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オスマン帝国スルタン(皇帝)・10代スレイマン1世から19代アフメト4世まで

オスマン帝国国旗

16世紀から17世紀のオスマン帝国のスルタン(皇帝)を紹介します。

第10代 スレイマン1世から第19代アフメト4世の10人を紹介。

ここに載せたのはトルコの人気ドラマ「オスマン帝国外伝・愛と欲望のはレム」「新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム」に登場する皇帝達です。

 

目次

帝国の全盛期

10代 スレイマン1世

名称:スレイマン1世(I.Suleiman )

愛称:立法王( Kanuni)カヌーニ
ヨーロッパでの愛称:荘厳王(The Magnificent)ザ・マグニフィセント
日本では「スレイマン大帝」

生年:1494年11月6日
没年: 1566年9月7日(満71歳)
在位:1520年9月30日~1566年9月7日
在位期間:45年341日

父:セリム1世(9代)
母:ハフサ・スルタン

即位直後からベオグラードを攻撃占領。聖ヨハネ騎士団が立てこもっていたロドス島を占領。ハンガリーを攻めて降伏させ属国化。オーストリアのウィーンを攻めましたが膠着状態になって和睦。その後は東のサファビー朝との戦いバクダートを占領。南イラクとアゼルバイジャンを支配下におきました。地中海ではキリスト教国から「バルバロス」と恐れられたフズル帝国の海軍が活躍して地中海の制海権を支配。
大宰相イブラヒムを重用しましたが謎の処刑。その後は、ヒュレム妃の影響力が強まり後に「女人の統治」とよばれるハレムが政治に影響を与える時代のきっかけを作ったとも言われます。

最新兵器をそなえた近代化された軍隊をもち当時のヨーロッパ・イスラム諸国では最強。オスマン帝国の全盛期を築いたと言われます。

・スレイマン1世の詳しい説明はこちら。

 

11代 セリム2世

名称:セリム2世(II.Selim
愛称:酔っ払い王( Sarhoş)

生年: 1524年5月28日
没年: 1574年12月12日
在位:1566~1574年
在位期間:8年

父:スレイマン1世(10代)
母:ヒュッレム・スルタン

即位後に一度も遠征しませんでした。本人の能力は平凡だったと言われますが。周囲にはスレイマンが育てた優秀な重臣たちがそだっており。大宰相を中心にした官僚組織の統治がうまくいってスレイマン時代から続いて帝国は栄えました。

酒を飲んでよっぱらい転倒して死亡したといわれます。

 

 

12代 ムラト3世

名称:ムラト3世(III.Murad

生年: 1546年7月4日
没年: 1603年12月22日
在位: 1574年12月15日 – 1595年1月15日
在位期間:8年

父:セリム2世(11代)
母:ヌールバーヌー・スルタン

スレイマン時代からいる大宰相ソコルル・メフメト・パシャが中心になって政治を行い。ムラト3世もあまり政治には関わりませんでした。交戦派の重臣が中心になってサファヴィー朝と戦いイラン方面への領土を広げました。しかしかなり無理しての戦争だったので財政は悪化。

ハンガリー方面でも戦いが始まり。ハプスブルク帝国との長い戦いに突入します。

ハレムでは正妃のサフィエ・スルタンが力を持ち、政治に興味のないムラト3世に代わって政治や外交に介入するようになります。官僚やハレムが国を動かす時代になっていました。

停滞の時代

13代 メフメト3世

名称:メフメト3世(III.Mehmed )

生年:1566年5月26日
没年:1595年1月15日
在位: 1595年1月15日~1603年12月22日
在位期間:21年

父:ムラト3世(12代)
母:サフィエ・スルタン

父の急死で19歳で皇帝に即位。即位したときには19人の兄弟がいましたが、慣例に従って全員処刑されました。あまりにもの棺の多さに人々は嘆き悲みました。

先代から続いていたハンガリー方面での戦いは終わらず。国内は財政が悪化して、失業者、土地を失った者たちが各地で反乱を起こしました。ジェラーリー反乱といいます。

この時代、官僚・イスラム宗教勢力・ハレムなどの勢力が政治を動かすようになり。ムラト3世はリーダーシップを発揮できないままでした。

大宰相派とイスラム長老派が対立、武力衝突に発展しました。兵たちはメフメト3世の退位を要求。最終的に鎮圧されましたが、疑心暗鬼になったメフメト3世は有力な後継者とされたマフムト皇子を反乱を煽った疑いで処刑。国内の混乱が続きます。

不摂生な生活を続けて38歳で死亡。

14代 アフメト1世

名称:アフメト1世(I.Ahmed )

生年:1590年4月18日
没年:1617年11月22日
在位:1603年12月22日~1617年11月22日
在位期間:14年

父:メフメト3世(13代)
母:ハンダン・スルタン

13歳で皇帝に即位。母ハンダン・スルタンが政治に影響力を持ちました。それまで皇帝が即位すると兄弟を殺す慣習がありましたが。兄弟殺しの慣習を廃止。

ハプスブルクと和睦して長く続いていたヨーロッパ方面での戦争を終わらせました。イラン方面も和睦しましたがムラト3世時代に奪った領土は取り戻され領土が減った状態での和睦には重臣たちの間からも不満が出ました。ジェラーリー反乱も鎮圧。

