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サフィエ スルタン は オスマン帝国の政治と外交を動かした母后

サフィエスルタン

サフィエ・スルタンはオスマン帝国の12代皇帝ムラト3世の側女。

13代皇帝・メフメト3世の生母です。

14代皇帝・アフメト1世の祖母。

ムラト3世から信頼され、政治や外交で相談相手になり。メフメト3世の時代には墓号として大きな力を持ち政治や外交を動かしました。

オスマン帝国でもとくに力の大きかった母后の一人です。

トルコのドラマ「新オスマン帝国外伝~影の女帝キョセム~」では太皇太后サフィエとして登場します。

史実のサフィエ・スルタンを紹介します。

 

目次

サフィエ・スルタンの史実

名称:サーフィエ・スルタン(Sâfiye Sultan)
国:オスマン帝国
地位:母后
生年:1550年 
没年:1618年

父:不明
母:不明

夫:ムラト3世(12代皇帝)
子供:
メフメト3世(13代皇帝)
シェザード・マフムード
アイシェ・スルタン
ファトマ・スルタン

 

オスマン帝国系図

オスマン帝国系図

生い立ちの謎

サフィエのおいたちは様々な説があります。

サフィエの正体はヴェネツィア出身の義母・ヌールバーヌ・スルタンとよく間違えられます。

俗説では本名はセシリア・バフォ。コルフ州知事の娘でヴェネツィアとコルフの間を船にアドリア海で海賊に誘拐されて。シェザド・ムラドに献上された。という噂がありますが。

サフィエもヴェネツィア人の血を引いているのではないか、あるいはヌールバーヌ・スルタンの親戚ではないかとも言われます。

でも事実ではありません。

サフィエ・スルタンがヴェネツィアに友好的だったのでこういう噂が広まったようです。

ヴェネツィアの資料によるとサフィエ・スルタンはドゥカジン高地のレジ村で生まれたアルバニア人と書かれています。

フェルハド・パシャに買い取られ。13歳のとき、ムラト皇子の側女になったと言われています。

また、ムラト3世の治世中にイスタンブールのドイツ大使館代表団をしていたステファン・ゲルラッハは、サフィエ・スルタンはボスニア系だと言っています。

ムラト皇子の側女になる

1563年。13歳の彼女は、後のムラト3世のハレムに来ました。

彼女はサフィエ(純粋な者)という名を与えられ。ムラト皇子(スルタン・セリム2世の長男)の側女になりました。

1566年5月26日。彼女はムラトの息子(後のメフメト3世)を出産しました。偶然にもこの日は10代皇帝・スレイマン1世が亡くなったのと同じ日でした。

皇帝になる前のムラト皇子にとっては唯一の側女でした。

12代皇帝・ムラト3世の時代

1574年。11代皇帝・セリム2世が死去。12代皇帝・ムラト3世が即位しました。

あいかららず側女はサフィエだけでした。

跡継ぎを心配した母后ヌールバーヌ・スルタンはムラト3世にサフィエ以外にも側女をもつように言いました。

1583年。サフィエが邪魔していると考えたヌールバーヌ・スルタンはついに強硬手段に出ます。サフィエが魔女や魔術師を使ってムラトをインポテンツにさせ、新しい妾を取らせないようにしている。と、サフィエを非難。サフィエの召使いは投獄されて拷問にかけられました。

ムラト3世は姉のエスメハンから2人の美しい側女紹介され、それを受け入れました。

ヴェネツィアの報告書によると。サフィエは最初は辛い思いをしましたが。毅然とした態度をとり、ムラト3世の側女たちに嫉妬することはありませんでした。

さらにムラト3世のためにさらに多くの側女を確保。ムラト3世はサフィエを高く評価し、より信頼するようになりました。

母后ヌールバーヌはサフィエを危険な存在と考え、ミフリマーフやエスメハンとも協力して排除しようとしましたが。ムラト3世はサフィエを信頼していたので成功しませんでした。

ヌールバーヌの死後は、ムラト3世は外交や政治的な問題についてもサフィエに相談し続けました。

でも、サフィエはヒュッレムのようにムラトの正妻(法的妻)にはなってません。でも後継者の母で妃の中でも最高位のハセキスルタンとして大きな影響力を持ちました。

13代皇帝・メフメト3世の時代

1595年。ムラト3世が死去。息子のメフメトが即位しました。

サフィエはヴァリデスルタン(母后)になりました。メフメト3世は母后が受け取る給料を増やしました。さらに人事にも介入して、役人から賄賂を受け取りました。帝国の財政も握りました。

