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ムラト3世・引きこもり皇帝から始まったオスマン帝国衰退の始まり

オスマン帝国

ムラト3世は17世紀に生きたオスマン帝国の第12代皇帝です。

父は11代皇帝セリム2世。

祖父は10代皇帝スレイマン1世です。

スレイマンから続くオスマン帝国の全盛期に登場した皇帝でしたが。長引く戦争と財政の悪化で国が衰退。

それまで発展を続けていたオスマン帝国はムラト3世の時代で発展は終わり。緩やかな衰退へと向かいます。

強い皇帝が国を引っ張る時代は終わり。官僚と宮廷の人々が国を動かす時代になりました。

そんな時代に生きたムラト3世を紹介します。

 

目次

ムラト3世の史実

 

名前:ムラト3世(Murad III)
地位:オスマン帝国皇帝
生年:1546年7月4日
没年:1595年1月15日
父:セリム2世(SelimⅡ)
母:ヌールバヌー・スルタン
正妻:サフィエ・スルタン

子:
メフメト 1521年

1546年。マニサで誕生。

父はセリム皇子(後の11代皇帝セリム2世)。

生母はセリムの側女ヌールバーヌ。

同じ母から生まれたシャー、ゲヴヘルハン、エスメハンの姉がいました。

ムラトにはエブッスードの門下のサーディティンという師父がついていて彼から高い教育をうけました。トルコ語以外にアラビア語とペルシャ語も学びました。

1557年。割礼の儀式の後。
1558年。12歳のとき。祖父スレイマン1世の命令でアクシェヒルの知事(サンジャックベイ)になりました。

1559年。叔父のバヤジットが挙兵。ムラトは父セリムの命令で軍を率いてコンヤに向かいました。13歳で初陣を迎えました。戦いは皇帝スレイマンが味方したセリムが勝ちました。

1562年。いとこヒューマシャー・スルタン(メフメト皇子の娘)から側女を与えられました。その側女はいとこにちなんでヒューマシャーと名付けられました。

1564年。サルハン知事になりました。

1566年。祖父スレイマン1世が死去。父セリム2世が皇帝になりました。

ムラトはセリムの一人息子。皇帝の唯一の後継者として名声が高まりました。

ムラトはマニサの知事になりました。慣習とは違い、母ヌールバーヌはセリム2世ともにイスタンブールにいたのでマニサには来ませんでした。

このころのムラトは側女のサフィエが一番のお気に入りでした。サフィエはムラトへの影響力を高めていきます。

その後、セリム2世には5人の息子ができました。ムラトの弟は幼いのでムラトが次期皇帝の有力候補なのは変わりません。ムラトは弟たちに会うことはほとんどなく彼らと交流を持つこともありませんでした。

皇帝ムラト3世の時代

1574年12月。父のセリム2世が死去。

そのときムラトは赴任先のマニサにいました。母ヌールバーヌは他の皇子や支持者に知られないように密かにセリム2世の死去と「すぐにイスタンブールに来るように」と連絡してきました。

ソコルル・パシャが船を用意するというので待っていまいたが。船を見つけることはできませんでした。そこで自前で船を用意してひどい嵐の中、イスタンブールに向かいました。

1574年12月14日。ムラトは船酔いに悩まされながらもイスタンブールのトプカプ宮殿に到着。皇帝に即位しました。

ムラトは周囲の人々から5人の弟を殺すように言われました。最初はムラトは拒否、玉座に座ろうとしませんでした。

しかし母后になったヌールバーヌと宰相達は兄弟を殺すように説得。最終的にムラト3世はすすり泣きながら5人の弟たちの処刑の命令をだしました。

オスマン帝国では過去に皇帝が兄弟を殺した前例はありますが。イスタンブールで「兄弟殺し」が行われたのはこれが最初でした。イスタンブールの市民や兵士たちは5つの小さな棺桶を見て衝撃を受けました。

