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ヒュッレム・ハセキ・スルタンはオスマン帝国で奴隷から皇后になった

ヒュッレムハセキスルタン

ヒュッレム・ハセキ・スルタンはオスマン帝国の皇后です。

歴史上はヒュッレムと呼ばれますが、本名はアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカといいます。ヨーロッパではロクソラーナとよばれることも多いです。

ヨーロッパでは有名な人物ですが日本ではあまりなじみがないかもしれません。トルコのドラマ「オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム~」で知った方も多いのではないでしょうか。

オスマン帝国の最盛期を作ったオスマン帝国・第10代スルタン(皇帝)スレイマン1世の皇后です。

ヒュッレムはハレム(後宮)で陰謀をめぐらし政治にも影響力を与えました。ハレムの人々が帝国の政治に口をだすきっかけになったとも言います。

ヒュッレムとはどんな人だったのでしょうか。

目次

 ヒュッレム(アレクサンドラ、ロクセラーナ)とは

 

ヒュッレム

名前:ヒュッレム(Hürrem)
地位:オスマン帝国皇后(haseki sultan)
別名:ロクセラーナ(Roxolena)
本名:アレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカ(Aleksandra Anastasia Lisowska)
生年:1502~1504年ごろ
没年:1558年
父:Havrylo Lisowski 
母:Leksandra Lisowska
夫:スレイマン1世
子供:
メフメト
ミフリマーフ
アブドゥラー
セリム2世
バヤズィト
ジハンギル

オスマン帝国とは

13世紀から19世紀の間に存在した国。最盛期には東は黒海、西はアフリカのモロッコ。北はカスピ海周辺のウクライナ、東ヨーロッパのハンガリー、チェコスロバキア、南はアラビア半島のイエメンまで広がる大きな帝国でした。

オスマン帝国はかつてはオスマントルコ帝国と呼ばれましたが、現地の人がオスマントルコと名乗ったことはありません。現在ではオスマン帝国と呼ぶのが普通です。

奴隷として売られたアレクサンドラ

ヒュッレムは本名をアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカと言います。名前の響きからも想像できるかもしれませんがトルコ人ではなくスラブ系民族です。現在のウクライナのリビウの南東68kmの場所にあるロハティンという町の出身でした。

ヒュッレムが幼い頃のロハティンの町はポーランド王国の領土でした。父はルテニア正教会(キリスト教の一派)の司祭でした。家は貧しかったようです。

1520年ごろにポーランドに近いウクライナのドニエストやルテニア地方を襲ったクリミア・タタール人に捕まって奴隷にされました。

 

現在では出身地のウクライナ・ロハティンにロクソラーナ(ヒュッレムのヨーロッパでの愛称)像が建てられています。

Roxelana

Statue of Roxolana (Nastia Lisovska) in Rohatyn, Ukraine

 

オスマン帝国のハレムに入ったヒュッレム

オスマン帝国の都イスタンブールに売られました。大宰相パルガル・イブラヒム・パシャに買われました。

後に皇帝スレイマン1世に献上されハレム(後宮)に入りました。15歳くらいだったといわれます。

ハレムではライバルが多く他の後宮からは嫉妬をうけたようです。

オスマン帝国のハレムではヒュッレムという名を与えられました。「幸福なる喜ばしい者」という意味です。ロクセラーナとも呼ばれました。ロクセラーナとは「ルーシ人(スラブ系民族)の女」という意味です。

