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ヨセフ・ナスィ|オスマン帝国でユダヤ人が暮らせる場所を造ろうとした大商人

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ヨセフ・ナスィは16世紀のヨーロッパで活躍したユダヤ人商人。

大商人グラツィア・メンデス・ナシの甥です。

金融や貿易で財をなしたメンデス家のひとり。ポルトガル生まれのユダヤ人でしたが。キリスト教圏でのユダヤ教弾圧が厳しくなりオスマン帝国に亡命しました。

スレイマン1世の息子セリム皇子と親しくなり。彼に協力しました。

セリム2世即位後は、オスマン帝国の外交面でも活躍しました。

叔母のグラツィア・メンデス・ナシとともにユダヤ人が暮らせる土地を造ろうと活動。シオニズム運動の魁とも言われています。

ヨセフ・ナスィとはどのような人物だったのか紹介します。

目次

ヨセフ・ナスィ

トルコ名:ヨセフ・ナスィ(Yusuf Nassi)
ポルトガル名:ジョアン・ミカス(João Micas)
生年:1524年
没年:1579年
父:アゴスティーニョ・ミカス
母:
妻:アナ

叔母:グラツィア・メンデス・ナスィ

1524年にポルトガルで誕生。
父はリスボン大学の教授・医師のアゴスティーニョ・ミカス。

当時のポルトガルではユダヤ教は弾圧されていました。そのため表向きはキリスト教徒としてふるまい、密かにユダヤ教を信仰する人たちがいました。隠れユダヤ教徒を マラーノ(marrano)といいました。現在ではマラーノは差別的な言葉とされ、クリプトユダヤ(crypto-Jew=隠れユダヤ教徒)と呼ばれることもあります。

ところがポルトガル当局はポルトガルで活動するマラーノ(隠れユダヤ教徒)への弾圧を強化。メンデス家の財産没収を決定しました。

1546年。ヨセフ・ナスィは叔母のグラツィア・メンデス・ナシと共にハプスブルク領のオランダ・アントワープに移住しました。

ヨセフ・ナスィはルーヴァン大学で学びました。ところがオランダでもユダヤ教徒への弾圧が厳しくなってきました。

1547年。ユダヤ教団弾圧から逃れるため。フランス、ヴェネツィアへと渡りましたがそこでもユダヤ人への迫害が厳しくなります。

1554年。先にオスマン帝国で暮らしていた叔母のグラツィア・メンデス・ナシに招待され、オスマン帝国に亡命。グラツィアの娘で、従姉妹のアナ(レイナ)・メンデスと結婚しました。

オスマン帝国での活動

ヨセフ・ナシは、叔母のグラツィア・メンデス・ナシとともにイスタンブールで活動をはじめました。当時のオスマン帝国はユダヤ人も受け入れていたので、キリスト教国の迫害を逃れたユダヤ教徒が多く暮らしていました。

銀行家・商人だったメンデス家はオスマン帝国でも銀行業や商人として活動しました。

彼はヨーロッパでの商業的つながりのおかげでオスマン帝国の外交政策に影響力を持っていました。

オスマン帝国とポーランドの和平交渉にもかかわりました。

セリム皇子とバヤジット皇子の争いでは、セリム皇子に味方しました。セリム皇子と親しくなりました。

ヨセフ・ナシとグラツィア・メンデス・ナシは、オスマン帝国の宮廷と親密な関係を築いて、オスマン帝国やヨーロッパで国際的な銀行および貿易会社を設立しました。

1566年。スレイマン1世の死後は、セリム2世が即位。セリム2世と親しかったヨセフ・ナシはさらに大きな利権を得ました。セリム2世はヨセフ・ナシに南ヨーロッパからのワインやその他の製品の輸入。ポーランドからの蜜蝋の貿易についても独占権が与えられ、関税が免除されました。

ヨセフ・ナシは商売で築いた人脈をいかして外交でも活躍。ポーランドの国王継承問題にも介入しました。

ユダヤ人入植地の建設

ヨセフ・ナシは、叔母のグラツィア・メンデス・ナシとともにユダヤ人居住区の建設に熱心でした。

ヨーロッパ各地で迫害をうけていたユダヤ人が暮らせる街を造ろうと考えました。

スレイマン1世の時代には、オスマン帝国と交渉してティベリアにユダヤ人入植地を設立する許可を与えられました。ティベリアは現代のイスラエルの北に位置する都市です。

グラツィア・メンデス・ナシにはティベリアの自治権が与えられました。叔母の死後はヨセフ・ナシが引き継いで街の発展に尽くしました。ヨセフ・ナシは集落を壁で囲んで安全なエリアを造ろうと考えました。そこにユダヤ人を移住させました。そのため叔母のグラツィア・メンデス・ナシとともにシオニズム(ユダヤ人の国を作る運動)の先駆者だとされます。

セリム2世の時代。

ナクソス公爵になる

ヨセフ・ナシはウィレム1世(後のオランダ初代君主)とも交渉。オランダにスペインに対して反乱を起こすように促しました。オランダの独立運動には様々な原因がありますが。ヨセフ・ナシの活動もその一つと言われます。ヨセフ・ナシ個人の考えではなくてカトリック教国を弱体化させるためのオスマン帝国の作戦のひとつでした。

1566年。彼はこれらの功績によってセリム2世からナクソス公爵(エーゲ海の島)に任命されました。ヨセフ・ナシは、モルダヴィアかワラキアの領主になりたかったようですが。セリム2世は許可しませんでした。ヨセフ・ナシは主にベルヴェデーレ宮殿からナクソスを統治しました。

キプロス占領

ヨセフ・ナシはその後、ヴェネツィアの植民地だったキプロスにもユダヤ人居住区を造り、自分がそこの領主になろうと考えました。ヨセフ・ナシはユダヤ人を迫害したヴェネツィアを恨んでいました。

大宰相ソコルル・メフメト・パシャはヴェネツィアとの戦争に反対でしたが。ソコルルに敵対するララ・ムスタファ・パシャたち多くの重臣が賛成。セリム2世はヴェネツィアとの戦争を決定します。

オスマン帝国とヴェネツィアとの戦争が始まると、ヨセフ・ナシはキプロスのユダヤ人コミュニティーと交渉を行いました。1568年。しかしヨセフ・ナシの活動はヴェネツィアにみつかりそれが原因でユダヤ人がキプロスから追放される事件が起こりました。

1570年。オスマン帝国とヴェネツィアの戦争が始まりました。オスマン帝国軍がキプロスを占領。ヨセフ・ナシはキプロスの植民地で副総督の地位を与えられる予定でした。

しかしオスマン帝国の艦隊がキリスト教国の連合艦隊に敗北。ヨセフ・ナシの計画は実現しませんでした。

またナシの親戚のアブラハムベンヴェニステ(リゲット・マラーノ)は1570年にナシの扇動でヴェネツィア工廠に火をつけた容疑で逮捕されています。

ただしその後、オスマン艦隊は再建されキプロスへのユダヤ人入植は続きます。

ヨセフ・ナシはオスマン帝国の外交で活躍しましたが。セリム2世との個人的な信頼関係で宮廷とつながっていました。

そのため1574年にセリム2世が死亡するとヨセフ・ナシは宮廷への影響力を失います。

でもヨセフ・ナシはナクソス公爵の称号や財産はそのまま維持し続けました。

1579年。死去。享年56。

ナクソス公爵領はヨセフ・ナシの死後、オスマン帝国の直轄領になりました。

 

 

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