ギュルフェム・ハトゥンはオスマン帝国皇帝スレイマン1世の2人目の愛妾。
スレイマンの妻とか皇帝妃と紹介されることがありますが、法的な結婚はしていません。ハレムの一員でした。カドゥン(Kadin)という地位にあって事実上の妻として扱われていたようです。日本語では夫人や皇帝妃と訳されることが多いです。
ギュルフェム(Gülfem)はハレムでの名前。「バラのような」という意味です。
本名はロサリンダ(Rosalinda)だったといわれます。
ハトゥン(hatun)は名前の後につく敬称。◯◯夫人のような意味です。16世紀以降はスルタンという称号が使われるようになったため、ギュルフェムより後の時代には皇帝妃でハトゥンと呼ばれる人はいません。
マヒデブランやヒュッレムよりも年上。スレイマンのハレムには早くからいる人ですが息子のいる女性の方が地位が高いため、マヒデブラン、ヒュッレム(後に皇后へ昇進)に次ぐ第三夫人の地位にあったといわれます。それでもハレムの中では高い地位にあることにはかわりません。ハレムを仕切る家令あるいは執事のような役目をしていたともいわれます。
ギュルフェム・ハトゥンについて紹介します。
ギュルフェム・ハトゥン
名前:ギュルフェム(Gülfem)
地位:オスマン帝国皇帝夫人(カドゥン:Kadin)
別名:(SicilyalıRosalina)、PolonyalıRosalina
本名:ロサリンダ(Rosalinda)あるいはロサリナ(Rosalina)、アイシャ(Aisha)
生年:1492か1497年
没年:1561か1562年
父:アブドルラーマン(Abdurrahman)
母:不明
夫:スレイマン1世
子供:
息子
マフムード(Mahmud)?
ムラード(Murad)
ギュルフェムがハレムに来るまでのいきさつはよくわかっていません。出身地についてもシチリアやポーランドなどいくつかの説があります。ギュルフェムの父はキリスト教徒でしたがイスラム教に改宗したといわれます。
1511年。スレイマンのハレム(後宮)に来ました。スレイマンの二人目の夫人(Kadin)でした。
ちなみに3人めの夫人がマヒデブラン、4人目がヒュッレムです。
1512年。スレイマンの最初の息子マフムード王子が産まれます。マフムードの母親はよく分かっていませんが、ギュルフェムが母親だともいわれています。ただしマフムードの母は名前の伝わっていない一人目の愛妾の可能性が高いです。
1519年。スレイマンとの間にムラード王子が産まれます。
1521年。ムラード王子とマフムード王子が天然痘で死亡しました。
1522年。噴水を建てました。
1524年。マニサに噴水を建てました。
1542年。ユスキュダルに人々にスープを配るための施設を作りました。
1543年。イスタンブル州ユスキュダル地区に女性用のモスクを建設開始しました。先に作った食堂と隣接しており、学校や墓地など様々な施設が集まった福祉施設のような役目をもっていたと考えられます。彼女の死後1961年に完成しました。
最初は女性のためのモスクとして造りましたが、現在では男性も参拝可能です。現在「ギュルフェム・ハトゥン・モスク」として知られています。
イスラム教では裕福な人は貧しい人を助けなければいけないという教えがあるため。王族は公共用の施設を建てることがありました。
ハレムの管理人
皇子を産みましたが早くに亡くなり、マヒデブランやヒュッレムのような寵愛は受けられなかったようです。
でもギュルフェム・ハトゥンはハレムの中では高い地位にいました。ハレムを取り仕切る家令のような役目を持っていました。執事といった方がわかりやすいかもしれません。家令はハレムの物や財産を管理する約目です。
ドラマ「オスマン帝国外伝シーズン2」でギュルフェムが出納官に任命されたのもそうした史実があったからです。
ギュルフェムの死についての伝説
1561年か1562年に死亡しました。自分が立てたモスクに埋葬され「殉教者」と書かれています。死因はよく分かっていません。
ギュルフェムについてこんな伝説があります。
あるとき、ギュルフェムはモスクを建てようと考えました。でも彼女には充分なお金がなかったので、他の側女からお金を借りようとしました。でも彼女たちはギュルフェムがスレイマンから気に入られていたのに嫉妬してお金を貸しませんでした。ある側女がギュルフェムの代わりにスレイマンの夜伽の相手をできるならお金を貸してもいいと言いました。ギュルフェムはその条件を認めます。ところがギュルフェムの代わりに寝室にやって来た側女を見てスレイマンは激怒。スレイマンは兵に命じてギュルフェムを処刑しました。翌日、ギュルフェムの遺体は宮殿を後にしました。そしてその年。ギュルフェムの建てたモスクは完了し、モスクに葬られました。
ところが。この話は作り話のようです。
ギュルフェムがモスクを造り、死後自分のモスクに葬られたのは事実です。ですがギュルフェムはモスクを建てるだけの十分なお金を持っていました。ギュルフェムが死亡したのは60~70歳の間ですのでスレイマンの夜伽をするような歳ではありません。
ギュルフェムがイスタンブルのユスキュダルに建設していたモスクが完成したのはギュルフェムの死後。そしてそのモスクにギュルフェムが埋葬されたことからつくられた噂話なのです。そのモスクがギュルフェムハトンモスクです。
トルコのテレビドラマ「オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム」では一人目の皇帝妃として登場。皇女ハティジェの相談相手となり、ハティジェとイブラハムの仲をとりもちました。
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