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スレイマン1世の病気と最期(オスマン帝国)

スレイマン1世

オスマン帝国の第10代皇帝スレイマン1世は、オスマン帝国の全盛期を築いた皇帝といわれています。生涯の間に13度の遠征を行い、領土を拡大しました。

でも屈強な皇帝も晩年には病に悩まされました。

50歳を迎えたあたりから病気がちになり、高齢もあってしだいに遠征も減ります。そしてスレイマン1世の晩年には後継者問題もからんで様々な事件が起こりました。

スレイマン1世のかかった病気は正式な病名はわかりませんが、その様子からおおよそのことはわかります。

晩年のスレイマン1世が苦しんだ病気はなんだったのか、どのように死を迎えたのか紹介します。

目次

晩年のスレイマン1世をおそった悲劇の数々

若い頃のスレイマン

ベネチアの使節バルトロメオコンタリーニは26歳のスレイマン1世に会ったことがあります。そのときのスレイマン1世の印象は

「スルタンはまだ25歳(本当は26歳)で、背が高く細身だが強靭で、顔は痩せて骨ばった感じである。顔には毛が生えているが、ほとんどない。気さくでユーモアのある人物だ。噂によるとスレイマンは名前にふさわしく1)読書が好きで知識が豊富で判断力に優れている」

 注1):古代ユダヤの王ソロモン(トルコ語でスレイマン)は古代イスラエル王国の全盛期を築いた優れた王。ユダヤの伝説では優れた知識を使って悪魔をも支配したといわれます。イスラムの伝説では若干脚色されて、預言者スライマーンは豊富な知識を持ちジン(精霊)を自由自裁に操ることができたとされます。

若い頃のスレイマンは痩せ型で長身だったようです。色白だったとも言われます。

「25、6歳で髪が薄い」と言われるのは気の毒な気もしますが。そういえばドラマ「オスマン帝国外伝・シーズン1」のスレイマンも即位したばかりなのに髪が薄かったですね。

痩せ型で筋肉質な体をもっていたスレイマンは生涯の間に13度の遠征をしました。

50代で病気がちになる

そのスレイマン1世も50歳ごろになると衰えが目立つようになりました。50代のスレイマンは病に悩まされていました。はっきりとした病名はわかりませんが「痛風」ではないかと言われます。顔色がとても悪く外国の使節と会うときは化粧をして隠していたといいます。

50代のころといえば

1548~49年にサファヴィー朝のアルカス王子の要請ではじめた第二次オスマン・サファヴィー戦争。

1553~1555年の三次オスマン・サファヴィー戦争のころ。ムスタファ皇子が処刑されたのも1553年のサファヴィー朝との戦争の最中。

ムスタファ皇子の死後、イエニチェリが反乱をおこしたので責任を取らせるため大宰相リュステム・パシャを解任。

妹ファトマ皇女の夫・カラ・アフメト・パシャを大宰相にしました。

ところが

1555年。大宰相カラ・アフメト・パシャを処刑。リュステム・パシャを大宰相に復帰させ。

1558年。皇帝妃ヒュッレムが死亡。

ヒュッレムの存在でかろうじて抑えられていたセリムとバヤジトの後継者争いが激しくなりました。先に動いたのはバヤジトでした。スレイマン1世はセリムに軍の指揮権を与えバヤジトを討たせました。

1561年。父を味方につけた兄との戦いに敗れたバヤジト皇子はサファヴィー朝イランに亡命した後、処刑されました。イランにバヤジトを引き渡すように要求したのはスレイマン1世です。そしてオスマン帝国の使者に引き渡されたバヤジトとその息子たちは、オスマン帝国に戻る前に処刑されました。

病んでからのスレイマンの治世は血なまぐさい事件が何度も起きています。これを「モウロクしたスレイマン1世の失態」と捉える考え方もありますし。

スレイマン1世に同情的な見方をすれば「次の世代に争いを持ち込ませないための英断」ととらえることもできます。

でもはっきりしているのは、ころのころからスレイマン1世は病気で苦しんでいました。オスマン・サファヴィー戦争のあと体調がさらに悪化したスレイマン1世は遠征に出なくなります。

そして多くの権力者が年老いて病がちになるとスピリチュアルな方向にいってしまうのと同じように。

スレイマン1世も人前に出ることが減り、宗教の世界にのめり込むようになります。スレイマン1世が信仰したのはスンニー派イスラム教ですが、トルコのイスラム教はアラブほど厳格ではなく神秘主義的なところもあったようです。

そして「皇帝が病」の噂は人々にも広まっていたといいます。

スレイマン1世の最期

1566年。神聖ローマ帝国との戦争が勃発。

70歳になっていたスレイマン1世は自ら出陣を決定しました。10年近く遠征からは遠ざかっていて。病であとは死を待つのみとなっていたスレイマンは死に場所を戦場に求めたのでしょうか?

でも遠征に出たスレイマン1世は病でろくに指揮をとることができません。

軍の指揮は大宰相ソコルル・メフメト・パシャがとりました。

1566年8月5日。オスマン帝国軍はハンガリーの都市ジゲトバールを包囲していました。そこにスレイマンが到着。

でもスレイマン1世は痛風の症状で苦しみ、歩くことも困難になっていました。ジゲトバールが見える丘の上にテントが張られ、スレイマン1世はそこに横たわっていました。

遠征とは形ばかり。スレイマン1世は病床で部下の報告を聞くことしかできません。すでに戦場の指揮は指示は大宰相が出していたでしょう。

弱った体は遠征の苦労に耐えられず、赤痢や扁桃炎になったともいいます。

1566年9月7日の夜。スレイマン1世はこの世を去りました。

死因は狭心症ともいいますが。麻痺の症状があったともいわれます。

痛風は重症化すると糖尿病、脂質異常症、高血圧など様々な合併症を引き起こします。

そして狭心症や心筋梗塞、脳梗塞をひきおこし死に至ります。

スレイマン1世が死の前に患っていた麻痺も脳梗塞によるものかもしれません。

正式な病名は不明ですが、症状から痛風の悪化による死亡といえそうです。

スレイマン1世の死後。大宰相ソコルル・メフメト・パシャはスレイマン1世の死を隠したまま戦争を続けジゲトバールを陥落させました。

その間、スレイマン1製の遺体はテントに隠されました。大宰相ソコルル・メフメト・パシャは街を修復しつつセリムに書簡を送り迎えに来るよう指示を出しました。そしてセリムと合流した後。イスタンブールに帰還しました。スレイマン1世の死から一ヶ月がたっていました。

晩年のスレイマン1世は病に苦しんだ時代といえそうです。

スレイマン1世の父・セリム1世も遠征先で亡くなりました。スレイマン1世も父のような最期を迎えたかったのでしょうか。

 

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