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狂女フアナ 精神を病んだカスティーリャ女王

スペイン帝国

王女フアナはカスティーリャ女王イサベルの娘。

精神を病んでいたことから狂女フアナ(Juana la Loca)とも呼ばれます。

フアナは母イサベル1世の死後、カスティーリャの女王になります。

しかし母との確実、父や夫、さらには息子彼らをとりまく貴族や人々の思惑に翻弄され。狂人にされてしまいます。

病みながらも王位への執着は最期まで衰えませんでした。

カスティーリャの王女フアナについて紹介します。

目次

王女フアナの史実

名前:フアナ(Juana)
地位:カスティーリャ王女
生年:1479年11月6日
没年:1555年4月12日)
父:フェルナンド2世(アラゴン王)
母:イサベル1世(カスティーリャ女王)
夫:フィリップ(美公)
子供:レオノール、カルロス、イサベル、フェルナンド、マリア、カタリナ

日本では室町時代。日野富子(1440~1496年)と同じか若干あとの時代です。

 フアナの生涯

1479年。フアナが生まれました。

母はカスティーリャ女王イサベル1世

フェルナンドはアラゴンの王子でした。1479年にアラゴン王になりました。

フアナが生まれた年、両親がともに国王になりカスティーリャ・アラゴン連合王国が誕生しました。

フアナはイサベルの次女でした。

幼い頃は読書好きで内気で一人で過ごすのが好きな少女でした。

母のイサベルは熱心な教育者で、当時最高の教育をしようと様々な分野の専門家をよんで子どもたちに教育を受けさせました。様々な楽器も学びダンスや音楽が得意。フランス語とラテン語を流暢に話しました。

カトリック信仰への反発

ところが1495年ごろまでにフアナはカトリック信仰に疑問をもつようになりました。キリスト教の礼拝や儀式にも消極的な態度をみせはじめました。

フェルナンドとイサベルは1478年にスペイン国内で異端尋問を行う権限をローマ教会に認めさせました。カトリックに改宗しない人(主にユダヤ人)を容赦なく処分していました。王宮には異教徒に対して火炙り、鞭打ち、拷問をしたという情報が集まります。神の教えを広めるためにやったこととして美化されました。「真の教えを広めるためなら火炙りも許される」というのがイサベルの考えでした。

王室の一員であるフアナもそのような話は聞かされます。教養の高かったフアナが両親の行うことや信仰に疑問をもってもおかしくありません。

それだけに王室の一員がカトリック信仰にあまり熱心ではないのは問題です。

カトリックの熱心な信者だったイサベル1世は娘の態度に驚きます。イサベル1世は娘がカトリックに熱心でないと人々に知られないように秘密にしました。それだけではありません。イサベルはフアナに体罰を行ってイサベルの信仰を強制しました。フアナは母イサベルを恐れるようになります。

フィリップ美公と結婚

1496年。ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世の長男フィリップと結婚しました。

フイリップは美男子だったため美公、端麗公とも呼ばれます。

フアナは従者とともにネーデルラントに到着しました。しかし夫になるはずのフイリップは出迎えなかったのでがっかりしました。

婚礼の前日2人は初めて会いました。フアナは美男子のフィリップが大変気に入りました。フィリップもフアナを気に入りました。彼女の希望で2人は質素な結婚式を行いました。新婚時代は二人の仲は大変よいものでした。2人の間には2男4女が生まれます。

しかしフィリップが浮気をしたためフアナが激怒。フアナはひと目をはばからずフィリップや相手の女に怒りました。このころのフアナは情緒は不安定になっていたといわれます。

フイリップは次第にフアナへの愛情が冷めていきますが不仲というわけでもなく、フアナは熱烈にフィリップを愛していました。

結婚後も続く母との確執

1497年。イサベルは娘フアナのもとにサンタ・クルス修道院の副修道士トマス・デ・マティエンソを派遣。フアナの生活について調べさせ、もし間違った信仰をしていたら正すように指示しました。

