で反乱が起きた」と報告がありました。

ルメリアとはバルカン半島の南部。

反乱が起きたのはおよそ次の場所と思われます。

オスマン帝国

スレイマン1世時代のオスマン帝国

反乱軍の首領は「私が本物のシェフザーデ・ムスタファだ。死刑執行人は私を殺すことができなかった」と主張して数千~1万の兵を集めました。反乱にはアキンジなどの非正規兵が参加していました。

このムスタファの偽物は集まった兵に対して勝手に宰相を任命。金持ちの家や農場を襲撃して金を集めました。偽ムスタファのは集めた金を貧しい人々に配って短い間に支持者を増やしました。

反乱を知らされたスレイマン1世は第三宰相兼ルメリア総督のソコルル・メフメト・パシャに反乱軍の討伐を命令しました。

バヤジット皇子は父に反乱発生を知らせると部隊を派遣。ニコポル(現在のブルガリア北部)の県知事メフメトハンに鎮圧を命令しました。

反乱軍の中には多数のオスマン軍が進軍していると聞くと逃げ出すものもいました。

偽ムスタファはソコルル・メフメト・パシャの軍が到着する前に東トラキア周辺で捕まりました。反乱軍の中で仲間割れが起こり、偽ムスタファはソコルルに引き渡されました。そしてイスタンブルに連行されました。偽ムスタファは即処刑が決定します。

大宰相になってイスタンブルに戻ってきたカラ・アフメト・パシャの初仕事は偽ムスタファの処刑でした。

反乱そのものはあっけなく終わりました。ところがこの反乱は後継者争いに影響を与えました。

偽ムスタファの本名や正体はよくわかっていません。

「バヤジット皇子が黒幕」の噂が流れる

スレイマン1世はこの反乱でバヤジットの対応が不満でした。バヤジットの反乱鎮圧が遅いと思ったのです。

また、バヤジットが反乱を扇動しているという意見も出ました。オーストリアの使節も「バヤジット皇子が反乱を扇動している」という噂を聞いているくらいなので当時のオスマン帝国の宮廷では噂になっていたのでしょう。

バヤジットの対応がスレイマン1世を怒らせたと聞いたヒュッレムはスレイマン1世をなだめました。おかげでバヤジットに処分はありませんでした。でもバヤジット皇子はスレイマン1世の信頼を失ってしまいます。

誰が反乱を起こしたのか?

反乱を起こした者の多くは生活に困っている人達です。

ムスタファ皇子は人気のある皇子でしたが、支持者には様々な立場の人がいます。単純に人柄や人望だけで集まったのではありません。

世の中に不満を持ち、ムスタファ皇子を「世の中を変えてくれる人」と思って支持している人もいました。

というのも16世紀のオスマン帝国は長引く戦争に不景気が重なり財政は悪化。大宰相リュステムは財政の立て直しにあるていどの成果を出しました。しかしそれは徴税の仕組みを変えたり、組織の変更もありました。そうした改革で国庫は潤いリュステムはスレイマン1世の信頼を得ました。でも増税やインフレ、利子の増加で人々の負担が増え生活は苦しくなっていきます。長期的には官僚たちの腐敗や堕落につながりオスマン帝国を衰退させてしまいます。

またオスマン帝国に支配される前からいた地元の領主や豪族たちはスィパーヒー(騎兵)としてオスマン帝国に仕えていました。でもスレイマン1世はヨーロッパとの戦争では城攻めに役立たない騎兵を減らして鉄砲隊を増やしました。その結果、没落するスィパーヒーも出てきました。

生活に苦しくなった人たちは「もう年老いた皇帝には期待できない。新しい皇帝に期待しよう」とムスタファ皇子を支持していました。

イェニチェリ(歩兵・鉄砲隊)がムスタファ皇子を「カリスマ性のあるリーダー(もちろん軍に活躍の場を与えてくれるのも期待しています)」として支持していたのとはちょっと違います。

次の反乱はすぐそこ

1555年の偽ムスタファ事件はすぐに鎮圧されました。でも没落兵士や生活に困っている人々の生活の不安は消えません。彼らはキッカケがあればまた集まって反乱を起こします。

バヤジット皇子はスレイマン1世の信頼を失いつつあります。

いよいよセリム皇子とバヤジット皇子の直接対決が迫っているのでした。

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