16世紀に生きたオスマン帝国のムスタファ皇子は人気のあった皇子です。
10代皇帝スレイマン1世の息子。成人した皇子の中では最年長だったので、事実上の長男として扱われます。
ムスタファ皇子は兵士や人々から人気のある皇子でした。でも謀反の疑いをかけられて父スレイマン1世の命令で処刑されてしまいます。
処刑されたいきさつについては諸説ありますが。
兵士たちに人気のあったムスタファ皇子を、スレイマン1世が危険だと判断したから。というのも処刑の理由とされます。
ではなぜムスタファ皇子はそんなに人気だったのでしょうか?
当時のオスマン帝国の社会の様子とともに紹介します。
兵士たちに人気があるのはなぜ
ムスタファ皇子は兵士たち、特にイェニチェリ(常備歩兵軍)に人気がありました。
当時のオスマン帝国にはイェニチェリ、ティマール騎兵、アキンジ(非正規兵)などの軍がありました。イェニチェリはキリスト教圏が集められた奴隷兵でした。奴隷と言っても皇帝個人に仕える奴隷という意味で、社会的な地位は低くありません。普通の軍人です。
もともと皇帝の親衛隊として誕生した部隊です。軍の改革で鉄砲や大砲を使う歩兵部隊として発展しました。故郷から離され徴用で来ているので皇帝しか頼るものがありません。そのため皇帝への忠誠心が高いです。
逆に自分たちの生活を保証してくれるのは皇帝しかいません。一般国民以上に皇帝への期待が大きくなります。自分たちに働く場を与えてくれて生活を保証してくれる皇帝でないとダメなのです。
事実、何度かイェニチェリが皇帝の即位に影響を与えています。バヤジト2世やセリム1世もイェニチェリの協力で皇帝になりました。
晩年のスレイマン1世は自ら遠征することが減り。遠征そのものも減りました。宮殿でおとなしくしている皇帝はイエニチェリにとっては自分たちの主人にふさわしくないのです。
兵士たちが期待するリーダーとしての皇帝。勇敢でリーダーシップがあって自分たちに活躍の場を与えてくれる人物。そのイメージにピッタリなのがムスタファでした。
年長者だから
オスマン帝国でははっきりと長男が後を継ぐという習慣はありません。嫡子と庶子の区別もありません。でも年長者は尊重されますし。ムスタファ本人の経験も豊富です。
成人した皇子たちの生年はこのとおり。
ムスタファ(1515年)
メフメト (1521年)
セリム (1524年)
バヤジット(1525年)
ジハンギル(1531年)
ムスタファとメフメトの歳の差は6歳。ムスタファとセリム・バヤジトの歳の差は9歳と10歳。ジハンギルにいたっては16歳も離れています。メフメト亡き後は、ムスタファと他の皇子の歳の差が大きく開いてしまいます。
とくにムスタファが成人したころはオスマン帝国は積極的に遠征を行っていた時期でした。軍での経験はムスタファが多くなります。
ムスタファとメフメトなら歳も近いしどちらが有能か人によって評価が別れます。でもムスタファとセリム・バヤジトなら歳も離れています。セリムとバヤジトはムスタファやメフメトほど有能ではないと思われていました。セリムとバヤジトなら比較的バヤジトの方が評価が高い。
メフメトがいなくなれば、ムスタファに人気が集中するのは自然な事かもしれません。
セリム1世に似ているから
ムスタファ皇子は祖父のセリム1世に顔やしぐさが似ていたと言います。
セリム1世はスレイマン1世の父。ハフサ・スルタンの夫。
ムスタファ皇子の祖父です。
セリム1世は戦が上手くイエニチェリ(常備歩兵軍)に人気がある皇子でした。兄との争いに勝ち、父バヤジト2世を隠居に追い込んで皇帝になった人物です。その後、軟禁されたバヤジト2世は人知れずこの世を去りました。セリム1世が殺害したのではないかと噂されました。
セリム1世は兄を殺し父を幽閉しました。それだけでなく、気に入らない宰相を何人も処刑しました。そのためヤヴズ・セリム(冷酷セリム)とあだ名されました。
でもオスマン語の「ヤヴズ」には「決断力のある」「断固とした意志がある」という意味もあります。
セリム1世の在位期間は8年しかありませんでしたが。その間にオスマン帝国の領土を2倍に増やしました。厳しい面はあるものの決断力のある優れた皇帝と言われました。
ムスタファ皇子はそのセリム1世の再来といわれるのです。父親のスレイマン1世にとっても心穏やかではいられません。自分がバヤジト2世の立場に立たされるかもしれないからです。
民衆に人気があったのはなぜ?
