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ファーリエ皇女|ムラト3世とサフィエの娘とは?

オスマン帝国国旗

ファーリエ・スルタンは17世紀のオスマン帝国の皇女。

12代皇帝 ムラト3世とサフィエ・スルタンの娘です。

ファーリエ・スルタンは少なくとも2度結婚しています。

ドラマ「新・オスマン帝国外伝 影の女帝キョセム」にも皇女ファーリエとして登場。クリミアハン国の王子メフメト・ギライと恋仲の設定ですが、後にデルヴィーシュと結婚します。

史実のファーリエ・スルタンはどのような人なのか紹介します。

 

目次

ファーリエ・スルタンの史実

名前:ファーリエ・スルタン(Fahriye Sultan
地位:オスマン帝国皇女
生年:不明
没年:1656年
父:ムラト3世
母:サフィエ・スルタン
夫:チュハダル・アフメド・パシャ​(1604年結婚、1618年没)
ソーフ・バイラム​(1619年結婚、1627年没)

宗教:イスラム教スンニー派

子:モーリス(男)、エレナ(女)

いつ生まれたのかは不明。

父はオスマン帝国の12代皇帝・ムラト3世。

1595年に父のムラト3世が死去。兄のメフメト3世が皇帝になりました。

ムラト3世、メフメト3世の時代にファーリエが結婚した記録はありません。未婚のままだったようです。

1603年。兄のメフメト3世が亡くなり、13歳の甥・アフメト1世が皇帝になりました。

1604年。ファーリエはチュハダル・アハメド・パシャと結婚。

しかし、1618年にチュハダル・アハメド・パシャが死亡。
二人の間に子供はいませんでした。

その後ファーリエは宮殿で暮らして他の皇室のメンバーと同じ給料を受け取りました。

アフメド・パシャの死から1年後。

1619年。ファーリエははソフ・ベイラム・パシャと結婚しました。

1627年。ソフ・ベイラム・パシャが死亡。

その後。ファーリエ・スルタンは再婚せず、未亡人として暮らしました。

1656年に死去。享年は不明です。

 

ドラマ「新オスマン帝国外伝」の皇女ファーリエ

新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム 2015年、トルコ 演:ギュルカン・アルスラン

史実通りムラト3世とサフィエ・スルタンの娘。アフメト1世の叔母。
劇中では史実とは全く違うストーリーになっています。

ドラマの設定ではメフメト3世の時代。ファーリエはイブラヒム・パシャと結婚していました。でもイブラヒム・パシャは死亡。その後、ギュゼルツェ・マフムード・パシャと再婚しましたが。ギュゼルツェ・マフムード・パシャも死亡していました。

ドラマの舞台はアフメト1世の時代。ファーリエは独り身。クリミアのメフメト・ギライと恋仲になっています。

ところがファーリエとメフメト・ギライの密会が見つかりメフメト・ギライは捕らえられてしまいます。シャーヒンの願いでメフメト・ギライは処刑は免れたものクリミア・ハン国に送り返されることになりました。王位争いをしているガジギライのいるクリミア・ハン国に戻されたら殺されるかも知れません。

そこでファーリエはシャーヒン・ギライの提案を受け入れ。アフメト1世を暗殺しようとします。ファーリエが持ち込んだのは天然痘の菌でした。アフメト1世たちは天然痘にかかり命を落としそうになりますが回復。

アフメト1世が危篤の間にシャーヒン・ギライがオスマン帝国皇帝の座を狙ったため、ギライ兄弟は投獄されました。

ファーリエ皇女とデルヴィーシュ・パシャの結婚が決定。

ファーリエはデルヴィーシュと取引してメフメト・ギライを救いだし、2人で逃げようとするのですが。結局は捕まって戻されてしまいます。ファーリエとメフメト・ギライの恋は実現しませんでした。

 

モデルはサフィエの娘アイシェ・スルタン?

史実ではイブラヒム・パシャと結婚したのはファーリエの姉のアイシェ・スルタンの方です。アイシェ・スルタンはムラト3世とサフィエ・スルタンの娘。ファーリエ・スルタンとは同母姉妹です。

しかしイブラヒム・パシャは死亡。その後、アイシェ・スルタンはギュゼルツェ・マフムード・パシャと再婚しています。アイシェ・スルタンは慈善活動に熱心で、慈善団体を作って恵まれない人を救ったりしていました。

劇中でもファーリエ・スルタンは宗教施設に逃げ込んだりしていますが、アイシェ・スルタンの活動を参考にしているかもしれません。

ファーリエ・スルタンの記録はあまりありません。そのためドラマのファーリエ・スルタンはアイシェ・スルタンの人生を足したような人物に設定されています。

でもさすがにクリミアハン国の王族と恋仲になった皇女はいません。

 

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