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アーキレ・ハニム はオスマン2世と結婚した名家出身のイスラム教徒

オスマン帝国国旗

アーキレ・ハニムは17世紀のオスマン帝国の女性。

アーキレ・ハトゥンともよばれます。

オスマン帝国第16代皇帝 オスマン2世の妻です。

アーキレ・ハトゥンの父はムフティー(地位の高いイスラム法学者)。母型の祖父もムフティー。イスラム社会では家柄の高い家に生まれた女性でした。

オスマン帝国の皇帝は伝統的にイスラム教徒の自由人とは結婚しないのが慣習でした。結婚相手はハレムの中にいる人、奴隷身分の人、他国から来た人です。

自由人とは奴隷身分でない人、イスラム法のもとに権利を認められている一般人、オスマン帝国国民です。

ところがオスマン2世はその慣習を破りました。

でもアキレ・ハトゥンとオスマン2世の結婚生活は短いものでした。

アキレ・ハトゥンについて紹介します。

 

目次

アーキレ・ハニムの史実

名前:アキレ・ハトゥン(Akile Rukiyye Hatun

国:オスマン帝国
地位:
生年:1607年
没年:不明
父:ホカザーデ・エサド・エフェンディ
母:ボスタンザデ・メフメド・エフェンディの娘
夫:オスマン2世

イスラム教徒の名家の出身

父はイスラム長老ホカザーデ・エサド・エフェンディ。当時のオスマン帝国でもとくに尊敬されるムフティー(高位のイスラム法学者)でした。

母はボスタンザデ・メフメド・エフェンディの娘
ボスタンザデ・メフメド・エフェンディもムフティー(高位のイスラム法学者)です。

両親ともにイスラム教徒の自由人(奴隷階級ではない臣民)です。

 

オスマン2世から求婚される

歴代のオスマン帝国皇帝は代々名門貴族との婚姻を避け。ハレム内の奴隷階級の女性と結婚していました。母方の家系が力を持つのを避けるためです。

ところが。

1622年。オスマン2世は自由人のアキレ・ハトゥンとの結婚を望みました。

オスマン2世とアキレがどのように知り合ったのかはわかりません。

当初、エサド・エフェンディはそのような結婚はオスマン帝国の伝統を壊すと考え、娘と皇帝の結婚を断りました。

ジュスティニアン宰相はオスマン2世が臣下に相談せず独断で決めたことを批判。民衆が皇帝を気まぐれて未熟な人物と評価していると指摘。

高官たちは皇帝とムフティーの娘との結婚が、朝廷内の権力のバランスを壊すと心配していました。皇帝の義父になったエサド・エフェンディの影響力が強まって、彼らが権力を持つのを恐れたのです。

結局エサド・エフェンディは皇帝の要求を断りきれず皇帝とアキレの結婚を認めました。

結婚の持参金としてオスマン2世は60万枚の金貨を新しい義父エサド・エフェンディに贈りました。

わずか2ヶ月の結婚生活

1622年3月19日。エスキサライで花火が打ち上げられ、結婚が祝われました。

オスマンが亡くなるわずか数ヶ月前のことでした。

17世紀のウルマ伝の編纂者であるネヴィザデ・アタイは、エサド・エフェンディを「第二のエデ・バリ」と評しました。エデ・バリとは初代オスマン1世に助言を与えた人物です。

でもアキレとオスマン2世の結婚はエサド・エフェンディとオスマン2世の関係を冷え込ませました。

高貴な生まれのムスリム女性はオスマン王家の皇帝と法的な結婚はしないのはオスマン王家の伝統でした。

熱心なイスラム法学者のエサド・エフェンディにとってはオスマン2世の行いは伝統を壊す行いです。熱心なイスラム法学者のエサド・エフェンディにとって、オスマン2世の行いは伝統を壊す行いに思えたのです。

またイスラム教徒の民衆にとってもオスマン2世の行いは異常なできごとでした。

でもオスマン帝国の記録では、アキレ・ハトゥンはオスマン2世と結婚したものの。ハレムにはいなかったようです。やはりイスラム教徒の自由人がハレムで暮らすことには抵抗があったのかもしれません。

しかし1622年5月20日。反乱が起きてオスマン2世は捕らえられ処刑されました。

夫を失ったアキレ・ハトゥンは1627年にオスマン帝国の有名な学者、詩人、書家であったガニザーデ・ナディリ・エフェンディと結婚。一般人として暮らしました。

その後のアキレ・ハトゥンの人生はわかりません。

 

 

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