修道士トマスはフアナが以前よりも元気そうなのを見て安心しました。ところがフアナは母へ一言も手紙を書こうとしません。母に対してよい感情はもってなかったようです。

かつてフアナ家庭教師をしていたアンドレアス修道士もフアナに手紙を書くように手紙を送りましたが、フアナは返事はひとつも書きませんでした。

イサベルのもとにいる宗教関係者はフアナには信仰心がない。フランスの酔っ払った神学者の影響を受けている。と批判しました。当時はルターの宗教改革の少し前、ローマ教会とは違う考えの人々も出始めていました。イサベルに仕える宗教関係者はそうした異端者の影響があると考えたようです。

カスティーリャの王位後継者に

ところが兄フアン、姉イサベルが死亡。兄や姉が他界したのでフアナはカスティーリャの王位継承者・プリンセスオブアストゥリアスになりました。

イサベルにとって、フアナはスペイン王室の者なら守るべき「真の信仰」を守ろうとしないように思えます。すでに病になっているイサベルは自分の教えに逆らっているフアナが後継者になるのは嫌でした。

イサベルとフェルナンドはフアナの女王即位を阻止する動きに出ました。そこで娘が女王としての能力がない場合はフェルナンドが後見人になる。という決まりをコルテス(貴族・聖職者・都市代表で作るスペインの議会)で決定しました。

このころにはスペイン王室だけでなく有力者の間にもフアナはおかしくなってるんじゃないか?という噂が広まりつつあったようです。

1501年。フアナは夫フィリップとともにカスティーリャに戻りました。

フィリップはフアナが手にするはずの遺産を狙っていました。フアナが女王の役目を果たせないと言うなら、父フェルナンドではなく夫のフィリップに権利があると主張しました。

しかしフィリップは意見が合わずネーデルラントに帰ってしまいます。

一人残されたフアナは異端者にされてしまいます。体調をくずしたフアナは子供の養育はできなくなり兄弟に育ててもらいました。フアナはいったんネーデルランドに戻りました。

カスティーリャ女王になる

1504年。イサベルが死去。

フアナはカスティーリャの女王になりました。しかし当時はネーデルラントにいたのでカスティーリャの政治は父フェルナンドが摂政になって行っていました。

フィリップはイサベルの遺言を知って激怒します。フアナを脅したりなだめたりして王位継承を諦めるように要求しましたがフアナは認めませんでした。

1505年。フェルナンドはジェルメーヌ・ド・フォワと結婚。自分の血筋をアラゴンの王位後継者にしたかったので再婚を急いだのでした。

父と夫が共謀して狂人にされてしまう

1506年1月。フアナとフィリップはカスティーリャに向かうため船で旅立ちます。ところが嵐にあいイングランドに流れ着きました。イングランド王ヘンリー7世はフアナとフィリップを歓迎しました。フィリップとヘンリー7世は会談を行い政治や軍事で協力すると約束しました。

4月。フアナとフィリップはドイツの傭兵を伴ってカスティーリャに上陸。フィリップは武力を使ってでも自分が王になるつもりでした。

6月。フェルナンドとフィリップが会談を行い、ひとまずフアナを正式に女王として即位させることに合意しました。そしてフアナが「病弱と苦しみのため良識な判断ができない」と宣言。形だけの女王にされてしまいます。