モロッコ遠征

モロッコのサーディア朝の王子アブド・アル=マレクは、兄弟との王位争いに破れオスマン帝国に亡命していました。

1576年。アブド・アル・マレクはオスマン帝国をモロッコの宗主国になるのを認め、自分をモロッコの王にするように提案。ムラト3世はみとめてモロッコに軍を派遣しました。

アブダラ・ムハンマド2世を追放してアブド・アル・マレクを新しい王にしました。アブド・アル=マレクは大量の金と引き換えにオスマン軍を撤退させました。オスマン帝国の支配があまり及ばないゆるやかな属国になりました。

あとを継いだアフメド・エル・マンスールは1582年。独立を宣言。ムラト3世は軍の派遣を巡視日ました。するとアフメド・エル・マンスールは10万枚の金貨を支払ったので遠征は中止になりました。

オスマン・サファビー戦争

ムラト3世が即位した時。大宰相はソコルルが務めていました。彼はスレイマン1世、セリム2世につかえてきた有能な重臣でした。

若いムラト3世にとって年老いた力をもつ重臣は邪魔でした。

1578年。サファビー朝イランへの遠征を決定。

サファビー朝では1576年にタフマースブが死去。その後は内乱がつづていました。そこでララ・ムスタファ・パシャやコジャ・シナン・パシャたちがイランとの戦争を主張していました。

大宰相ソコルルは軍の経験も長くイラン戦争にも出たことがあります。イランとの戦争の難しさを訴えて反対しました。

でもムラト3世は戦争支持派の宰相たちの意見を採用してイランとの戦争を決定しました。

ララ・ムスタファ・パシャとコジャ・シナン・パシャを司令官に任命してイランに派遣。サファビー朝の主要都市タブリーズを占領。コーカサス、メソポタミア、アナトリア、そしてイラン西部を占領。

オスマン・イラン戦争が続く1579年。大宰相ソコルルは何者かに暗殺されましす。

1588年。イランに新しいシャー(王)が即位。内乱に悩まされている若いアッバス1世は不利な条件でも和平を望みました。

1590年。オスマン帝国とサファビー朝との間に和平条約が結ばれ戦争が終わりました。

12年間続いたオスマン・イラン戦争は終わり。オスマン帝国は広大な領土を獲得しました。でも一方で膨大な支出に悩まされ。財政は悪化します。

ムラト3世の死後。1603年にはタブリーズを奪回され、1607年にはこの戦争で獲得した領土をすべて奪い返されてしまいます。

ハプスブルクとの長期戦争

1591年にオスマン帝国のボスニア州の知事テリ・ハサン・パシャが宣戦布告なしにクロアチア王領ハンガリーに侵攻。

テリ・ハサン・パシャはウスコジ(オスマン帝国に抵抗するバルカン半島の人たちが組織した山賊やゲリラ)を排除するという名目で戦闘を行っていました。イスタンブールの中央政府の承認がない戦闘・略奪好意でした。

テリ・ハサン・パシャの軍はクロアチアで2000~5000人を殺害、35000人を捕虜にしました。クロアチアを助けるため、スロベニア、ドイツは兵を派遣。

1593年。シサクの戦いテリ・ハサン・パシャ率いるオスマン軍はキリスト教連合軍に敗北。テリ・ハサン・パシャは戦死しました。

キリスト教国側の勝利に教皇クレメンス8世は大絶賛。テリ・ハサン・パシャの敗北がイスタンブールに伝わるとムラト3世は「たとえ彼自身が引き起こした戦いでもオスマン軍が敗北するのは許されない」と激怒。ムラト3世はハプスブルクの君主ルドルフ2世に宣戦布告。

ハンガリーとクロアチアを戦場にしたオスマン帝国とハプスブルク帝国の戦争が始まります。戦いは城をとっては取られるの繰り返しで泥沼化しました。ムラト3世の時代には戦争は終わらず、次のアフメト1世の時代まで続きました。