ムスタファ皇子は赴任先でも問題なく統治して悪い噂も聞こえてきません。
ムスタファ皇子はマニサの知事をしていました。マニサでは領民のために施設を作ったり、領民には好意的に受け止められていました。
その後はアマスヤの知事になりました。アマスヤはイランとの国境に近く。オスマン帝国の東を守る重要拠点でした。戦争になると被害を受けやすい地域です。でも武勇の評判が高いムスタファ皇子がアマスヤにいるおかげで市民には安心感があったと言われます。
ヨーロッパの使節の話では、ムスタファに住民の心を掴む方法を教えていたのは母親のマヒデヴランだったといいます。親の教育が大切なようです。
不景気だから
16世紀ヨーロッパでは大航海時代を迎え、ヨーロッパから南北アメリカ大陸やインド洋への航路が発達しました。オスマン帝国はそれまでアジアとヨーロッパの中継点として貿易で潤っていましたが。ヨーロッパの新航路開拓で貿易が減りました。遠征が減ると兵たちの収入も減ります。商人たちは不景気になました。商人の不満はスレイマン1世に向かいました。年老いた皇帝は遠征に消極的になり新しい領土獲得、航路開拓に期待は持てません。
そこで若い皇子に期待が集まりました。その中でも勇敢でリーダーシップのあるムスタファ皇子なら何とかしてくれるのではないかという期待が集まったのです。
詩人や知識人と交流しているから
ムスタファ皇子は詩人や学者のパトロンになっていました。詩人や学者たちと会って意見を交換、彼らの活動を援助していました。勇敢なだけの皇子ではなかったのです。
ムスタファ皇子も「ムリシ(Muhlisî)」のペンネームで詩を作り、詩人仲間と交流していました。ムスタファ皇子は背が高く見た目も良かったので詩人たちに人気がありました。軍人でもあったタシュルジャルはその代表ですし、女性詩人もいます。
セリム皇子も詩を作るのが好きでした。でも内向的であまり社交的ではありません。
ムスタファ皇子の死後、わかっているだけで15人の詩人がムスタファ皇子を追悼する詩を発表しました。皇帝並の賛辞をおくられています。皇子の死でこれだけ多くの詩が作られたのはオスマン帝国史上、ムスタファ皇子だけです。生前に詩人たちと交流していたのでこれだけ多くの詩人から共感を得たのでしょう。
テレビやインターネットもない時代。詩は娯楽であると同時に世論に訴えかける大きな手段でした。オスマンの社会では詩はニュースやレポートの役目も果たしました。字は読めなくても、耳で聞いた物語は人々の心を動かします。詩で覚えた内容は口コミで人から人に広まります。
ムスタファ皇子がそれをわかって行っていたのかはわかりません。でも世論を動かす詩人や知識人を味方につけたので、結果的に市民もムスタファ皇子によい印象をもつようになったのです。
高官から支持を得ているのはなぜ
出世できないトルコ人政治家
ムスタファ皇子は帝国の高官からも支持を得ていました。主にムスタファ皇子を支持したのはトルコ人、ムスリム自由人(イスラム教徒で奴隷でない市民)です。
スレイマン1世の時代。政治の中心はデヴシルメでキリスト教圏から集められたカプクル(皇帝の下僕)たちでした。スレイマン1世が即位した時の大宰相ピリー・メフメト・パシャはムスリム自由人でした。ピリー・メフメトはセリム1世時代に大宰相になった人物。その後のイブラヒムからソコルルまで。スレイマン1世時代に就任した大宰相はすべてカクプルです。
カプクルが大宰相や宰相、高官になる例は過去にもありました。むしろメフメト2世時代から続く伝統になっていました。スレイマンの時代はさらに徹底してカプクルが大宰相や宰相に選ばれていました。そのためムスリム自由人の不満は高まっていました。
ムスリム自由人の高官達は元異教徒たちが政治の中心にいるのを苦々しく思っていました。ムスタファ皇子が皇帝になったからといって変わるとは限りませんが。現状に不満をもつ高官達はムスタファ皇子にかけてみることにしたのです。
アンチヒュッレムな人たち
スレイマン1世は奴隷出身のヒュッレムを奴隷の身分から開放、正式に結婚しました。皇帝の正妻が奴隷出身なのはオスマン帝国史上初です。
スレイマンとヒュッレムの結婚を祝って盛大な結婚式が行われました。ヨーロッパ使節も招かれて報告が残っていますが。オスマン帝国の記録には式の様子は書かれていません。それだけ地元の人達からは快く思われていなかったのです。
側女が産む息子は一人だけとされていましたが、スレイマンはその慣例も破りました。
さらに皇子の母は皇子が県知事になったら一緒に赴任先に行くのが慣習でした。でもヒュッレムは行きませんでした。スレイマンがトプカプ宮殿に留まるのを許可したからです。
こうしたことが重なりスレイマンの方針とヒュッレムに不満を持つ人が増えました。そこでヒュッレムの息子ではないムスタファに期待をよせる人が現れました。
目立つ皇子は粛清される
こうしてムスタファ皇子は様々な人達から支持を得ていました。
ムスタファ皇子は自分自身も皇帝になろうと努力していました。そのため支持者を増やすための活動をしています。支持者の中にはムスタファの方針に共感して集まった人たちもいますが、ムスタファ本人の思惑とは無関係のところで支持が集まった人たちも多いです。
また皇帝が生きている間に皇子の人気が高まりすぎるのはそれだけで危険でした。
世界の他の王朝でも支持者を増やした皇太子(王子)が粛清された例はいくつもあります。権力争いは親子を敵にしてしまいます。とくに年長者で有能な皇子(王子)ほど皇帝(王)の競争相手にやりやすく、粛清される例が増えます。
とくに兵士や高官達の動きは謀反の疑いをかけられる危険性もありました。
事実、ムスタファは支持者達の動きとムスタファの対応を政敵に利用され謀反の罪で処刑されてしまいます。
オスマン帝国には皇太子の制度がなく。皇帝の信頼、皇子たちの実力や支持者によって誰が即位できるかが決まります。そしてオスマン帝国には「即位した者は兄弟を殺してもよい」というメフメト2世の遺言がありました。イスラム法では殺人より謀反の方が重罪です。
だからよけいに競争が激しくなります。でもやりすぎると目立って粛清される。オスマン帝国の皇子は厳しいですね。
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