フェルナンドとフィリップはどちらが政治を行うかで争いました。

フェルナンドはフィリップに摂政の地位を与えると約束しましたが、フィリップは国王になってフアナと共同統治を主張しました。議会はフィリップの要求を認めませんでした。

9月。フィリップが急死。フィリップは毒殺されたと噂されましたが今となっては真偽はわかりません。

フィリップの遺体はグラナダに埋葬されることになりましたが、埋葬施設はすぐにはできません。しばらくブルゴスで安置されていました。

夫の死亡後、監禁される

フィリップの死亡後、フアナは父フェルナンドの監視下におかれました。

すでに1506年にはフェルナンドと貴族達はフアナをどこかに監禁しようと相談していたと言います。

それでもフアナはカスティーリャの女王です。莫大な財産もあります。各国の有力者から再婚の申し出がありました。

ところがフェルナンドは「娘は亡き夫の遺体をとともに旅をしている。可愛そうなフアナ」と返事を書き。フアナが狂っていると広めました。

夫の死を受け入れられず痛いとともに放浪する女王、は人々の好奇心を刺激して様々な芸術作品や物語の題材になりました。でもフェルナンドが広めた話が出どころでした。

1507年。イングランド王ヘンリー7世から再婚話がきます。しかし話がまとまらないままヘンリー7世が死亡しました。

1508年。フアナは父フェルナンドによってブルゴスからサンタ・クララ修道院のとなりにあるトルデシリャス城館に移動させられました。

フアナの護送は夜に行われ、フアナとともにフィリップの遺体を入れた棺も一緒に運ばれてきました。

というのもフィリップの遺体はグラナダで埋葬する予定になっていましたが、トルデシリャスはその中間にあります。フアナの護送部隊にフィリップの棺を運ばせれば費用が節約できます。そしてグラナダの埋葬施設が完成するまでフィリップの棺はトルデシリャスに安置されました。

夜に女王が棺とともに運ばれている様子は人々に強い印象を残しました。フアナが夫の遺体とともに放浪している。という噂は現実のものとして人々に受け止められました。

フアナは人々から狂女(La Loca)と呼ばれました。

トルデシリャス城館での生活の間。フアナはフェルナンドの部下デニア侯爵の監視下におかれました。

フアナはデニア侯爵によって「ラ・クエルダ」という吊り下げ拷問にかけられることもありました。足にオモリを付けて吊り下げるのです。この拷問は当時スペインで普通に行われていました。ひどい場合には手足が脱臼したり骨折したりするそうです。さすがに王妃ですから怪我するほどひどい拷問ではなかったようですが、吊り下げはおこなわれていたようです。

デニア侯爵は、拷問は「神への奉仕で、女王の母イサベルも行っていた」と主張していました。

フェルナンドが生きている間、フアナは外の世界とは隔離された生活をおくっていました。

息子カルロスがスペイン国王に

1516年。摂政をしていた父フェルナンドが死去。

でもフアナには知らされませんでした。デニア侯爵はフアナにフェルナンドはまだ生きていると伝えていました。

現実には、長男カルロスがカスティーリャとアラゴンを統一したスペイン国王カルロス1世として統治をはじめます。カルロスはハプスブルク家の血筋も引いていたので後に神聖ローマ帝国皇帝カール5世としても即位しました。神聖ローマ帝国(ドイツ)・ネーデルランド・スペイン・イタリアを支配下に持つハプスブルグ帝国の誕生です。

しかしカルロス1世の時代も監禁は続きました。

長引く軟禁でフアナの健康状態は悪くなっていました。フアナは食事や睡眠が不規則になり。宗教儀式への参加も拒否、聖体拝領(ミサのときイエスの血肉とされるぶどう酒とパンを食べること)を拒否しました。また司祭なしで告白を希望するなど司祭を手こずらせました。

フアナは告白はするつもりがあるので神への信仰はあったのでしょう。ローマ教会の決めた儀式がくだらないと思っているだけかも知れませんが、こうした行いもフアナが狂ってると言われる原因になったかも知れません。

コムネロスの反乱で担がれそうになる

1520年。資金難のカルロス1世はスペインから御用金を集めました。そのためスペインの都市が反乱を起こしました。コムネロスの反乱といいます。コムネロスとは都市住民という意味です。

コムネロスはトルデシリャスに集まりフアナを国家元首と認め、カルロス1世の統治に反対しました。

反乱軍にはルターの影響を受けた宗教改革派の人たちもいました。彼らからみれば、伝統的なカトリック信者から異端者扱いをうけているフアナなら自分たちを理解してくれるに違いない。という思惑もあったようです。

その間、フアナは久しぶりに自由になりました。この間、フアナに会ったコムネロスの人々は「フアナは狂人ではない、女王としての役目を果たせる」と確信しました。そしてコムネロスに正当性を与える布告書に署名するよう要求しました。

アドリアン枢機卿は使者を派遣してフアナに反乱軍に味方しないように、布告に署名しないように伝えました。フアナが反乱軍に正当性を与えれば国を二分して息子と戦うことになり国は混乱します。

