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クユジュ・ムラト・パシャ。オーストリアやジェラーリとの戦いで成果を出した大宰相

オスマン帝国国旗

クユジュ・ムラト・パシャ (kuyucu murad pasha) は、17世紀前半にオスマン帝国の大宰相をつとめた人物です。

ヨーロッパでのオスマン帝国とオーストリアの長期戦争を戦いで手柄を立て。和平交渉を成立させました。

その後、大宰相になり。アナトリアでのジェラーリ反乱を行いました。このときの作戦は大規模なもので捕らえて処刑した反乱者は3万人を超えるといいます。

その後、イランとの戦争が始まりましたが。和平交渉の最中に死亡しました。

クユジュ・ムラト・パシャについて紹介します。

 

目次

クユジュ・ムラト・パシャの史実

名前:クユジュ・ムラト・パシャ (kuyucu murad pasha)
国:オスマン帝国
地位:大宰相
生年:1522年ごろ?
没年: 1611年9月6日
父:不明
母:不明
妻:マフムード・パシャの娘

 

子:なし

正確な生年月日と出身地は不明。クロアチア出身であるといわれます。

デヴシルメで宮殿に連行され、ここで成長した。

スレイマン1世の晩年。イエメンのベイラーベイであったマフムード・パシャ(1560-1565年)の侍従として仕えました。

その間、マフムード・パシャの娘と結婚しました。

1575年。イエメンのベイラーベイになりました。彼はイエメンに4年近く滞在し、ここで多くの慈善事業を行った。しかし、反対派が「ムラトが不当に巨万の富を得た」という噂を流したため。

1580年に解任されてイスタンブールに連行、しばらくイェディクレの牢に幽閉され、財産は没収されました。

1585年。カラマン州の知事になりました。
このとき、イラン遠征に参加。タブリーズ近郊でハムザ・ミルザ指揮下のサファヴィー朝軍と戦闘中、馬が滑って溝に落ち、イラン軍に捕らえられました。
その後。フェルハト・パシャ条約でオスマン帝国とイランの和平が終結すると1590年にイスタンブールに戻ってきました。

1593年。ダマスカスの知事になりました。

ムラト・パシャはオスマン・オーストリア戦争(1593~1606年)にも参戦。1596年のエゲルの戦いで活躍して

エゲル包囲戦、ハチョーヴァの戦いに参加し、大きな戦果をあげました。
1600年。カニエの作戦でバボフサ城を攻略しました。
ムラト・パシャの戦いぶりはメフメト3世からも注目されました。

アフメト1世の時代

1603年。アフメト1世が即位。
ルメリアとブディン衛兵のベイラーベイ(州総督)に任命されました。

1605年。第4宰相になりました。
1606年。ハンガリー戦線のソコルザデ・ララ・メフメト・パシャがイラン攻略のセルダル(司令官)として任命されると。

大宰相がハンガリー戦線を離れることになると、クユジュ・ムラト・パシャはハンガリー戦線のセルダル(司令官)に任命されました。

ソコルザーデ・ララ・メフメト・パシャがオーストリアと始めた和平交渉はクユジュ・ムラト・パシャによって続けられ。

1606年11月11日。ジトヴァ・トロク条約が条約が締結。10年以上続いたオーストリアとの長い戦争は終わりました。

大宰相として

1606年12月9日。に大宰相デルヴィーシュ・パシャが死去するとクユジュ・ムラト・パシャは大宰相になりました。

ジェラーリ反乱の鎮圧

クジュク・ムラド・パシャの大宰相としての最初の任務は、アナトリアのジェラーリ反乱の鎮圧でした。

クジュク・ムラド・パシャはまず、シリアで独立を宣言したカンボラドールへの進軍を開始しました。

その途中、ブルサとマニサで反乱を起こしたカレンデロオルをアンカラのサンジャクベイ(県知事)にし、無害化。他にも小さなジェラーリを赦免、コンヤで反乱を起こしたサルカルー・アフメド・ベイを捕らえて処刑しました。

クジュク・ムラド・パシャとその軍隊はベレン峠の南のオル チ平野で4万のカンボ ラド・グルと戦いました。この戦いに勝利したクジュク・ムラト・パシャは、アレッポを占領。

バグダッドで反乱を起こしたタヴィル・アフメトール・ムスタファの反乱を鎮圧するためチャールザーデ・マフムート・パシャの指揮する軍隊をバグダッドに派遣。この反乱軍も壊滅させた。

一方、アンカラの県知事に任命されていたカレンデロオルでしたが。彼の残虐性を聞いた民衆がアンカラに入れるのを拒否。カレンデロオルはアンカラを包囲しました。

そこでムラト・パシャは軍を派遣。周辺の反乱軍がカレンデロオルに合流するのを防いて、カレンデロオル軍と戦い勝利しました。カレンデロオルはイランに逃れました。

その後、クジュク・ムラト・パシャはアマスィヤとチョルムの近郊で反乱を起こしたタヴィル・ハリルの軍勢を打ち破って滅ぼして1608年イスタンブールに戻りました。

その間、小さな勢力を率いて反乱を起こしたジェラーリには寛容な態度で接し、彼らの一部に様々な地方の役職を与えて反乱を阻止しました。

その一方で、大きな勢力や反抗するジェラーリには容赦なく。年齢性別に関係なく捕らえた反乱者を処刑、あるいは生き埋めにして集団墓地を作りました。そのため「クジュク(穴掘り)」と呼ばれるようになしました。この作戦でアナトリアで彼が殺した人数は3万人を超えたといわれています。

クジュク・ムラト・パシャは高齢であったので長時間馬に乗っていることが難しく、自ら馬に縛られていたと伝えられています。

イランとの戦い

1604年以降。オスマン帝国がオーストリアと戦っている間にイランが攻め込みレヴァン、タブリーズ、グルジアを占領していました。

皇帝アフメト1世は1609年初頭にはイラン遠征を決定。準備を進めていました。

クジュク・ムラト・パシャがイスタンブールに戻ると。イラン遠征軍司令官に任命されました。

大宰相クユジュ・ムラド・パシャは遠征準備のためウスキュダルのキャンプに滞在。そこから遠征の準備を管理した。彼は相変わらずジェラーリの鎮圧作戦を続け、前年に捕らえられなかった多くのジェラーリの指導者を、地位と職務を与えると騙してウスキュダルに連れてきては処刑しました。というのも、多くのジェラーリ反乱のリーダーは地位が欲しくて反乱を起こしていたからです。

1610年。イラン遠征を開始。でもイラン軍はすでに占領地域の防衛を強化。オスマン軍はこれらの地域を奪還することはできませんでした。

クユジュ・ムラド・パシャはディヤルバクルに退却。イラン使節との和平交渉が開始されました。クユジュ・ムラド・パシャは、この交渉に参加しました。

1612年8月5日。しかし和平交渉が成立する前にクユジュ・ムラド・パシャが死去。

その後。大宰相になったナスフ・パシャによって交渉が続けられ。1612年11月20日に締結された平和条約は、ナスー・パシャ条約と呼ばれます。

 

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