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ガザンファー・アガ セリムとヌールバーヌを支えた従者

オスマン帝国国旗

ガザンファー・アガはオスマン帝国の小姓・宦官。

ベネチア出身。拉致されてイスタンブルにやってきました。

10代皇帝スレイマン1世の息子・セリム皇子の小姓として仕えました。

セリム2世が皇帝に即位すると宦官になってセリム2世のハレムを管理を任されました。

セリム2世の妃ヌールバーヌー・スルタンや、ムラト3世の妃サフェ・スルタンからも信頼されていました。

ガザンファー・アガとはどのような人物だったのか紹介します。

目次

ガザンファー・アガの史実

名前:Gazanfer(ガザンファー)
本名:不明

出身地:ベネチア
父:ジャコモ・ミシェル(Giacomo Michiel)
母:フランセジーニャ・ゾルジ・ミシェル(Franceshina Zorzi Michiel)
兄弟:カファー(Cafer )
妹:ベアトリス

ヴェネチア生まれ

彼はベネチアのキオッジャ市で生まれました。

ハンガリー出身とされることもありますが。父親がハンガリーで働いていたので誤解されて紹介されることがあります。ガザンファーの出身はベネチアです。

ガザンファーの父ベネチアの貴族ジャコモ・ミシェルの息子でした。父ジャコモ・ミシェルはベネチア州知事の書記をしていました。

1559年。ガザンファーは母・兄弟・姉妹と一緒に父親が働いているブダに向かう途中。彼はフランセジーニャ母親、兄弟、2人の姉妹と一緒に海賊に捕らえられました。その後、身代金を払って母親と姉妹は助け出されましたが。ガザンファーと弟はイスタンブルに連れて行かれました。

このときガザンファーは7~9歳だったといわれます。

ガザンファーと弟のカフェーは宮廷の学校(エンデルン)に入学。ガザンファー、もう一方はカフェーと名付けられました。ガザンファー、とカフェーという名前はこのとき名付けれたものです。

セリム皇子の小姓になる

1562年。セリム皇子はマニサからキュタヒヤに移動。

ガザンファーとカフェーはキュタヒヤのセリム皇子の宮殿に配属、小姓として仕えました。

キュタヒヤにいる間、ガザンファーと弟のカフェーはセリム皇子の小姓になって皇子の信頼をえました。皇子に仕えていた側近のララ・ムスタファ・パシャ、ムスタファ・アリとも親しくなりました。

このころガザンファーは10~13歳といわれます。

セリム2世の時代に宦官になる

1566年。スレイマン1世が死去。セリムが皇帝になりました。

セリムはキュタヒヤの宮殿を離れてトプカプ宮殿で暮らすことになりました。セリムはガザンファー兄弟をトプカプ宮殿のハレムにつれて行きたかったので、ガザンファーに宦官になるように言いました。ガザンファーと弟は宦官になってセリム2世のハレムに入りました。

ハレムではセリム皇子の妃ヌールバーヌーとも親しくなり、ヌールバーヌの協力で内廷宦官長になりました。

ムラト3世の時代

1574年。セリム2世が死去。ムラト3世が即位しました。

1584年ごろ。弟のカフェー・アガが死亡。

ガザンファー・アガは福祉事業を行うための財団を設立。弟のカフェー・アガを弔うためにモスクに寄付。そのお金でアヤ・ソフィアでコーランを読み上げ、詠唱会に集まった人にコインを配りました。

ガザンファーはさらにヌールバーヌに仕えました。

1587年にヌールバヌ・スルタンが死去。その後、ガザンファーはムラト3世の妃サフィエ・スルタンに仕えました。

家族との関係

ガザンファー・アガはオスマン帝国に囚われたあとも家族との連絡をとりました。

1582年には母親のフランセジーニャがイスタンブルにやってきてガザンファーに会いました。フランセジーニャはベネチアとオスマン帝国の関係を改善するために働きました。フランセジーニャはガザンファーにもベネチアの利益のために働くように言いましたが、ガザンファーは母の言うとおりにはせずとくにベネチアのためには働きませんでした。