反乱軍に占領されてもアドリアン枢機卿との連絡は密かに続けられました。

フアナはアドリアン枢機卿を信頼できる人物と思っていましたが、彼らは自分たちの地位が失われるが嫌なだけで、フアナの息子への愛を利用しただけでした。

結局、フアナはコムネロスを信じず、アドリアン枢機卿を信じました。

自分が権力を手にする機会はあったにも関わらず、息子を気遣う気持ちのほうが大きかったのです。そして彼女もまた王族育ち。反乱を起こした野蛮な市民の言うことより、貴族階級の言うことを信じたのです。

1521年4月。コムネロスの反乱はカルロス1世の派遣した軍によって鎮圧されました。

再び監禁

反乱が鎮圧されてフアナは解放されると思いました。

ところが反乱を鎮圧したカルロス1世と貴族たちはまたフアナを監禁しました。

フアナは解放される機会を自分で潰してしまったのです。

カルロス1世や、伝統的なカトリックを信じている貴族たちもフアナを監禁し続けるためには「フアナは狂っている」とするのが都合が良いと判断しました。

確かにフアナは以前よりも怒りっぽくなりました。侍女を殺したいと言うこともありましたし、八つ当たりしたりすることもありました。生活も不規則になり、病気がちになります。

フアナとしては息子に味方したのに裏切られた想いだったかも知れません。しかしフアナは体調を壊しながらもカスティーリャ女王の地位への執着は失わず、譲位は認めませんでした。息子へのささやかな抵抗かも知れません。

形の上ではフアナとカルロスの共同統治となっていました。書類にはフアナとカルロス1世の署名が必要でした。

それでもカルロス1世は母親を心配し、遠征から戻るたびに母親を見舞いました。

1555年。フアナが死去。享年75。

フアナは最期まで強烈な意思で女王の座にこだわり続けました。意思の強さは母親譲りだったようです。

フアナは夫との関係ではひどく落ち込んだり、信仰への態度から周囲から異端者扱いされることもありました。晩年には心身ともに病んでいたようです。気難しい頑固なおばあさん、だったかも知れませんが「狂女」といえるほど狂っていたかは疑問です。

狂女伝説の多くは作られたものだったようです。

権力を手にしようとする男たちによって狂女にされてしまったのかも知れません。

フアナの登場するドラマ

イサベル・波乱のスペイン女王 2012年、スペイン
フアナ・狂乱のスペイン女王 2016年、スペイン
カルロス・聖なる帝国の覇者 2015年、スペイン

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コメント

コメント一覧 (4件)

  • 最近ファナ女王のことを知り、調べている内にこちらのページに辿り着きました。
    ファナがカトリックに疑問を持ったと記載されていますが、
    その理由や出来事、背景、出典参考とした書籍などあれば教えて頂けると幸いです。

    • 母イサベルは非常に厳しい教育を娘にしたと言われます。
      また、フアナの両親は異端尋問の名で多くの非キリスト教徒を処刑しました。
      フアナ自身は知的な女性だったようです。神の教えとは正反対の残虐な行為に疑問を持っても不思議ではありません。
      母親や聖職者への反発や不信感がカトリック信仰に不熱心な態度に現われたのでしょう。

      参考にしたのは海外の文献ですね。いくつか紹介します。
      英語やスペイン語ですが機械翻訳でもある程度意味はわかると思います。

      https://archive.org/details/bub_gb_9q8MAQAAIAAJ

      http://arteysociedad.blogs.uva.es/files/2012/09/26-BOADA.pdf

      他にも英語圏のサイトを「Joanna of Castile」で検索するとそのような記事がいくつか出てきます。

  • フアナ王女を敬虔なカトリック教徒であったとして紹介されている方が多くいらっしゃる一方で、少ないながらも彼女がカトリックに対して懐疑的だったとする説を紹介していらっしゃる方も見受けられました。

    私もどちらかと言うと後者の説がより納得出来ると思っていたので、今回思い切って質問して本当に良かったです。

    ご回答、参考文献のご紹介、誠にありがとうございました。

    • 確かに日本ではカトリックに熱心だったと書いてあるものが多いですね。
      海外では懐疑的だったと書いている人が多いようです。
      参考になって嬉しく思います。

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