先代から続いていた争いにひとまずは落ち着きましたが。アフメト1世が27歳の若さで亡くなってしまい。オスマン帝国の混乱が続きます。

15代 ムスタファ1世

名称:ムスタファ1世(I.Mustafa

生年:1592年
没年: 1639年1月20日
在位:1617年11月22日~1618年2月26日
2回め:1622年5月10日~1623年9月10日

父:メフメト3世(13代)
母:ハリメ・スルタン

父メフメト3世の死後、兄アフメト1世が継ぎました。そのとき殺される可能性がありましたが。アフメト1世には跡継ぎがいなかったので生かされました。そのかわりカフェス(黄金の籠)と呼ばれる部屋で幽閉されました。長期間の幽閉により精神を病んでしまいます。

アフメト1世の死後。皇帝になりましたが。異常な行動をとっていたので3ヶ月で退位。甥のオスマン2世が即位。再びカフェスに戻されました。

イェニチェリの反乱でオスマン2世が退位、殺害されると。再び皇帝になりました。母ハリメ・スルタンと姉の夫カラ・ダヴド・パシャが政治を行いました。しかし反乱が起こり。再び退位に追い込まれます。その後は再び幽閉されました。

 

16代 オスマン2世

名称:オスマン2世(II. Osman
愛称:ゲンチ(Genç)若い王

生年:1604年11月3日
没年:1622年5月20日
(享年18)
在位:1618年2月26日 – 1622年5月20日

父:アフメト1世(14代)
母: マフフィルーゼ・ハティジェ・スルタン

ムスタファ1世の1回めの退位後。14歳で即位。
母マフフィルーゼは教育熱心でオスマン2世は語学に堪能。

若いながらも積極的に政治を行い。即位するとムスタファ1世派の宰相を解任。イスラム長老勢力の影響力を抑え、自分の側近を重用。続いていたサファビー朝との和平を実現。皇帝権力を取り戻そうとしました。

北方のコサックとそれを支援するポーランドを討つため遠征を行いましたが失敗。遠征の前には弟メフメトを処刑。既得権益になっていたイェニチェリの改革をしようとしました。特権を奪われるイェニチェリに反乱を起こされ退位。処刑されました。反乱の裏にはムスタファ1世の母ハンダン・スルタンや娘婿カラ・ダヴド・パシャ、メフメトの母キョセムがいたともいわれます。

若くてやる気はあるのですが。やり方が急すぎて周囲の理解を得られませんでした。

 

17代 ムラト4世

名称:ムラト4世(IV.Murad)

生年:1612年7月27日
没年:1640年2月9日
在位:1623年9月10日 – 1640年2月9日

父:アフメト1世(14代)
母:キョセム・マフペイケル・スルタン

叔父ムスタファ1世の2回めの退位のあと12歳で即位。

母后キョセム・スルタンが摂政になり政治を行いました。過去にも母后が政治に関わることはありましたが。キョセムは過去にないほどの多くの権限を持っていました。当時はアナトリアでの反乱が再び活発になっていて。サファビー朝イランとの戦いも始まり、バクダートを奪われました。

帝都で起きた大宰相の罷免を要求する騎兵たちの騒動を利用して母后の影響力を抑え込むと。カドゥザーデ派というイスラム強行派の力を借りて綱紀粛正、治安回復を目指しました。それまで宗教が共存していたイスタンブルにイスラム原理主義的な風潮が広がり他宗教との衝突が強くなります。

権力を維持するため在位期間中に多くの側近と3人の兄弟を殺害。恐怖政治ともいわれます。

1638年にはバクダートを奪回。久しぶりの戦果でした。
1640年に跡継ぎがいないまま死去。

18代 イブラヒム1世

名称:イブラヒム1世(İbrahim
愛称:デリ(Deli)狂人

生年:1615年11月5日
没年:1648年8月18日
在位:1640年2月9日 – 1648年8月8日

父:アフメト1世(14代)
母:キョセム・マフペイケル・スルタン

生まれてまもなく幽閉され。同母兄ムラト4世が即位後も幽閉されていました。ムラト4世が兄弟を次々と殺していく中で精神を病みました。

ムラト4世の死後。幽閉先から出されて皇帝になりました。そのときにはすでにおかしな言動をするようになっていました。まともに政治ができないので大宰相のケマンケシュ・カラ・ムスタファ・パシャが仕切り、ムラト4世時代の厳しすぎる規則を緩め比較的統治はまともに行われていました。しかし大宰相ケマンケシュがキョセムの命令で処刑された後は無能な大臣によって政治が行われ無謀な戦争行いイスタンブルが苦境に陥ることもありました。

増税に反対したイェニチェリが騒動が原因になり、キョセムたちによって大宰相アフメト・パシャが退陣。イブラヒム1世は退位させられ。2人とも殺害されてしまいます。

イブラヒムには異常な行動が多いのですが、処刑を正当化するために脚色されている可能性もあります。

19代 メフメト4世

名称:メフメト4世(IV.Mehmed)
愛称:アヴジュ(Avcı)狩人

生年: 1642年1月2日
没年: 1693年1月6日
在位:1648年8月8日 – 1687年11月8日

父:イブラヒム1世(18代)
母: トゥルハン・スルタン

父の死後。6歳で即位。
即位直後は祖母キョセム・スルタンが力を持っていましたが。キョセムの反対派が母トゥルハン・スルタンの下に集まりキョセムに対抗。そのためキョセムはメフメト4世を廃して弟のスレイマンを即位させようとしました。そこでトゥルハンが刺客を送りキョセムを暗殺しました。トゥルハンは自分で政治を動かす気はなく政治は大宰相に任せました。

メフメト4世は成人後も政治は大宰相たちに任せ。トプカプ宮殿を離れエディルネに居城を移しました。ハレムや官僚機構も移動。イスタンブールの市民と結びついたイエニチェリの影響力を減らすためでしたが。イエニチェリの反乱で退位させられました。

 

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