でも家族の関係が壊れることはなかったようです。

ガザンファーはベアトリスという妹がいました。

ベアトリスはベネチアでアンジェロビアンキと結婚。夫の死別後再婚。ところが再婚相手とうまくいきませんでした。妹を心配したガザンファーはベアトリスをイスタンブルに来るように説得しました。1991年ベアトリスと彼女の子供はイスタンブルに来ました。

ベアトリスをイスラム教に改宗させ「ファトマ」という名前を与えました。ファトマ(ベアトリス)は見た目はイスラム教の姿をしていましたが、完全にはキリスト教の信仰は捨ててなかったようです。

ファトマ(ベアトリス)は1年ほどハレムで暮らした後、ガザンファーが建てた屋敷に移り住みました。ガザンファー・アガが紹介したイェニチェリの司令官アリ・アガと結婚しました。

ガザンファー・アガの最期

このころ国内では反乱が多発。

宮廷内でも大宰相とイスラム長老が対立。大宰相はイェニチェリ(常備歩兵)、イスラム長老は(常備騎兵)を味方にしていました。争いはついに武力衝突になりました。常備騎兵が勝ちましたが、彼らはメフメト3世の退位を要求。

疑心暗鬼になったメフメト3世は背後に皇子のマフムトがいると疑って処刑。側近も処刑しました。

このときガザンファー・アガは黒人宦官長と一緒に 、トプカプ宮殿の3番目の中庭の玄関口の入り口で処刑されました。その数カ月後。妹婿のアリ・アガも処刑されてしまいます。

妹のファトマ・ハトゥンは息子のメフメトは助けられ。イスタンブルで暮らしました。メフメトには皇帝から家が与えられています。

メフメトはムラト4世と親しくしていました。

 

ハレムにいる宦官は普通はあまり記録が残っていません。でもガザンファー・アガはかなり記録が残っています。ムラト3世以降はわりと記録が残すようになったこと。ガザンファー・アガは慈善事業を行う財団を作ったのでそこの記録が残っているためです。

噂話

オスマン帝国のハレムでは様々噂話があります。

ヌールバーヌは召使いの一人と関係があったとされ。その相手はガザンファーという話があります。息子のムラトは母とガザンファーの関係を知っていたというもの。

公式の記録にはない噂話です。

ドラマのガザンファー・アガ

TVドラマ
「オスマン帝国外伝シーズン4」トルコ、2013年

ガザンファーはヴェネツィア出身。セリム皇子に仕えました。史実よりも年齢設定が上。史実では小姓。ドラマでは侍従になっています。史実ではキュタヒヤ時代から仕えましたが、ドラマではマニサにいるときから仕えています。

ドラマ途中で、ガザンファーはヌールバヌに恋をします。ジャンフェダ・カルファはそれを知られてしまい忠告を受けますが。ガザンファーは諦めきれません。ヌールバヌが悲しんでいるときに彼女を助けます。

しかしヌールバーヌに告白したところをフリージハンに見られてしまいます。激怒したヌールバーヌはフリージハンを殺害。

その後、ある人物の命令でヌールバーヌーを殺害さるために刺客が送り込まれてきました。ガザンファーは刺客に襲われているヌールバーヌを助けました。

本当は女性のいるところに男が入るのは禁止なのですが、ヌールバーヌを救ったということで命は助かりましtあ。

ガザンファーはその後もヌールバーヌを助ける決意をします。ハレムに入るためには宦官にならないといけません。そこでガザンファーは去勢。宦官になってヌールバーヌーに仕えます。

「オスマン帝国外伝・キョセム」では名前だけ登場。
皇帝・メフメト3世の命令で処刑さた。と劇中で語られます。

 

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