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アフメト1世・兄弟殺しを終わらせた若き皇帝の生涯とは

アフメト1世

アフメト1世は17世紀に生きたオスマン帝国の第14代皇帝です。

13歳で即位したので母・ハンダンスルタンが政治に関わっていました。

長年続いていたハプスブルクとの戦争を終わらせましたが。サファビー朝との戦争や国内の反乱もあり苦しい時期でした。

長年続いていた皇帝即位後の兄弟殺しの慣習を終わらせ。

信仰心に熱く、ブルーモスクの名で知られる、スルタン・アフメト・キャミを作りました。

すでに時代は強い皇帝が国を引っ張る時代から、完了やハレム、法学者など様々な人々が国を支える時代になっていました。

時代に生きたアフメト1世を紹介します。

目次

アフメト1世の史実

名前:アフメト1世(Ahmed I)
地位:オスマン帝国皇帝
生年:1590年4月18日
没年:1617年11月22日
父:メフメト3世(Mehmed III)
母:ハンダン・スルタン
妻:マフフィルズ・ハトゥン
ファトマ・ハトゥン
キョセム・スルタン

子:
メフメトにオスマン2世、メフメト、ムラト4世、イブラヒム1世など。

1590年。マニサで誕生。

父はメフメト皇子(後の13代皇帝メフメト3世)。

生母はセリムの側女ハンダン。

1595年。祖父・ムラト3世が死去。
父のメフメト3世が即位しました。このときメフメト3世の兄弟19人が処刑され人々は悲しみました。

異母兄マフムトは皇帝候補と言われた人物でしたが、祖母サフィエ・スルタンに嫌われ、内乱の容疑者にされて父によって処刑されました。

1603年。父メフメト3世が死去。

アフメト1世の治世

1603年。アフメト1世は13歳でスルタンに即位しました。それまでのオスマン帝国の歴史でメフメト2世の次に若い皇帝でした。

当然、アフメト1世には子供はまだいません。

初めて地方の太守を経験せずに皇帝になりました。

兄弟殺しの廃止

アフメト1世には異母弟のムスタファ皇子がいました。慣例に従うならムスタファは処刑されたかもしれませんが。ムスタファを処刑しませんでした。

その理由は。

アフメト1世にまだ子供がいなかったこと。
メフメト3世の時代に19人の皇子を処刑して人々の非難を受けたことなどです。すでに世間の声は無視できないものになっていました。

アフメト1世は弟の処刑には反対しました。しかし彼はまだ13歳です。兄弟殺しの廃止の決定には高官たちの判断も大きく影響したと思われます。

ムスタファは殺されない代わりに黄金の籠(カフェス)と呼ばれる部屋に幽閉されました。

この決定は後のオスマン帝国の皇帝の即位の仕方に大きな影響を与え。兄弟殺しはほとんど行われなくなります。皇位継承のルールは決まっていませんが、父から子供ではなく兄弟に引き継がれる例も増えました。

母・ハンダン・スルタンの摂政

アフメト1世は13歳と若かったので、母のハンダン・スルタンが母后になり政治に関わりました。

祖母サフィエ・スルタンと彼女に使える者たちを旧宮殿に追放しました。実際に決定したのは母后ハンダン・スルタンといわれます。

アフメト1世が即位して数年は母后ハンダン・スルタンが宮廷を仕切っていました。アフメト1世は太守の経験もなくずっと母親の下にいました。そのためハンダンの影響が強く、信心深いと言われます。

西部戦線:ハプスブルクとの長期戦争

アフメト1世が即位したとき、オスマン帝国は東西で戦争をしていました。

西ではムラト3世の時代からハプスブルク帝国との戦いが続いていました。

ハンガリーとコーカサスではオスマン帝国とハプスブルクが城をとっては取られの繰り返し。一進一退が続いていました。

1603年頃からはハプスブルクに対してトランシルヴァニアやワラキア、モルドバで反乱が起きました。

オスマン側は1604年にペスト、ヴァークを奪還。1605年にエステルゴム城塞を陥落させました。

そして1606年。緩衝地帯のツァイトヴァトロクで和平条約が成立しました。13年続いたハプスブルクとの戦争が終わりました。

条約では神聖ローマ皇帝は一度だけ200万クルルシュの賠償金をオスマンに払う。ハプスブルク領のハンガリーがオスマンに払っていた年間3万ドゥカットの税は払わないことになりました。