ハレム(後宮)に入ったヒュッレムはすぐに皇帝スレイマン1世の目を引き第2側室(イクバル)になりました。

スレイマンとの間にはすぐに子供ができて第2夫人になりました。

第2夫人になったヒュッレムの敵は、姑の母后ハフサと第1夫人マヒデヴランでした。マヒデヴランは母后ハフサを味方にしていました。

ヒュッレムを奴隷として買った大宰相イブラヒム・パシャも政敵だったようです。

ライバルを追放

母后ハフサが死去するとヒュッレムの暗躍が本格的に始まります。

ヒュッレムは自分で顔に引っかき傷を作ってスレイマンに会いました。マヒデブランが傷つけたと思ったスレイマンはマヒデヴランと息子のムスタファを宮廷から追放しました。

ライバルのいなくなったヒュッレムは奴隷の身分から開放され皇后になりました。オスマン帝国では皇后の座は長く空いていました。その慣例を破って皇后になったのです。

その後、大宰相イブラヒム・パシャが処刑されました。イブラヒム・パシャの処刑にヒュッレムが関わった証拠はありませんが、人々はヒュッレムの仕業だと噂したといいます。

ヒュッレムはスレイマンに様々な助言をしていました。スレイマンの行った政治や外交にヒュッレムの意見が取り入れられています。

前例破り

オスマン帝国では一人の女性が息子を二人以上生むことは許されませんでした。男子を生んだ女性は皇帝から遠ざけられるのが習慣でした。

ところが、スレイマン1世はヒュッレムが男子を生んだあともそばに置き続けました。

オスマン帝国のハレムには多くの女性がいます。でも殆どは法的な婚姻関係を結んだ人ではありません。側女です。ドラマでは皇帝妃になっているマヒデヴランも歴史上は妻ではなく側女です。

しかしヒュッレムはスレイマン1世と婚姻関係を結び、皇帝の妻「皇后」になりました。奴隷から皇后になるのは初めてです。

ヒュッレムは自分の地位を脅かしそうな美しい側室をハレムから追放しました。事実上の一夫一婦制を作りました。

前例を次々と破るヒュッレムには家臣や国民もあきれかえりました。人々はスレイマン1世は魔法にでもかかったのではないかと噂し合ったと言います。

息子をスルタン(皇帝)に

ヒュッレムとスレイマンの間には5人の皇子がいました。次男のアブドゥラーは早世しましたが、他の皇子を皇帝にしようと裏工作を行いました。

長男のメフメトが有力候補でしたが天然痘で死亡。

するとマヒデブランの息子・ムスタファが再び候補になりました。ところが1553年。イラン遠征中のムスタファが処刑されました。遠征先で処刑されたのです。謀反を企んだからというのが理由ですが、真相はよくわかっていません。人々はヒュッレムと娘婿の大宰相リュステム・パシャがスレイマンをそそのかしたと噂しました。

スレイマンは国民の不満をそらすために大宰相リュステム・パシャを罷免して処刑しようとしました。しかしヒュッレムが嘆願をおこなったのでリュステム・パシャは命が助かり再び大宰相になっています。

大宰相リュステム・パシャはヒュッレムの娘婿でした。ヒュッレムの後ろ盾で力をつけ政治派閥を作りました。

ムスタファの死亡で後継ぎはヒュッレムの生んだ3人の息子に絞られました。ですが5男ジハンギルが死亡。もともと心が優しくムスタファと仲が良かったジハンギルはムスタファの処刑にショックを受けて衰弱したと言われます。

セリムとバヤズィトが後継者になりました。ヒュッレムは有能なバヤズィトを皇帝にしようと考えていました。でも皇帝になるのをみることなく1558年に死去しました。

 

意外な一面

悪評の高いヒュッレムでしたが慈善事業にも熱心でした。慈善団体を作ってさまざまな援助活動を行いました。

イスタンブールの女性奴隷市場に病院、学校、噴水、モスクを建てました。アドリアンポールやアンカラにも複合施設を作りました。公共浴場も作りました。

エルサレムやメッカや貧しい人々にスープを与える施設ハセキ・スルタン・イマレットを作りました。

後継者争いが激化

ヒュッレムの死後、セリムとバヤズィトの後継者争いが激化しました。

ヒュッレムが生きている間は二人の間に目立った衝突はありませんでした。セリムは側近のララ・ムスタファ・パシャと協力してバヤズィトの評判を落とすことに成功しました。

焦ったバヤズィトは挙兵しましたが、セリムに敗北してイランに亡命しました。その後、バヤズィトはオスマン帝国に引き渡され処刑されました。

 

没落へ歩み始めるオスマン帝国

スレイマンの死後、ヒュッレムの息子セリムが次の皇帝になりました。セリムは政治を家臣にまかせきりにして酒と女に溺れるようになりました。国民からは「酔いどれスルタン」とあだなされてしまいます。

ヒュッレムはハレムの人間が帝国の政治を動かすきっかけを作りました。それでもセリムの時代はスレイマンが残した優秀な家臣がいたので帝国は安泰でした。しかしセリムより後の時代になると、帝国の政治にハレムの人々が口を出し、スルタン(皇帝)が臣下の意見に従う政治になってしまいました。

オスマン帝国の最盛期を作ったスレイマン1世でした。しかし、これ以降オスマン帝国は徐々に没落への道を歩み始めます。

日本では篠原千絵の漫画「夢の雫、黄金の鳥籠」のヒロインにもなりました。

 

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