ルトフィー・パシャはオスマン帝国の大宰相。
スレイマン1世の妹・シャー・スルタンと結婚しました。
イブラヒムのあとに大宰相になったアヤス・パシャが病死した後に大宰相になりました。
ところがシャー皇女に暴力をふるったため離婚され、大宰相の地位も奪われてしまいます。
ルトフィー・パシャについて紹介します。
ミフリマーフの史実
名前:ダマット・チェレビ・リュトフィ
地位:オスマン帝国大宰相
生年:1475~1490年の間
没年:1564年
父:不明
母:不明
妻:シャー・スルタン(スレイマン1世の妹)
子供:
エスマハン・バハルナズ・スルタン
ネスリハン・スルタン
生年はいつなのかはっきりとしません。1475~1490年の間に生まれたといわれます。
出身地もはっきりしませんがアルバニアだといわれています。
子供の時、デヴシルメ(徴用)によってオスマン帝国の都イスタンブルに来ました。エンデルン(無料の学校)で勉強しました。
マスタモヌ(トルコ北部)の司令官。カラマン州知事などを歴任。
1520年。スレイマン1世が即位しました。
1523年。スレイマン1世の娘。シャースルタンと結婚しました。
ベオグラード、ロードス島、ハンガリー、ウィーン包囲戦、バグダットなど、スレイマン1世の多くの遠征に同行しました。
1534年。ルメリアの知事になりました。
1537年にはヴェネツィアとの戦争にも参加しました。
1538年。モルドバへの遠征にも参加しました。
大宰相になる
1539年。宮廷に呼ばれます。大宰相アヤス・パシャが死亡したため後任の大宰相になりました。
彼が大宰相の間にオスマン帝国とヴェネツィアとの戦争は終わりました。ハプスブルク家との和平交渉も行い1540年に調印します。
それまで知られていなかったミマール・シナンを宮廷に紹介しました。その後、スレイマンやハレムの人々は様々なモスクを建築しますがその多くをミマール・シナンが手掛けました。
シャー皇女と離婚
1541年。リュトフィ・パシャは街の風紀の取締を行っていました。
あるとき、ルトフィー・パシャについて街で噂が広まりました。リュトフィーは捉えた売春婦に対して体の一部を切断して処刑する非常に厳しい懲罰を与えていたというのです。
シャー皇女はそれを知ってリュトフィ・パシャを批判。激しい口論になりました。口論が白熱してルトフィー・パシャはシャースルタンを平手打ちしました。
シャー皇女は兄のスレイマン1世に訴えました。妹の訴えを聞いたスレイマンは妹の離婚を認めました。それだけではありません。スレイマンはルトフィーを大宰相の座から解雇してハディム・スレウマン・パシャを新しい大宰相に任命しました。
離婚後
ルトフィーはディメトカ(現在のギリシャ)に追放になりました。
1542年にスレイマンから許されます。その後、リュトフィはヘヤズ(現在のサウジアラビア)のメッカ巡礼の旅に出ます。
メッカから戻った後、ディメトカの農場で暮らしました。死ぬまでにいくつかの本を書きました。政治、歴史、宗教さまざまな分野の本を書きました。代表作はオスマン帝国の創設から1553年までの期間の出来事を書いた「テヴァリー・オス・オスマン」です。
1564年。ディメトカの農場で死亡しました。
彼の長女エスメハンはヒュッレムの息子、メフメド皇子と結婚しています。
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