お互いの国の君主を皇帝(ハプスブルクの君主はカイザー、オスマンはスルタン)と呼ぶことが認められました。オスマン帝国は7代メフメト2世がイスタンブールを占領後は、他のヨーロッパ諸国の君主が皇帝を意味する言葉で呼ぶのを認めませんでしたが。ついに認めました。

この戦いでは最初は新式の武器を使うハプスブルクが有利に戦っていましたが。ハプスブルクはハンガリーの領主の信頼を得ることができず。その間にオスマン側も新技術を取り入れ互角に持っていきました。

オスマン軍にスレイマン時代の強さはなくなっていましたが、まだヨーロッパ諸国と対等に戦える力は見せました。しかしこの後、オスマン帝国がヨーロッパ側の領土を増やすことはできなくなります。

1612年。カピチュレーション(免税特権・通商の自由)をオランダに与えました。
またフランスに与えていたカピチュレーションにジェノヴァ、ラグサ、アンコーナ、フィレンツェ、スペインの商人たちも加えられました。貿易が拡大します。

東部戦線:サファビー朝イランとの戦い

東ではアッバース1世のもとでサファビー朝イランが国の立て直しに成功。

オスマン軍が西でハプスブルクと戦っている間に。サファビー軍は16世紀のムラト3世時代に奪われた領土を取り返そうと攻めてきました。

1603年。サファビー軍がタブリースを占領。その後もグルジアのティフリス、アゼルバイジャンのゲンジェを占領。1607年にはオスマン帝国がムラト3世時代に獲得した領土を失いました。

領土を回復するためユスフ・シナン・パシャを派遣しましたが。アッバース1世と戦って敗北。

1612年。大宰相ナスフ・パシャによって、ナスフ・パシャ条約が結ばれました。これによってサファビー朝は絹200ラクダをオスマンに送り、国境は1555年アマスィヤ講話のころに戻る事になりました。

1615年。ところがアッバース1世は絹200ラクダの支払いを拒否。

1616年。大宰相のオキュズ・メフメト・パシャがイラン遠征をしましたが敗北。アフメト1世は大宰相を解任。新しく大宰相になったダマト・ハリル・パシャに攻めさせました。

ジェラーリ反乱

他国との戦争が続いていたころ。国内のアナトリアやシリアでは反乱が起きていました。反乱者はジェラーリと呼ばれました。彼らは重税に困って逃げ出した者。失業者などが中心でした。

彼らはかつて軍にいたことがあり銃の扱いに慣れています。彼らは戦いが終わると解雇され銃を持ったまま村に戻りました。でも戻っても仕事がないので山賊になっていました。

メフメト3世の時代に大規模な反乱が多発。アフメト1世の時代も続いていました。

反乱を恐れた村人が逃亡。村そのものが消滅することもありました。村を失った領主が反乱軍に合流する悪循環も起こりました。

鎮圧に困ったオスマン政府は反乱軍の首謀者を懐柔するため、彼らをアナトリアから離れたバルカン地域の州知事や県知事にしました。首謀者は軍人が多く役職を与えれば大人しくなります。そうして首謀者を反乱軍から切り離しました。

しかし反乱兵がいなくなったわけでなく。ポストを狙った新しい反乱も起こります。

アフメト1世はハプスブルクとの戦争が終わると反乱の大規模な鎮圧作戦を決定。大宰相クユク・ムラト・パシャを派遣してひとまずはジェラーリ反乱を抑え込みました。

スルタン・アフメト・キャミ(ブルーモスク)

ブルーモスク

アフメト1世は母の影響をうけたのか信仰深く。イスタンブールに大きなモスクの建造を命令しました。

1609年に建設が始まり、アフメト1世も金のツルハシで起工式に参加。7年後の1616年に完成。

メフメト・アーが設計、最も美しいモスクと言われます。

スルタン・アフメト・キャミーと名付けられた大型のモスクは「ブルーモスク」の名前で知られます。

トルコ共和国時代になってアヤソフィアがモスクから博物館になったので、ブルーモスクがトルコ最大級のモスクとなっています。

現在ではイスタンブールを代表する観光名所にもなっています。

アフメト1世の最期

1617年11月22日。アフメト1世は腸チフスのため崩御。享年27歳という若さでした。

遺体は自らが建設を命令したスルタン・アフメト・キャミ(ブルーモスク)に葬られています。

その後は弟のムスタファ1世があとを継ぎました。

ドラマ

新オスマン帝国外伝・影の女帝キョセム 2015年トルコ 演:エキン・コチ

 

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