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導師マフムト・ヒュダーイー:オスマン帝国皇帝を導いた心の指導者

オスマン帝国国旗

アジズ・マフムト・ヒュダーイーはスーフィズム(イスラム教神秘主義)の指導者。

アジズ・マフムト・ヒュダーイーは皇帝からも信頼が厚く。当時のオスマン帝国で最も宗教的権威のある人物でした。

トルコのイスラム教の聖人です。

アジズ・マフムト・ヒュダーイーの影響力は大きく、庶民から皇帝まで様々な人が彼の話を聞き心の癒やしを求めました。

トルコ史上に残るイスラム教の聖人。アジズ・マフムト・ヒュダーイーについて紹介します。

 

目次

の史実

名前:Aziz Mahmud Hüdayi(アジズ・マフムト・ヒュダーイー)
国:オスマン帝国
宗派:スーフィズム
生年:1541年
没年:1541年
父:ファドゥルッラー・ビン・マフムト
母:不明

子:なし

ヒュダーイーとは?

“Hüdayi”は、アラビア語の “Hudā” から派生したトルコ語の言葉。

“道を示す者”、”指導者”、”啓示者”、”真理を教える者”を意味します。

聖人としての称号です。

おいたち

1541年。アンカラのシェレフリコチサル地域で生まれました。

本名は「マフムト」、アジズとヒュダーイーは後から付いた称号です。

父親はファズルッラー・イブン・マフムトとされています。

シヴリヒサルで幼少期を過ごし初歩的な教育を受けた後。イスタンブールに行ってキュチュク・アヤソフィヤ・マドラサ(学校)に入学しました。

マドラサでの教育を終えた後、ナズルザーデ・ラマザン・エフェンディの弟子になりました。

その後、師匠とともにエディルネ、シリア、エジプトなど各地を周り布教を行いました。エジプトにいるときスーフィズムのカリメッディン・エフェンディの教えを受けました。

1573年。33歳のマフムトは師匠のナズルザーデ・ラマザン・エフェンディとともにブルサに戻りファルハディイェ・マドラサ(学校)で教師になりました。

3年後、師匠のナズルザーデ・ラマザン・エフェンディが死亡。後任としてブルサで判事になりました。当時はカディ・マフムト・エフェンディと呼ばれていて、すでにそれなりの名声を得ていました。

そのまま活動を続けることもできたのですが。ある神秘体験をきっかけにそれまでの生き方に疑問を持ち。ブルサのスーフィー老師メフメト・ウフタディンの教えを受けようと訪問しました。

スーフィー老師ウフタディンの弟子になる

カディ・マフムトがメフメト・ウフタディンを訪れたとき。

ウフタディンはカディ・マフムトに対して「名声におぼれて贅沢な暮らしに慣れている」と指摘。カディ・マフムトはそれまでの地位を捨てて弟子になりました。

カディ・マフムトはシェイフ・ウフタディンのもとで修行を重ねスフィーの伝道師になりました。シェイフ・ウフタディンの死後。ルメリやイスタンブルなど各地でスーフィズムを広めます。やがてカディ・マフムトはスーフィーの指導者として人々の尊敬を集めるようになり、「アジズ・マフムト・ヒュダーイー」と呼ばれるようになりました。

イスタンブルで活動

マフムト・ヒュダーイーはクチュクアヤソフィア・ジャーミー(モスク)に招かれそこで8年間イスラム教を教える活動をしました。この間、学者や政治家など幅広い人々と交流しました。

1589年。イスタンブルのアナトリア側にあるユスキュダルで土地を購入。デルガー(修道場)の建設を開始。1595年に完成しました。そこで多くの弟子たちを育てました。

彼の名声はすぐに広まりました。病んだ心を癒やすため彼の説教を聞こうと様々な人々が修道場に押し寄せました。貧しい人々から最高位の政府高官まであらゆる階層の人々が集まりました。

