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セレウコス1世・大王の遺産をうけつぎセレウコス朝を建国した将軍

セレウコス1世は古代ギリシャのマケドニア王国の武将。

アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)に仕えた将軍です。

アレクサンドロス3世の死後、セレウコス朝を建国、現在のトルコあたりを支配しました。ニカトール(ギリシャ語で勝利王の意味)ともいいます。

アレクサンドロスの死後、将軍(ディアドコイ)たちによって領土は分割されました。ディアドコイたちは領土拡大のため争いました。セレウコスはその中で勢力を拡大。自ら王を名乗りました。

セレウコス朝はディアドコイの中でも最大の領土をもつ王朝になります。

セレウコス1世について紹介します。

目次

セレウコス1世の史実

名前:セレウコス(ギ: Σέλευκος 、ラテン文字:Kleitos)
国:マケドニア→セレウコス朝
地位:マケドニアの将軍→セレウコス朝の王
生年:紀元前305年
没年:紀元前281年
父:アンティオコス
母:ラオス

子:アンティオコス1世

日本では弥生時代の人です。

セレウコスのおいたち

セレウコスは紀元前358年。マケドニア北部の街ユーロポスで生まれました。

父アンティオコスはマケドニアの貴族。
母はラオス。

セレウコスはアレクサンドロス3世の家臣として仕えました。

10代のころ王のページ(従者)になりました。当時の貴族の子供は王の従者として仕えることが多かったようです。

やがて軍の指揮官になりました。

紀元前334年。アレクサンドロス3世が東方遠征を開始しました。セレウコスも従軍しました。ところが他の将軍たちに比べるとあまり目立った存在ではありません。遠征の前半ではほとんど記録はありません。

インド遠征

紀元前327年。インド遠征ではマケドニアのエリート部隊ヒパスピスタ(銀盾隊)とよばれる王の近衛歩兵部隊の指揮官でした。

アレクサンドロスが船でヒュダスペス川(ジェーラム川)を渡った時、セレウコスもペルディッカス、プトレマイオス、リュシマコスたちと一緒に船で渡ったといいます。この4人はアレクサンドロスの死後、独立して王になった人たちです。

ヒュダスペス河畔の戦い

紀元前326年。ヒュダスペス川(ジェーラム川)周辺の肥沃な土地を支配するポロス王との戦いになりました。

このときセレウコスは彼の部隊を率いてポロス王の戦像部隊と戦いました。

ヘファイスティオンやクラテロスが大部隊を率いていたのと比べると、あまり大きな戦果は記録されていません。ヒパスピスタ(銀盾隊)は勇猛な部隊ですが、王の護衛としてアレクサンドロスを守るのが役目のためとおもわれます。

ポロス王との戦いの後。アレクサンドロス3世は遠征を続けるのが無理だとわかり。ペルシアに戻ることにしました。

紀元前326~325年。マケドニアはインダス川を下りながら周辺の集落を襲いました。

インダス川周辺の部族マッロイとの戦いや、ゲドロシア(パキスタン)との戦いにも参戦しました。

大王の東方遠征にも参加して活躍する。

しかし他の大王の後継者(ディアドコイ)たちに比べれば当時は影が薄い存在で、アレクサンドロスの生涯に関する史料として最も重要視されるアッリアノスの『アレクサンドロス大王東征記』でも、セレウコスが最初に登場するのは、紀元前326年のヒュダスペス河畔の戦いの場面である。当時、彼は重騎兵(ヘタイロイ)の一員で、王の近衛歩兵部隊の指揮官であった。

合同結婚式でソグディアナの女性と結婚

紀元前324年。スーサで集団結婚式が行われました。アレクサンドロスの方針でマケドニアの将兵と現地人の女性を結婚させました。

セレウコスはソグディアナのアパメーと結婚しました。アパメーはマケドニアに負けたソグディアナの貴族スピタメネスの娘です。

アレクサンドロスの死後、このとき合同結婚式を行った武将たちの多くが離婚しました。ギリシャの男たちはオリエントの女性と結婚するのが嫌だったようです。

でもセレウコスはアパメーと生涯を共にしました。

アレクサンドロス3世の死後

紀元前323年。アレクサンドロス3世は熱病(マラリアともいわれます)にかかりました。王の回復祈願のために神殿に参拝した重臣の中にセレウコスもありました。まもなくアレクサンドロスは死去。

アレクサンドロスの異母弟アリダイオス(フィリッポス3世)と、生まれたばかりのアレクサンドロス3世の息子・アレクサンドロス4世が共同統治者となり、ペルディッカスが摂政になりました。

