「新・オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム シーズン1」第76・77・78・79・80話のあらすじとネタバレ紹介記事です。
今回の主人公は第14代皇帝 アフメト1世の妃で第17代皇帝ムラト4世の母。キョセム・スルタン。キョセムスルタンはオスマン帝国史上もっとも権力を持った母后と言われました。
シーズン1もいよいよクライマックス。
ムスタファ1世のあと皇帝になったオスマン2世でしたが。しだいにキョセムとの溝が深まっていきます。
その裏ではイスケンデルをたてようとするサフィエ、ムスタファをもう一度皇帝にしようとするハリメたちの動きも活発になってきました。
そしてついにメフメトが犠牲に・・・
今回はトルコ版オリジナル”Muhteşem Yüzyıl: Kösem(壮麗なる世紀:キョセム)”
No.28 “Küçük Buzul Çağı…(冬の時代)“~No.29 “Yüzüğün ve Kılıçların Ateşi…(指輪と剣の炎)“に相当する
第76話 呪われた冬 ~ 第81話 玉座の危機
までを紹介します。
第76話 呪われた冬
メフメトの死
皇帝オスマン2世はルメリ軍法官カザスカルからファトワー(宗教的見解)を得て弟メフメトの処刑を決定。
ジェンネトはキョセムにメフメトの処刑を認めるファトワが出たことを知らせ。キョセムはメフメトの処刑を止めようとしますが。しかしすでに遅く、キョセムが見たのは息子メフメトの無惨な姿でした。ケセムは息子の遺体を前に激しく泣きました。
氷河期のような冬
1621年から1622年にかけて帝都イスタンブールには大雪が降り、極寒の冬がやってきてボスポラス海峡が凍りつくほどの寒さになりました。人々は皇帝オスマン2世の行いに神が怒って罰を与えたのだと噂しました。
その後。キョセムは霊廟で皇帝オスマン2世に会いました。息子を殺され激しく怒るキョセム。もはやオスマンを息子とは思わないキョセムはオスマンの廃位を決意します。
その頃、サフィエは皇子イスケンデルと密かにあって今後の事を話し合っていました。そこに皇女ヒュマーシャーがズルフィカールを連れてやってきます。
感想と解説
残念なことについにメフメトは処刑されてしまいました。史実では遠征の間にメフメトがかつがれて反乱を起こす可能性があるので処刑しました。
皇帝アフメト1世の即位以来、皇子殺しは行われていなかったので人々は驚きました。
そのころイスタンブールは猛烈な寒さに襲われました。メフメトの処刑から12日間大雪が降りました。そのため人々は皇帝が皇子を処刑したことにアラーが怒ったのだと噂したといいます。
第77話 長老の娘
帝都イスタンブールは以上な寒さに襲われ民は飢えと寒さで苦しんでいました。キョセムは炊き出しを行い人々を助けていました。皇帝オスマン2世もお忍びで街の視察を行い、人々の生活を知ります。そこでオスマン2世はある娘と知り合います。
ハリメ妃はキョセムからイスケンデルが生きていることを聞かされます。ハリメは宰相ダヴドにイスケンデルのことを調べさせました。ダヴドはサフェに仕える宦官からイスケンデルのことを聞き出しました。
長老の娘との結婚
皇帝オスマン2世はメフメト皇子を処刑したことでイスラム法学者たちの支持を失いました。そこでイスラム教社会で権威のある者の娘と結婚して支持者を増やそうと考えます。イスラム長老エサト・エフェンディの娘アーキレ・ハニムを見初めて彼女と結婚。オスマン2世と正式な夫婦になったアーキレ・ハニムは硝子離宮で暮らすことになりました。
そしてオスマン2世はポーランドとの戦いに向けて遠征に出ます。
感想と解説
オスマン2世がイスラム長老エサト・エフェンディの娘アーキレ・ハニムと結婚したのは事実。理由はドラマのとおり自分の支持者を増やそうと考えたオスマン2世が考えたものです。ハレムの人ではない自由人のイスラム教徒との結婚は長く行われておらず、逆にイスラム社会から反発を受けました。
正式に婚姻関係は結んだもののアーキレ・ハニムは奴隷ではないのでハレムには入っていないと言われます。ドラマでもその設定です。
・アーキレ・ハニム、オスマン2世と結婚した名家出身のイスラム教徒
第78話 皇帝オスマンの親征
ポーランド遠征
皇帝オスマン2世はポーランド遠征に出発。しかしオスマン軍はポーランドのホーティン要塞の攻略に失敗。オスマン2世は戦果の上がらない戦いに苛立っていました。指揮官たちは兵士たちの怠慢を理由にして、兵士たちは指揮官たちの横暴さを訴えます。
感想と解説
オスマン帝国がポーランドとの戦争に踏み切った理由はいくつかあります。でもオスマン2世本人が遠征したのは自分の権威を高めるため。ところが兵士の怠慢や指揮官と兵士の意思疎通がうまくいかず要塞を落とすことができません。
ドラマでは描かれていませんが。このころイェニチェリは堕落していました。名前だけ登録して実際には戦場に行かない兵士が多くいました。堕落したイェニチェリの実態を知ったオスマン2世は軍の改革をしようとするのですがそれも兵士たちの反感をかってしまいます。
イスケンデルの最期