それまでバルカン半島の正教徒はカトリックへの対抗心からオスマン帝国の支配を受け入れていました。この戦いの後、バルカン半島の正教徒たちはオスマン帝国への忠誠が薄らいでいきます。

財政の悪化

このころオスマン帝国は軍の編成を大幅に変えていました。ヨーロッパの城を攻略するため、銃や大砲で武装した軍隊を編成。オスマン建国依頼支えていた騎馬軍団を縮小していました。オスマン軍を支えていたのはティマールという騎馬軍団でしたが。かれらはトルコ人の豪族たちが編成した騎馬民族の伝統が残る集団です。ティマールは地方を治める豪族なので税の徴収も行います。

スレイマン1世のころにはティマールの解体がはじまり、徴兵で集めたイェニチェリが軍の中心になっていきました。銃で武装したレバントとよばれる非正規兵も雇っていました。イェニチェリや非正規兵に払う給料が増え。オスマン帝国は新しい徴税方法を採用。

ティマールを解体して徴税請負制を採用。政府から依頼された徴税請負人が各地から税を集めました。スレイマン1世の大宰相リュステムの時代から始まった制度で。ムラト3世の時代になるとかなり普及していました。確実に税収が見込める方法なのですが。失業したティマールが反乱を起こすことも増えます。

さらに17世紀に世界を襲った寒冷化(小氷河)の影響をうけて農作物の収穫が激減。世界規模で王朝が衰退したり戦乱が起きた時代です(日本では戦国時代)。

オスマン帝国内の農村では税を払えない農民が逃げ出して耕作地が荒れ果てました。失業したティマールや兵たち反乱を起こしたりして不安定になります。長引く戦争に費やす戦費に苦しむオスマン帝国にとって大きな打撃になりました。

ムラト3世の私生活

ムラト3世はサフィエを非常に愛していたので最初は側女はほとんどいませんでした。でも快く思わない母后ヌールバーヌは次々に側女を送り込みました。

 

ハレムの拡張

ムラト3世の時代。トプカプ宮殿のハレムは大規模に拡張されました。トプカプ宮殿にハレムを造ったのはスレイマン1世が最初ですが。旧宮殿(エスキサライ)にもハレムがあって両方使っていました。

旧宮殿のハレムの大部分をトプカプ宮殿に移築。旧宮殿は先代の側女たちが住む場所にして。現在の皇帝たちの妃や側女達はトプカプ宮殿で暮らすことになりました。ハレムの制度も変更され、ハレムを管理する黒人宦官長が登場するのもムラト3世の時代から。

現在残っているトプカプ宮殿のハレムの建物はムラト3世時代のものがもとになっています。スレイマン1世時代のハレムはドラマほど豪華ではありませんでした。

引きこもり生活

国レベルでは戦争が続いた時代でしたが。ムラト3世は一度も遠征には出ていません。すべて宰相任せです。

その一方でハレムを拡張。皇帝のプライベート空間とハレムが一体になり。皇帝が表の世界に出てくる機会が減りました。

治世の最後の2年はトプカプ宮殿を離れることすらありませんでした。皇帝は金曜日にモスクに行って礼拝するのが習慣になってました。スレイマン1世は毎週行っていました。セリム2世も回数は減りましたが続けていました。ムラト3世は晩年になるとやめてしまいました。イェニチェリたちが反乱をおこそうとしていると心配していたからだともいわれます。宮殿に引きこもり1日5回の礼拝は続けました。

ムラト3世が出ない代わりに母后ヌールバーヌが礼拝に行ったこともあります。

宰相たちに会う機会も減り。親しい人たちと過ごす時間が増えました。

拡張したハレムには大勢の側女がいて。ムラト3世には47人の子供ができました。

 

1595年。ムラト3世は死去。享年50。

長男のメフメト3世があとを継ぎました。

 

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