ドリュペティスはアケメネス朝ペルシアの王女。
ペルシア王(シャー)ダレイオス3世の娘です。
ペルシア帝国がアレクサンドロス3世率いるギリシア軍に敗北した後。
アレクサンドロス3世の腹心ヘファイスティオンと結婚しました。
ドリュペティスについて紹介します。
ドリュペティスの史実
名前:ドリュペティス(Drypetis)
国:アケメネス朝ペルシア→アルゲアス朝マケドニア
生年:不明
没年:紀元前323年
父:ダレイオス3世(ペルシア王)
母:スタテイラ1世(ペルシア王妃)
夫:ヘファイスティオン
姉:スタテイラ2世(バルシネ)
弟:オコス
子供:なし
日本では弥生時代。
ペルシアの王女
父はアケメネス朝ペルシアの王ダレイオス3世。
母はペルシア王妃スタテイラ1世
ドリュペティスはダレイオスの次女として生まれました。生年は不明。
母スタテイラ1世は王族の中で最も美しいと言われ。父ダレイオス3世も美形で背が高い。2人の娘たちも親に似て美しかったと記録されています。
姉のスタテイラ2世(バルシネ)とドリュペティスはスタテイラ1世ではなくダレイオスの先妻の娘という説もありますが。支持されていません。スタテイラ1世の娘の説が通説になってます。
弟のオッコスがいました。オッコスは歳が離れていました。スタテイラ2世(バルシネ)とドリュペティスが結婚ができる年齢でしたがオッコスは6歳でした。
ペルシアでは王族女性は宮殿の女性居住区(ハレム)で暮らしました。王族女性や王の妾に触れた男は死刑でした。
すべての女性が男性の目に触れないのではありません。女官たちは馬に乗って移動しました。王族女性でも馬に乗り弓矢を使う人もいました。
後のイスラム諸国ほど厳密ではなかったようです。
ペルシア帝国のハレムのしくみは後のイスラム諸国のハレムの元になります。というよりアジア地域ではハレム(後宮)のしくみが広く知られていたようです。
ダレイオスの遠征に付き従う
アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)がペルシアに遠征した時。
ダレイオス3世は軍を率いて迎え撃ちました。このとき祖母シシュガンビス、母スタテイラ1世、姉スタテイラ2世、弟オッコスも遠征に同行しました。
ぺルシアでは王の遠征に家族が同行するのは珍しくなかったようです。
当時の記録によると「ダレイオス3世がバビロンを出発したとき、遠征軍に続いて王の母と妻を乗せた馬車、王子と教育担当の女官や宦官を乗せた15両の馬車、王の妾、近親者が乗った馬車が続いた」と書かれています。まるで宮殿が移動したかのような大遠征軍でした。
このうち王の家族はダレイオスの遠征軍の近くに滞在。他の妾や宮廷関係者はダマスカスに滞在しました。
ドリュペティスたちは王の近くの野営地にいたようです。家族を戦場近くに連れて行くのは危険に思うかもしれませんが。当時のオリエントの考え方では王族女性を宮殿に残しておくと他の王族や貴族が王族女性と結婚して王位継承権を主張する可能性があるからです。むしろ王の目の届く所にいたほうが安心と考えていました。
それと王族の乗る馬車や天幕は豪華で宮廷が出現したかのような威厳を表現できます。王の財力と権威を表現することで軍の士気を鼓舞する狙いがありました。
マケドニアの捕虜になる
紀元前333年11月。イッソスの戦いでペルシア軍がギリシア軍に敗北。ダリウスは逃亡しました。ドリュペティスと家族はギリシア軍に捕まりました。
ドリュペティスたち家族はダレイオスが死んだと思い嘆き悲しみました。そこにアレクサンドロスの部下がやってきてダレイオスが生きていると伝えられます。
アレキサンダーの命令でドリュペティス、姉スタテイラ2世、母スタテイラ1世、弟オッコス、父方の祖母シシュガンビスは丁重にあつかわれました。王族にふさわしい待遇でした。
ペルシアでは王の母や妻は王位継承に無視できない影響力を持ちます。アレクサンドロスはアジアの王になりたかったので、彼女たちを保護して正当なアジアの王の資格があると宣伝したかったのです。当然王族女性との結婚は考えていたでしょう。
またペルシア王の家族を保護して、負けても家族はひどい扱いは受けないことを証明してこの後のペルシア支配をやりやすくする狙いもあったようです。
アレキサンダーが遠征を行う2年間。スタテイラ2世と彼女の家族はアレキサンダーに同行しました。
ところが紀元前333年から331の間に母スタテイラ1世が死去。祖母シシュガンビスがスタテイラ2世たち姉妹の保護者になりました。
逃げたダレイオス3世は、アレクサンドロスに家族を返すように交渉しました。でも、アレクサンドロス3世はダレイオスの提案を拒否しました。
紀元前330年。アレクサンドロス3世はドリュペティスとスタテイラ2世その家族をスーサに住まわせました。そこでギリシア語を勉強させました。
ヘファイスティオンと結婚
紀元前324年。アレクサンドロスはスーサで部下たちと集団結婚式を行いました。ペルシアの女性80~100人の結婚式を行いました。
ドリュペティスはアレクサンドロスの腹心ヘファイスティオンと結婚しました。
アレクサンドロスはスタテイラ2世(バルシネ)と結婚しました。
これはギリシア人がペルシアの支配者になったことを意味する儀式でした。5日間も続いた盛大な式典でした。
アレクサンドロスの部下たちにはペルシア人との結婚を望まない人もいました。アレクサンドロスにとっては部下の忠誠を試す機会でもあったのです。
ヘファイスティオンはアレクサンドロスの方針に賛成していたのでペルシア人女性との結婚は拒みませんでした。
第1王妃ロクサネに殺害される
紀元前324年秋。結婚してまもなく夫のヘファイスティオンが死亡してしまいます。
ギリシアから芸人がやってきたのでヘファイスティオンは演劇と祭典に出かけてました。ところがその場で熱を出して倒れました。医師が派遣されましたが手当の甲斐なく死亡しました。
結婚生活は1年も続きませんでした。
紀元前323年にアレクサンドロスは死亡します。
アレクサンドロスの死後。1番めの妻・ロクサネは腹心のペルディッカスと共謀して姉スタテイラ2世を殺害しました。このときドリュペティスも一緒に殺害されたといわれます。
またスタテイラ2世がアレクサンドロスの子を身ごもっている可能性があるので殺害される理由になりますが、臣下の妻を殺しても意味はないのでこのときスタテイラ2世と共に殺害されたのはアレクサンドロスのもうひとりの妻・パリュサティスだったのではないかともいわれます。
いずれにしてもその後のドリュペティスの行方はわかりません。
ドラマ
ポロス 2017、インド 演:シャリーニ・シャルマ(Shalini Sharma)
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