MENU
カテゴリー

ムスタファ1世・心を病んだオスマン帝国 第15代皇帝

オスマン帝国国旗

ムスタファ1世は16世紀末から17世紀のオスマン帝国の第15代皇帝

第13代皇帝メフメト3世の息子。

母はハリメ・スルタン

息子のムスタファ1世は精神的に不安定で短期間の間に退位させられましたが。クーデターが起こりもう一度即位しています。

今回はオスマン帝国の皇子で皇帝にもなったムスタファ1世とはどのような人物だったのかご紹介します。

目次

ムスタファ1世の史実

名前:ムスタファ1世(Mustafa I
国:オスマン帝国
地位:皇子→皇帝→皇子→皇帝→皇子
生年:1592年
没年:1639年1月20日
父:メフメト3世
母:ハリメ・スルタン
妻:
子:なし

 

オスマン帝国系図

オスマン帝国系図

おいたち

1592年。ムスタファが誕生。

父はオスマン帝国 第12代皇帝メフメト3世
母はハリメ・スルタンです。

異母兄・アフメト1世の時代

1603年。メフメト3世が死去。アフメト1世が即位しました。

兄弟殺しの慣習によりムスタファは殺されるところでした。でもムスタファは生かされることになりました。その理由は幾つかあります。

アフメト1世はまだ13歳。跡継ぎはいません。もし兄のアフメト1世に何かあると後継者がいなくなってしまいます。

その後、アフメト1世にはオスマン皇子が生まれ、さらにその次の年にはメフメト皇子が生まれました。アフメト1世に跡継ぎができてもムスタファ皇子は改めて処刑されることはありませんでした。

というのも。父のメフメト3世が即位した時に19人の兄弟を殺害したことがあり。それが人々の批判を浴びたことがありました。イスタンブールの人々の声は政治家たちが無視できない要素になっていました。

さらにムスタファが精神的な問題を抱えていたことも理由のひとつかもしれません。

ムスタファは助かりましたが母ハリメから引き離され、旧宮殿の「黄金の鳥籠(カフェス)」とよばれる部屋に幽閉されました。ムスタファの世話は侍女たちが行いました。ときどき、母のハリメや祖母のサフィエ・スルタンと会うこともありました。

1612年。ムスタファは殺されそうになったこともありました。

そのときはアフメト1世の妻キョセム・スルタンが取りなして助かりました。キョセムには息子のメフメト皇子がいました。兄弟殺しの伝統が復活した場合。メフメト皇子が兄のオスマンの即位時に殺される可能性があったからです。

アフメト1世の治世が続く間、1603年から1617年の14年間は幽閉されました。

以降、皇帝が即位したら習慣だからという理由で兄弟を殺すことはなくなりました。

最初の即位と廃位

617年に兄のアフメト1世が死去した際、彼の皇子たちは全員スルタンになる資格があったため、トプカプ宮殿に住んでいました。

しかし、イスラム長老エサト・エフェンディと大宰相代理のソフ・メフメト・パシャらが率いる宮廷派閥は、アフメトの息子オスマンの代わりにムスタファを即位させることを決定しました。

この時、ソフ・メフメト・パシャは、オスマン皇子は幼く不人気になると主張し、一方で黒人宦官ムスタファ・アガは、ムスタファ皇子の精神的な問題を理由に反対しましたが、結局前者の意見が採用されました。

ムスタファの即位により、これまでのオスマン帝国のスルタンの継承の法則が変わり、初めて息子ではなく兄弟に王位が引き継がれました。皇位継承のルールは決まってませんが。以後は生存する皇族で最年長の者が皇帝になることが多くなります。

ムスタファ1世は精神的に不安定だったので母后ハリメ・スルタンが政治にかかわり、娘婿のカラダウトパシャが補佐しました。

ムスタファ1世の支持者は彼の精神的な不安定は監禁のせいであり、人と会い社会に接する機会が増えれば改善するだろうと期待していました。でも精神的な不安定は改善されませんでした。

ムスタファ1世は扱いやすく危険な行動を取ることはありませんでしたが、精神的に不安定なことは誰が見てもわかりました。

彼は大宰相の髭やターバンを引っ張ったりし、当時の史家イブラヒム・ペチェビは「このような状況は国民に見られており、心理的に混乱していることを見破られていた。」と記録しています。

