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ヘファイスティオン・アレクサンドロスの盟友は苦労の多い裏方だった

マケドニア

ヘファイスティオンは古代ギリシャのマケドニア王国の武将。

アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の友人でもあり、彼を支える有能な軍人でした。

ヘパイスティオンとも書きます。

ところがペルシャ遠征の記録はあまり多くありません。ヘファイスティオンはアレクサンドロスを守る護衛だったので、前線で軍を指揮することが少なかったせいと考えられます。アレクサンドロスには武勇伝が多いですが、王がそれだけ戦場で戦えるのも護衛役がしっかりしていたからともいえます。

他にも外交や輸送、工兵など様々な分野で活躍しました。むしろヘファイスティオンは戦いよりも頭や技術を使った仕事で活躍したと言えるかもしれません。

ヘファイスティオンについて紹介します。

目次

ヘファイスティオンの史実

名前:ヘファイスティオン(Hephaistíon)
国:マケドニア
地位:
生年:356年ごろ?
没年:紀元前324年
父:アミュンタス
母:
妻:ドルペティス

日本では弥生時代の人です。

 

マケドニアの首都・ペラの出身。
父のアミュンタスはマケドニアの貴族。

生年はわかりません。アレクサンドロス(紀元前356年生)とあまり変わらないと考えられています。

顔は美形でしたが。ただの顔のいい貴族ではなく、アレクサンドロスよりも背が高くて体格がよく、武勇にも優れていました。

子供の頃からアレクサンドロスの親友でした。

当時の貴族の息子たちは思春期くらいの年齢になるまではペイジ(小姓)をしていました。自分より上の貴族や宮廷に仕えて雑用をしたりマナー、馬術、戦いの稽古をするのが当たり前でした。ヘファイスティオンも王族に仕えてアレクサンドロスと出会ったと考えられます。

アレクサンドロスはアリストテレスのもとで勉強していました。そのときヘファイスティオンも一緒にいて教育をうけていました。

紀元前336年。アレクサンドロスがマケドニア王に即位すると、側近護衛官になりました。

ペルシャ遠征

紀元前334年。アレクサンドロスはペルシャ遠征を開始。

アレクサンドロスと間違われる

紀元前333年。イソッソス(トルコ南部)の戦いの後。ペルシャ王ダレイオス3世の母と妃が捕虜になりました。アレクサンドロスとヘファイスティオンはダレイオス3世の母シシュガンビスのもとを訪ねました。シシュガンビスはどちらがマケドニアの王か分からずに背の高いヘファイスティオンにひざまづいてしまいました。でもアレクサンドロスは「気にしないでください。あなたは間違っていない。この男もまたアレクサンドロスなのです」と笑って、怒らなかったといいます。

ヘファイスティオンは外交使節としても活動しました。

アレクサンドロスはフェニキアの都市シドン(レバノン南部の街サイダ)を制圧した後。ヘファイスティオンにシドンの新しい王を選ぶよう支持しました。ヘファイスティオンは新しい王を選びました。

艦隊を指揮

紀元前332年。アレクサンドロスは艦隊をヘファイスティオンに任せガザに向かうよう命令しました。アレクサンドロスは陸路でエジプトに向かいました。

ヘファイスティオンは艦隊を率いてフェニキア沿岸を進みました。

ところが艦隊は同盟国から参加した寄せ集め。嫌々参加している船もあります。忍耐強くまとめなければいけませんでした。ガザに到着後、荷物や攻城兵器を船から降ろして運びにくい陸路を使って輸送して現地で組み立てなければいけませんでした。

護衛として戦って負傷

エジプト制圧後。アレクサンドロスはペルシアとの戦いに挑みました。

紀元前331年。ガウガメラ(イラク北部)の戦いではヘファイスティオンは他の将校とともにアレクサンドロスの側近護衛官として参戦。左翼のパルメニオンの部隊を助け戦いました。激しい戦いになり腕を槍で貫かれ、重傷を負いました。

フィロタスを暗殺未遂で処刑

紀元前330年。アレクサンドロスの暗殺未遂事件が起こりました。容疑者として名前があがったのは上級役員のフィロタスです。将校たちの多くは即時処刑を主張しましたが。ヘファイスティオンはクレイタス、コエヌスとともにフィロタスを掟通りに拷問にかけることを主張。フィロタスを拷問にかけて自白させたあと処刑しました。