サフィエは皇女ディルルバと宰相ダヴドに誘拐されました。ダヴドたちはイスケンデルの居場所を吐かせようとしますが、サフィエは拒否。そこにズルフィカールとビュルビュル・アガがやってきてサフィエを助けました。サフィエから信用されたズルフィカールはイスケンデルを逃がすように任されます。ズルフィカールはイスケンデルを船に乗せて旅立た去るのですが。実はキョセムの命令で船には爆弾が仕掛けられていて、イスケンデルは船もろとも爆破されます。弟の死を知ったヒュマーシャは怒りのあまり、夫に離婚を切り出すのでした。
感想
キョセムはイスケンデルを殺害してしまいました。もう容赦ありませんね。ズルフィカールはつらい立場ですが、ヒューマシャーが怒るのもわかります。
イスケンデルというのは実在の人物です。実際にサフィエの息子を名乗っていました。史実では自称皇子で本物ではなかったようです。活動もヨーロッパが中心で各地の領主のもとを訪れては支持を呼びかけていたようです。オスマン帝国の中にはいませんでした。だからイスケンデルとサフィエは会ったことありません。
・イスケンデル/ヤフヤ皇子・オスマン帝国の皇子を名乗る反乱者
第79話 後宮に帰ったサフィエ妃
サフィエの死
サフィエは久しぶりにトプカプ宮殿に訪れました。そしてキョセムにこれまでのことを話し、力の指輪をキョセムに渡し、キョセムの前で息絶えました。息子を失い生きる意欲を失ったサフィエは毒を飲んでいたのでした。
感想:
キョセムの敵サフィエがついに亡くなりました。史実ではエスキサライに移動になったあとは大人しくして悠々自適な隠居生活をおくっていたサフィエですが。ドラマでは最期までキョセムの敵として登場。異様なまでの権力への執着を見せます。
でもドラマのサフィエは史実のキョセムの晩年にそっくりなんですね。制作側も意図的にそういう演出にしているんじゃないかと思います。憎んでいた人と同じことを自分がしてしまう。そんな流れになっているようです。
ポーランドとの和平と皇子の死
ポーランドと戦争中のオスマン2世のもとに高官達がポーランド王が和平を臨んでいるとの知らせが入ります。高官や兵士たちの希望もありオスマン2世は和平をむすんで帰還。帝都に凱旋しました。
戻ってきたオスマン2世はキョセムとハリメの追放を決定しました。
中庭で行われた祝賀会の最中にダヴドのたくらみでオメル皇子が死亡するという事件が発生。オスマン2世は息子の死にキョセムがいると考えます。
その後。アキレ・ハニムはムスタファとゼイネプ・スルタンという双子を出産するのでした。
感想と解説
オスマン軍は要塞を攻略できないままポーランドと和平を結びました。勝者のいない戦いでしたが、オスマン帝国もポーランドもどちらも勝利したと主張しています。
コサックの脅威はとりあえずはなくなったものの、勝つつもりだったオスマン2世にとってはショックでした。
その後、戦勝記念と皇子の誕生を兼ねた式典の最中にオメル皇子が死亡。実際には死因はわかりません。なんらかの事故だったようです。
ドラマではダヴドの陰謀になってますね。それがさらにキョセムたちへの不信感につながるという流れになって、もうオスマンとキョセム達には争うことしかできなくなっていきますね。
第80話 歩兵常備軍(イェニチェリ)の反乱
軍の創設
皇帝オスマン2世は新しい軍の創設を決めました。新しい軍はアナトリア側で編成することにして、その準備のためにメッカ巡礼を口実にユスキュダルに向かいました。キョセムたちは師父オメルら側近がオスマンを惑わしているとして排除を決意します。
反乱
新しい軍の創設の情報を手に入れた宰相ダヴドは軍の隊長マンスールにオスマンの計画を漏らしてしまいます。自分たちは見捨てられたと思ったイェニチェリたちはついに反乱を起こしました。イスラム長老も兵士たちを支持。兵士たちは暴徒化して街で暴れています。反乱を知ったオスマン2世は宮殿に戻ろうとするのですが。
反乱を知った女官長ジェンネトはビュルビュル・アガとともに皇子たちを安全な場所に避難させようとトプカプ宮殿を出て旧宮殿に向かうのですが、皇女ディルルバに妨害されてしまいます。
感想と解説
ドラマで描かれるようにオスマン2世がイェニチェリの代わりに新しい軍の創設を決めたと言われることがあるのですが。歴史上はオスマンに敵対する勢力が流したデマでした。
オスマン2世は軍の綱紀粛正を行ったり不正な給与の支払いは止めました。でも新しい軍の創設は決めていません。アナトリア側に渡ったのは反乱を鎮圧するためです。高官たちに地方の反乱のために皇帝が遠征する必要はないと言われてしまいます。そこでメッカ巡礼を口実にアナトリアに渡ろうとしました。純粋に過去のどの皇帝も行っていなメッカ巡礼をして権威を高めたい。というのもあったようです。
でもムスタファ支持派が「皇帝は新しい軍を作ってイェニチェリを廃止しようとしている」と偽の情報を流して兵士たちに反乱を起こさせたのです。
オスマン派とムスタファ派の駆け引きがあって、ムスタファ派が上手(うわて)だったのは本当のようです。
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