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エンリケ4世(カスティーリャ国王)とはどんな人?

スペイン帝国

エンリケ4世(Enrique IV )はスペインの元になったカスティーリャ王国の国王です。

イサベル1世の母違いの兄弟でした。エンリケ4世は貴族と対立して後継者問題で国内が混乱します。なかなか子供が生まれなかったことから対抗する貴族たちによって「不能王」のレッテルを張られてしまいました。歴史上は優柔不断で貴族たちの脅迫に逆らえなかった王といわれます。

もともとカスティーリャ王家の力は弱くエンリケ4世のころも王家よりも貴族の力が強かった時代です。エンリケ4世は最後まで王家の力を強くすることはできず妥協を繰り返します。歴史上は無能な王とされるエンリケ4世について紹介します。

目次

エンリケ4世の史実

名前:エンリケ4世(Enrique IV )

地位:カスティーリャ国王
生年:1425年1月25日
没年:1474年12月11日
父:フアン2世(カスティーリャ国王)
母: マリア・デ・アラゴン
妻:ブランカ・デ・ナバラ、フアナ・デ・ポルトゥガル

異母妹:イサベル1世
異母弟:アルフォンソ
子供:フアナ・ラ・ベルトラネーハ

日本では室町時代。日野富子(1440~1496年)とほぼ同じ時代の人です。

エンリケ4世のおいたち

1425年。エンリケ王子はカスティーリャ王国のバヤドリッド(スペイン北部のバリャドリッド県)で生まれました。
父親のフアン2世はカスティーリャ王国の国王。
母親のマリア・デ・アラゴンはアラゴン国王フェルナンド1世の娘。

生後3ヶ月でアストゥリアス公に任命されました。アストゥリアス公とは王位後継者に与えられる称号です。

エンリケ王子が生まれたころのカスティーリャ王国では、アラゴン国王がカスティーリャ内の貴族とも結びついてフアン2世を脅かしていました。国王フアン2世はサンティアゴ騎士団アルバロ・デ・ルーナを信頼してアラゴンの驚異に対抗していました。

アルバロはエンリケ王子の教育のために人材を集めます。その中の一人フアン・パチェコがエンリケ王子の側近となって支えました。

15歳のときブランカと結婚します。しかし2人の結婚生活はうまくいきません。ヘンリーはブランカを嫌っていたともいわれます。

オルメドの戦い

カスティーリャ国内では反アルバロ派の貴族達が反乱を起こします。

1445年。アラゴンはと同盟してカスティーリャに進軍。フアン2世はカスティーリャ軍を率いて出陣。オルメドで戦いになりました。エンリケ王子もアルバロとともに出陣、戦で功績をあげます。この戦いでカスティーリャ軍が勝利しました。

エンリケ王子は戦いの後いくつかの街を任されました。

この勝利によりアラゴンの影響はなくなりアルバロの影響力は強まったかに思われました。

1445年エンリケ王子の母マリアが亡くなります。

1447年。国王フアン2世が二人目の王妃としてポルトガルから迎えたイサベル王妃をむかえました。イサベル王妃はアルバロを信用しませんでした。イサベル王妃よってアルバロは失脚します。その後、ファン2世とイサベル王妃との間にはイサベル1世アルフォンソが生まれます。

アルバロの失脚後、カスティーリャ国内で力を伸ばしてきたのがエンリケ王子と彼の側近フアン・パチェコでした。

1454年。父フアン2世が亡くなったため国王になりました。

1553年。エンリケはブランカとの離婚を決意。ローマ教皇ニコラス5世に訴え出て離婚を許可してもらいます。その理由は呪いによって性的不能に追い込まれていると主張しました。エンリケがブランカとの離婚を決意した理由はポルトガルとの関係を築くためポルトガル王女との結婚を望んだためと考えられます。

国王エンリケ4世誕生

フアン2世が死去した翌日、エンリケ王子は国王に即位。エンリケ4世と呼ばれます。(王子の間は◯世とは呼ばれない)

母違いの妹イサベルと弟アルフォンソをアレバロに写しますが、彼女たちが王に対立する貴族に利用されるのを防ぐため王宮に戻します。

エンリケ4世の重要な課題は隣国ポルトガルとの同盟を強めることでした。
1455年。ポルトガル国王の娘フアナと結婚しました。

レコンキスタの失敗

イベリア半島は8世紀にイスラム教の国に征服されていました。その後キリスト教国が領土回復しようと戦いが続いています。その戦いをレコンキスタといいます。意味は「再征服」です。日本では「領土回復運動」と訳されることもあります。

この時代にはイベリア半島に残るイスラム勢力はイベリア半島南部のグラナダ王国のみでした。

エンリケ4世はグラナダを攻撃しました。しかし戦果をあげることができず消耗戦になってしまいました。疲弊した貴族や民衆からは不満の声があがります。

エンリケ4世と貴族の対立で内乱が起こる

1462年。フアナ王妃は娘フアナ・デ・カスティーリャを出産します。ヘンリー4世は早速娘をアストゥリアス公(後継者)に任命しました。

しかしフアン・パチェコがベルトラン・デ・ラ・クエバとの権力闘争に敗れ権力を失うと。フアン・パチェコは王に不満をもつ貴族を集め王女フアナはベルトランの娘だという噂を流しました。

1464年。フアン・パチェコらエンリケ4世に敵対している貴族はイサベルとその弟・アルフォンソを利用しました。フアナ王女を後継者と認めず、アルフォンソをヘンリー4世の後継者にするよう要求しました。

ヘンリー4世はしかたなくアルフォンソにアストゥリアス公の称号を授けました。そのかわりアルフォンソとフアナ王女を結婚させる条件を付けました。

ベルトランが失脚し、フアン・パチェコが権力を手にします。

1468年。内乱のさなかにアルフォンソが15歳の若さで病死。

貴族たちはイサベルをかついて王にしようとします。交渉の結果、ヘンリー4世はイサベルを後継者として認めました。しかし「イサベルの結婚はエンリケ4世の許可が必要」という条件を付けました。イサベルも女だったためフアナの違法性が余計に強調されました。

しかしイサベルはアラゴン王の息子フエルナンドと結婚。

それを知ったエンリケ4世はイサベルが協定を破ったため、イサベルの相続は無効。フアナが正当な後継者と宣言しました。

しかしエンリケ4世は病気になり1474年。エンリケ4世が死亡します。

彼の死後、イサベルとフアナの両方が国王を主張。国内の貴族はイサベル派とフアナ派に分裂します。イサベル派にはアラゴン王国、フアナ派にはポルトガル王国が味方して外国を巻き込んだ内乱状態になりました。

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