フィロタスは有能な将軍でしたが。日頃からアレクサンドロスに反抗的で、マケドニアから遠い場所への遠征には反対していました。

そのため歴史家はフィロタスは排除されたのではないかと考える人もいます。

フィロタスはヘタイロイ(重騎兵隊)の司令官を務めていました。フィロタスの死後、ヘファイスティオンはクレイタスがヘタイロイの共同司令官になりました。

インド攻略

紀元前327年。アレクサンドロスの軍はインド遠征を開始。

ヘファイスティオンはペルディッカスとともに本体より先にインドに行き、軍がインダス川を渡るための準備をしました。具体的な方法はわかりませんが橋を建設するか船を用意するかしたようです。

紀元前326年。ヘファイスティオンはアレクサンドロスの本体に合流。ヒュダスペス河畔でマケドニア軍とパウラヴァのポロス王の軍が戦いになりました。

ヘファイスティオンは騎兵隊と200頭の象を含む軍団を任されました。ギリシャ軍の半分がヘファイスティオンの指揮下に入りました。

戦いはマケドニア軍が勝利。ポロス王は降伏しました。

その後。ヘファイスティオンはパンジャブ東部の小ポロス(パウラヴァのポロスとは別人)を降伏させます。

兵士たちがそれ以上の戦いを拒否したのでアレクサンドロスはインドから撤退を決意。インダス川を使って軍を南下させました。ヘファイスティオンは陸路で移動しました。その後、シンド南部の住民が逃げて空になった港町パタラを占領。要塞を強化しました。造船所を建設して船を修理します。

都市の建設も行いました。ヘファイスティオンは直接の戦闘に加え輸送や工兵部隊のような裏方の役目を担当することも多かったようです。

紀元前325~4年。遠征軍を海路でペルシャに送り出すと。ヘファイスティオンはアレクサンドロスとともに陸路でペルシャに戻りました。

その後。ヘファイスティオンはキリアルケス(宰相)になりました。

ギリシャとペルシャとの融和をすすめる

ガウガメラの戦いの後。アレクサンドロスがバビロンにいたとき。現地の貴族の娘が踊り子として踊らされているのに気が付きました。翌日アレクサンドロスはヘファイスティオンに命令して捕虜を連れてこさせ、家系を調べさせました。かつての敵であっても高貴な身分の者はそれにふさわしい扱いを受けるようにさせます。そういった対策にはヘファイスティオンを頼りました。

また、ヘファイスティオンは率先してペルシャの服を着たりペルシャの祭りをギリシャ人に紹介。お互いの民族を理解させようとしました。

そのハイライトが紀元前324年。スーサで行われた合同結婚式です。

アレクサンドロスはペルシアの娘とギリシャの兵士たちを結婚させました。スーサの合同結婚式です。アレクサンドロスはペルシャの衣装を来て、現地の習慣に従って結婚式を行いました。アレクサンドロスはダレイオス3世の娘・バルシネ(スタティラ)と結婚。ヘファイスティオンはバルシネの妹・ドルペティスと結婚しました。

アレクサンドロスはペルシャ支配がうまくいくように、できるだけ現地の文化を尊重して反発が起きないようにしました。

現代人が考えるような友好ではなく、人口の多い支配地域の人びとを手懐けるための作戦です。

ところが遠征軍の幹部にもペルシャを野蛮な国だと思っているギリシャ人、勝った側がなぜ負けた側に合わせなければいけないのか?と思う人も多く。マケドニア至上主義を貫きペルシャの文化に馴染もうとしない者も多くいました。

アレクサンドロスの方針は不評でした。ヘファイスティオンのようにそれが理解できる人はまだ少なかったのです。

病で死亡・死後英雄神として祀られる

紀元前324年春。ヘファイスティオンはスーサを出発、アレクサンドロスや軍とともにエクバタナに向かいました。

秋。エクバタナにいたヘファイスティオンは熱病にかかります。7日間の熱がつづいたあと病死しました。

ヘファイスティオンの遺体は火葬され、灰はバビロンに運ばれました。

アレクサンドロスは悲しみに打ちひしがれます。誤診の罪で医師を処刑。自身も三日間、食事もとらず衣服も整えずにひきこもりました。

使者がシワ・オアシス(エジプトとリビアの中間にあるオアシス)のオラクル(巫女)のもとに派遣され、神ゼウス・アメン(ギリシャの主神ゼウスとエジプトの主神アメン・ラーが集合した神)がヘファイスティオンを神として祀るのを許すか尋ねさせました。オラクルの返事は「神の戦士として祀ることはできる」というものでした。アレクサンドロスは喜んでファイスティオンを英雄として祀る神殿を建てさせました。

ヘファイスティオンに対するアレクサンドロスの信頼は普通ではありませんでした。一部では同性愛説も囁かれるほどです。当時のギリシャでは同性愛はタブーでした。今となっては確かめようはありませんが、そのくらい信頼が大きかったということでしょう。

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