1597年。イスタンブールのエミノニュにイェニモスクの建設をはじめました。大規模な建設費はサフィエを嫌う兵士たちの非難にさらされました。

外交関係

サフィエ・スルタンは義母ヌールバーヌと同じように、ヴェネツィアに友好的でした。ヴェネツィアの大使はサフィエに多くの贈り物をしました。

ベネチアの特使マッテオ・ゼインはサフィエが信用できる人物と考え、贈り物や賄賂を送り、ヴェネツィアに有利な条件を引き出しました。

一方、サフィエ・スルタンはユダヤ人キラのエスパランツォ・マルキを取引していました。

キラとはハレムの女性と外の商人を仲介するエージェントです。エスパランツォ・マルキはサフィエと外国との取引も任されました。エスパランツォはお金の取引を通して大きな財産を築きました。

ところがエスパランツォはベアトリス・ミシエルと対立。二人はオスマン帝国のヴェネツィアの対応を巡って意見が違ったのです。

やがてエスパランツォの強すぎる地位は周囲の反発を受けました。

エリザベス1世から猫と馬車などを贈られる

サフィエ・スルタンはイングランドとも友好な関係を持ちました。イングランドのエリザベス1世とも個人的なやりとりをして贈り物をしたり贈られたりしました。エリザベス1世から贈られた猫に「エリザベス」と名前をつけてかわいがっていました。

エリザベス1世はオスマン帝国とイングランドとの良好な関係を望んでいました。サフィエ・スルタンはその要求に応じました。

サフィエ・スルタンはエリザベス1世から馬車を贈られたこともあります。サフィエ・スルタンは馬車に覆いを付けて街の中を走ったり遠出で使いました。当時のイスラム社会ではスキャンダラスな行いでしたが、サフィエ・スルタンは平気でした。

兵士たちの反乱

メフメト3世の時代、大宰相とイスラム長老が対立。

1600年。二人の対立はやがてイエニチェリ(常備歩兵)対 常備騎兵の対立に発展。この戦いでは、巨額の財を築いていたエスパランツォもやり玉にあがりました。エスパランツォとその息子は反乱軍に捕まり惨殺されました。

騎兵団はメフメト3世の廃位まで要求。

メフメト3世は「母と侍女に警告する」と言って反乱軍をなだめるしかありませんでした。

マフムト皇子の処刑をそそのかす

1603年。メフメト3世は反乱の影に息子のマフムトがいると疑いました。マフムトはイエニチェリ(常設歩兵軍)に人気があったからです。

マフムトの母ハリメは自分の息子がいつ即位するのか占い師に手紙を描きました。サフィエ・スルタンはハリメを嫌っていました。サフィエ・スルタンはそれを知り、メフメト3世をそそのかしました。

マフムトが謀反を起こそうとしていたと考えたメフメト3世はマフムトとその母、側近たちを処刑しました。ただしマフムトの母ハンダンは旧宮殿に送られただけで生きていました。

1603年。メフメト3世が死去。息子のアフメト1世が即位しました。

14代皇帝 アフメト1世の時代に宮殿を追い出される

サフィエの孫・アフメト1世が13歳で即位しました。
息子の死で母后の地位を失ったサフィエ・スルタンは権力も失いました。

アフメト1世の即位でトプカプ宮殿のハレムで権力を持ったのは母后ハンダン・スルタンでした。

1604年1月9日。息子の死後、わずか18~19日でトプカプ宮殿を出ることになります。サフィエ・スルタンは大勢の従者と侍女を連れて旧宮殿に移りました。サフィエ・スルタンは自分を追い出したアフメト1世を罵ったと言われます。

俗説や物語の中ではアフメト1世の時代にトプカプ宮殿で太皇太后がいたとか、2人の母后がいたとされますが。実際にはそうではなさそうです。

旧宮殿で余生を過ごしたサフィエスルタンは政治に介入することはできませんでした。

彼女がトプカプ宮殿を去った後。イェニモスクの建設も中止されました。イェニモスクは後にメフメト4世の母・トゥルハン・ハティスが建設を続行。完成したのは1665年でした。

1619年1月。サフィエ・スルタンは倒れ、医師の手当の甲斐なくその日のうちに死亡しました。

死因は不明です。心臓発作か脳出血と考えられます。享年68歳。

 

ドラマのサフィエとキャスト

オスマン帝国外伝 s4 演:ゲズデ・テュルカー
セリムとヌールバーヌの息子ムラトの結婚相手として登場。

新オスマン帝国外伝キョセム s1 演:ヒュリャ・アヴシャル
ドラマ前半のボスキャラ。史実と違いなかなかトプカプ宮殿を放れませんし、送られた後も娘達とともに復帰しようと画策。一時はトプカプ宮殿に戻ってきたりなかなかのしぶとさを発揮します。

 

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