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グラツィア・メンデス・ナスィ|ユダヤ人保護に生涯をかけた大商人

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グラツィア・メンデス・ナスィはユダヤの商人。

彼女はヨーロッパと地中海で貿易や金融活動を行う大商人でした。

事業で成功すると、ヨーロッパ各地で迫害を受けるユダヤ人の保護活動を行いました。

ヨーロッパで吹き荒れる異端尋問から何百人ものユダヤ人を救いました。

そしてオスマン帝国と契約して土地を借り受けユダヤ人入植地を作ります。

ヨーロッパを代表する商人でありながら、イスラエル再興運動にも貢献したグラシア・メンデス・ナスィを紹介します。

目次

グラツィア・メンデス・ナスィの史実

名前:グラシア・メンデス・ナシ(Gracia Mendes Nasi)
キリスト教名:ベアトリス・デ・ルナ(Beatrice de Luna)
生年:1510
没年:1569年
父:アルバロ・デ・ルナ
母:フィリップ(ファ)・メンデス・ベンベニステ
子供:アナ

甥:ヨセフ・ナスィ

グラシア・メンデス・ナシはユダヤ人。グラシアが生まれる前。一族のひとたちはスペインのアラゴンで暮らしていました。

1492年。カスティーリャ女王イザベラ1世とアラゴン王フェルディナンド2世がユダヤ人を追放したのでポルトガルに逃げてきました。

1497年。しかしポルトガルでは強制的にカトリックに改宗させられました。

彼らのようにユダヤ教からキリスト教に強制的に改宗させられた人たちをスペイン語でコンベルソ(converso)といいます。そのままキリスト教徒になる人もいましたが。

表向きはキリスト教徒として暮らしながら、ユダヤ教の信仰を捨てていない隠れユダヤ教徒のような人もいました。

隠れユダヤ教徒の家に産まれる

1510年。ポルトガルのリスボンで生まれました。

ベアトリス・デ・ルナというキリスト教名がつけられました。

1528年。ベアトリス・デ・ルナは、叔父で商人のフランシスコ・メンデスと結婚。夫もユダヤ人の名家出身です。

2人は表向きはカトリック式の結婚式を行いました。その後、密かにユダヤ式の結婚式も行いました。

彼女の一族も、表向きはカトリック教徒ですがユダヤ教の信仰を捨てていませんでした。

フランシスコ・メンデスと兄のディオゴはヨーロッパと地中海周辺に代理店を持つ貿易会社と金融業を営んでいました。胡椒や綿、銀も扱っていました。

ベアトリスが28歳のとき、夫フランシスコが死亡しました。

ベアトリスはエルサレムのオリーブ山に夫の遺体を移しました。

商人として有名になる

ベアトリスは子供とともに、夫の兄ディオゴを頼ってアントワープ(ベルギー)に移りました。その後、財産をディオゴの事業に投資。ディオゴのビジネスパートナーになりました。ベアトリスは女性実業家として有名になりました。

このころスペインやポルトガルで異端尋問が厳しくなっていました。キリスト教によるユダヤ人迫害が強くなっていたのも移住した理由の一つだったようです。

ベアトリスの妹ブリアンダとディオゴが結婚。デ・ルナ家とメンデス家は強い絆で結ばれました。

ところが、グラシアが移住して5年後にディオゴも死亡します。ベアトリスはディオゴの事業も受け継ぎました。ヨーロッパでも有数の大商人になりました。

彼女の財産を狙う王侯貴族はいましたが、彼女は資産没収をたくみに逃れました。

ユダヤ人保護活動

ベアトリスはその資金力を生かしてヨーロッパ各地で迫害を受けるユダヤ人を逃がす活動に協力しました。ユダヤ人保護をすることでグラシア自身も危険にさらされます。表向きはカトリック教徒として振る舞いながらユダヤ教を信仰し、ユダヤ人保護活動を続けていました。

ユダヤ人の移住を歓迎する国がありました。それがオスマン帝国でした。オスマン帝国はイスラム教の国ですが、税金さえ払えばユダヤ教徒でも暮らすことが許されていました。

ユダヤ教徒を迫害するキリスト教国よりも、オスマン帝国の方が異教徒に寛容だったのです。

ヴェネツィア移住

1544年。ベアトリスはヴェネツィアに移住しました。ヴェネツィアにもユダヤ人が隠れ住んでいました。

グラシアは表向きはキリスト教徒を装って商売を続けました。

ところが妹と遺産相続でトラブルになりました。そこでフェラーラ市の外国人問題法廷で相続問題を解決しようとしました。ベアトリスはフェラーラ市に移住します。

フェラーラ市はユダヤ人が暮らすことを正式に認めました。ベアトリスは表立ってユダヤ教を信仰することができました。グラシア・メンデス・ナスィというユダヤ式の名前も使いました。

しかし妹との土地争いはフェラーラ市の法定では解決しなかったのでヴェネツィアの法定まで行きました。そして遺産問題を解決しました。

イスタンブルに移住

1552年。グラシアとその娘アナ、スタッフ一同はオスマン帝国のイスタンブルに移住しました。

グラシアはイスタンブルのユダヤ人社会で指導者的な立場になりました。

1556年。ローマ教皇ピウス5世はユダヤ人を火炙りにして処刑しました。

グラシアは対抗して、ローマ教皇領のアンコーナ港に対して経済制裁を加えます。

ユダヤ復興運動に貢献

グラシアはイスタンブルでシナゴーク(ユダヤ教の礼拝使節)やイェシーバ(ユダヤ人の学校)を作りました。

1558年。オスマン帝国に収める税金を大幅に増やす代わりにガラリアのティベリア(現在のイスラエル・ティベリア市)の所有権を得ました。

オスマン帝国はガラリアを占領していましたがなかなか開拓が進んでいませんでした。グラシアの提案はオスマン帝国にとっても都合が良かったのです。

グラシアはオスマン帝国の力も借りながらティベリアに城壁を再建し、町を建設、学校を建設。開墾や貿易を産業にして、ヨーロッパ各地で異端尋問で迫害を受けるユダヤ人難民を受け入れました。

1569年。グラシア・メンデス・ナスィはイスタンブルで亡くなりました。

彼女の死後。世界各地で暮らす裕福なユダヤ人がイスラエルに経済援助を行うようになりました。

グラシア・メンデス・ナスィの活動は最初のシオニズム(イスラエルの地にユダヤ人の国を再建する活動)の最初のとりくみだといわれます。

グラシア・メンデス・ナスィ死後、彼女の名前は長い間忘れられていまいたが。現代になって「シオン運動家」「女性起業家」として注目を集めています。

 

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