また親しい人たちからはさまざまなモスクで説教をしてくれるように頻繁に依頼が来ていました。

時折、スルタンの招きで宮殿を訪れスルタンと会話を交わすこともありました。

皇帝の心の指導者

マフムト・ヒュダーイーは当時の皇帝に手紙を書いて助言を与えたり、直接会いに行って話をしていました。

マフムト・ヒュダーイーがイスタンブルに来たころ、帝国を統治していたのはムラト3世でした。

ムラト3世は帝国の強さを過信していました。マフムト・ヒュダーイーは皇帝に手紙を書いて様々な助言をしました。

その助言によってマフムト・ヒュダーイーは皇帝や政府高官からも信頼を得て名声は更に高まりました。

アフメト1世との関わり

アフメト1世はマフムト・ヒュダーイーから様々な助言をうけ、彼を尊敬していました。

アフメト1世はヒュダーイーに様々な援助をしました。しかじ過剰な贈り物は物質社会への執着に繋がるとして贈り物を断ることもありました。ただ、皇帝の好意を受け取ることも礼儀と考え、受け取った援助は施設の建築や信者への施しに使いました。

アフメト1世はブルーモスク(スルタン・アフメト・ジャーミー)を建設。マフムト・ヒュダーイーはブルーモスクで初めて金曜礼拝の説教を行いました。

オスマン2世に巡礼に行かないように忠告

アフメト1世の次に皇帝になったオスマン2世にも助言をしていました。オスマン2世は若いですが意欲的でオスマン帝国が抱えていた幾つかの問題を改善しようと努力しました。

あるとき、オスマン2世はメッカ巡礼を使用と思い立ちました。メッカ巡礼には1年かかります。その間、国を留守にするわけにもいかないので歴代スルタンは使者を派遣していました。

オスマン2世の意図を知ったマフムト・ヒュダーイーは伝統を破らないように、メッカ巡礼には行かないように何度も忠告しましたが。若くて血気盛んなオスマン2世はますます反発して巡礼に出かけてしまいます。その後、兵士たちが反乱を起こしてオスマン2世は廃され、処刑されてしまいます。

オスマン2世の死はヒュダーイーの忠告を守らなかったからだと噂されました。

ムラト4世に即位の儀礼

その後、即位したのはムラト4世でした。マフムト・ヒュダーイーは当時、最も尊敬されていた老師ということでムラト4世の即位式で剣を与える役目を担当しました。

ムラト4世は11歳で即位。政治は母キョセムと高官たちが仕切っていました。宮殿に息苦しさを感じたムラト4世はときおり宮殿を抜け出してヒュダーイーのもとに来て教えをうけて元気を取り戻したり、心の拠り所にしました。

また。皇帝だけでなく政府高官もヒュダーイーを頼りにしました。政争に疲れた政府高官がヒュダーイーのもとを訪れ相談に来ることもありました。

こうして様々な階級の人々と交流して慕われました。

 1628年。マフムト・ヒュダーイーが死去。
彼の墓はユスキュダルのデルガー(修道場)にあります。

ジェルヴェティー教団

マフムト・ヒュダーイーが代行を務める集団はジェルヴェティー教団と呼ばれました。

スーフィーズム(イスラム教神秘主義)の集団でもともとハルヴェティエ派の一派でブルサのアクビィク・スルタンと名乗る者によって設立された組織です。後にマフムト・ヒュダーイーによってジェルヴェティー教団として再編成されました。

スーフィーズムとは修行によって人と神が繋がることを目的にする活動のこと。かつてコーランはアラビア語で書かれていて他の言語への翻訳が禁止されていました。そのためトルコやイラン、中央アジアなど。アラビア語が読めない人はコーランが理解できません。そこで独自の方法で信仰を求める人達が現れました。それがスーフィズムです。

スーフィズムには多くの宗派があります。修行の内容は祈り、瞑想、断食、詩、音楽、舞踊、その他の様々な宗教的な儀式を行います。とくにジェルヴェティー教団では音楽を重視しているといいます。

スーフィーの修行僧のことをダルヴィーシュ(ダルヴィシュ)と言います。

マフムト・ヒュダーイーがユスキュダルに作った修道場はイスタンブルで最も重要な文化の中心地になり、多くの人材が育てられました。

スーフィズムはコーランに忠実な教えを守ろうとするウラマー(イスラム法学者)たちからは批判されることもありますが。アラビア圏の宗派やイスラム原理主義的な立場の集団からは異端扱いされています。アラビア語を母国語にしない人々からは支持されていました。オスマン帝国の皇帝の中にもスーフィーを支持する人もいました。

オスマン帝国時代には盛んに活動していましたが、現在のトルコ共和国ではスーフィーの活動が規制されています。ヒュダーイーの組織も現在は慈善活動を行う財団として活動しています。

 

 

 

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