セレウコスはヘタイロイ(重騎兵)の指揮官になり、摂政のペルディッカスに継ぐ規模の軍を率いました。

ところがペルディッカスと他の将軍たちが対立しました。

紀元前321年。ペルディッカスは反ペルディッカス派と戦うため、軍を率いてエジプトに渡りました。セレウコスはペルディッカス派でした。

ところがナイルを渡るのに失敗。怒った兵士たちが反乱を起こしました。

落胆したセレウコスは同僚の将軍ペイトン、アンティゲネスとともにペルディッカスに見切りをつけて殺害しました。

ペルディッカスの死後。急遽将軍たちがシリアに集まり、事件の収拾と領地の配分を決めました。アンティパトロスが摂政、アンティゴノスが全軍総司令になりセレウコスはバビロニアの太守になりました。

ディアドコイ戦争

ディアドコイ(将軍)として領土拡大

この時期ディアドコイたちはアレクサンドロスの築いた帝国を分割して統治していました。ディアドコイとは将軍の意味です。それぞれのディアドコイたちはやがて「王」を名乗ります。

紀元前321年。バビロニアの太守になったセレウコスはディアドコイの仲間入りをはたしました。その年のうちに旧ペルディッカス派と反ペルディッカス派の戦いが始まりました。

反ペルディッカス派の中心になったのは総司令アンティゴノスです。セレウコスはアンティゴノス派でした。

紀元前319年。摂政アンティパトロスが死去。

するとアンティゴノス派と旧ペルディッカス派の戦いは更に激化しました。この戦いの最中にセレウコスは自分の領土を広げました。

紀元前316年。カッパドキア太守エウメネスを追い詰め戦死せさました。ところが敵がいなくなるとセレウコスはアンティゴノスから嫌われるようになります。フリギュア(トルコのアナトリア)を領地に持つアンティゴノスとは領土をめぐって争うようになりました。

同じように領土を巡って争っていたメディア太守ペイトンがアンティゴノスに滅ぼされました。

紀元前315年。アンティゴノスとの対立が避けられないセレウコスは、バビロンを脱出。エジプト太守プトレマイオスに助けを求めました。

312年。プトレマイオスとセレウコスはガザでアンティゴノスの息子デメトリオスとを戦って破りました。するとアンティゴノスが出陣してきました。

セレウコスはそのすきにバビロンを占領。このときセレウコスが率いていた軍はプトレマイオスから与えられた僅かな兵でした。でもバビロンの人々はセレウコスを迎えました。

その後。セレウコスはバビロンを拠点にアンティゴノスと戦いました。

アンティゴノスとセレウコスが戦っている間に、プトレマイオスが東地中海で勢力を広げるとアンティゴノスはセレウコスを討つのをあきらめて撤退、プトレマイオスとの戦いに集中しました。

セレウコス朝

紀元前306年アンティゴノスはバシレウス(王)を名乗ります。他のディアドコイたちも王を名乗りました。このころセレウコスも王をなのったと言われます。

インド遠征

紀元前305年。他のディアドコイたちが戦っている間に力を付けたセレウコスはインドに遠征。

アレクサンドロス時代にインダス川周辺を支配下にしたマケドニアでしたが。アレクサンドロスの死後混乱が続いていました。

そこでセレウコスが遠征を行いインダス川周辺を統治しようとしました。

ところがセレウコスはインドでチャンドラグプタが建国したマウリア朝がインダス川まで勢力を伸ばしてきました。マウリア朝との間に戦闘があったかはわかりません。

でもセレウコスはチャンドラグプタと交渉して。かつてアレクサンドロスが支配下にしたインダス川周辺の帝国領をチャンドラグプタに譲り渡しました。そして娘をチャンドラグプタの息子ビンドゥサーラの後宮に入れました。セレウコスは見返りに戦像500頭を得ました。

東方の統治をあきらめたセレウコスはバビロンに戻りました。しかしこのとき手に入れた戦像は大きな戦力になりました。

セレウコスは反アンティゴノス同盟の一員として戦い、アンティゴノスを戦死させました。

ところが勢力が大きくなったセレウコスはプトレマイオスやリュシマコスから警戒されるようになります。

セレウコス朝を発展させる

その後、セレウコスはオロンテス河畔に新しい都市を建設。父の名にちなんでアンティオキアと名付けました。アンティオキアをバビロンにかわる新しい首都にしました。

母の名を付けたラオディケイア、妻の名をつけたアパメイアなど多くの都市を作りました。行政区画を整備して、通貨も発行しました。

紀元前288年。マケドニアの王デメトリオスがリュシマコスに敗れて逃げてきました。セレウコスはリュシマコスを監禁しました。

紀元前281年。コルペディオンの戦いでセレウコスはリュシマコスと戦い戦死させました。

さらにマケドニアも領土にしようと遠征をはじめます。ところが、マケドニア王になる野心をもったプトレマイオス・ケラウノス(プトレマイオスの息子)によって暗殺されました。

遺骸はシリアのセレウキアに運ばれ、この地の墓廟ニカトレイオンに葬られる。

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