1618年。即位して96日でクーデターが起きてムスタファ1世は退位させられ、再びカフェスに幽閉されました。

二度目の即位

1622年。アフメト1世とマフフィルズの息子・オスマン2世が即位しました。

しかしオスマン2世はイェニチェリ(常備歩兵軍)の反感をうけて反乱が起こりました。イェニチェリたちは宮殿に突入、監禁されているムスタファ1世を担ぎ出し。旧宮殿にいたハリメを連れてきました。

1622年5月。ムスタファ1世は再び皇帝になりました。

この時も実権は母のハリメ・スルタンが実権を握り、ハリメはカラ・ダヴド・パシャを大宰相にしました。

ハリメとカラ・ダヴド・パシャはオスマン2世の処刑を決定。兵士たちはオスマンは監禁するだけで殺すつもりはありません。前の皇帝の処刑には反対しました。でもハリメとカラ・ダヴド・パシャはオスマン2世が生きていたら危険だと判断。カラ・ダヴド・パシャが拷問の末、殺害しました。

前皇帝の殺害は兵士たちにも動揺を与え、ハリメたちは兵士や重臣たちたちの支持を失います。

アバザの反乱

オスマン2世を支持者していたエルズルムのベイラーベイ(州総督)、アバザ・メフメト・パシャが挙兵。イェニチェリに反発している騎兵隊も彼に味方しました。キョセムも味方していたかもしれません。反乱軍が迫っていると聞いてイスタンブルは混乱しました。

イェニチェリはカラ・ダヴド・パシャに責任を取らせて処刑。イスラム長老とマンケシュ・カラ・アリ・パシャはハリメと交渉。ムスタファ1世の退位を要求しました。ハリメはムスタファ1世の命を助けることを条件に退位を受け入れました。

その後、アバザの反乱は収束。

再び退位

アフメト1世とキョセムの息子・ムラト4世が即位しました。

1623年9月。ハリメと娘は旧宮殿に送られました。ムスタファ1世も一緒に旧宮殿に行ったかもしれません。

1639年。ムスタファ1世は亡くなりました。死因は不明。噂ではムラト4世が殺したとも、てんかんで亡くなったとされています。

ハリメとムスタファ1世はアヤ・ソフィアに葬られています。

 

彼が女性を極端に嫌悪していたため、女性を自分の側に寄せつけることはありませんでした。そのため、子供は一人も残しません。

また、彼はポケットに入れた金貨や銀貨を振り撒くという奇行をしていました。

 

ドラマ

新オスマン帝国外伝キョセム 2015年、トルコ 演:アスリハンギュルブズ

 

 

こんにちは!今回は、1592年にオスマン帝国のスルタン、メフメト3世とハリメ・スルタン夫人の間に生まれたムスタファ皇子の物語をご紹介します。

ムスタファ皇子は、1603年に父親が亡くなり、兄のアフメト1世が後を継ぎました。しかし、通常なら兄弟殺しの伝統に従ってムスタファ皇子は殺される可能性があったのですが、彼は幽閉されることになりました。幽閉中は母親のハリメや祖母のサフィエ・スルタンとも会うことができました。

兄の治世中、ムスタファ皇子は14年間も幽閉されました。その理由は、もし兄が亡くなった場合に備えてムスタファ皇子を隔離しておくことが必要だったからです。それ以降、オスマン帝国のスルタンが死去または退位する場合は、最年長の王族が継ぐのが慣例となりました。

ムスタファ皇子は改めて処刑されることはありませんでした。恐らくは、彼が精神的な問題を抱えていたためと、父のメフメト3世が即位した時に19人の兄弟を殺害したことが人々の悲観を招き、兄弟殺しを避ける一因となったためでしょう。

その後、ムスタファ皇子は何度か処刑されそうになりましたが、アフメト1世の妻であるキョセム・スルタンによって救われました。キョセムにはメフメト皇子という息子がおり、兄弟殺しの伝統が復活した場合、将来的に彼が兄のオスマンの即位時に殺される可能性があったためです。

いかがでしたか?ムスタファ皇子の物語には、様々な戦略や人間ドラマが絡んでいて、興味深いものです。また、イスタンブールの世論が政治に影響を与えるようになったことも注目に値しますね。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次
閉じる