1553年10月6日。トルコ南東部のコンヤ・エレシリで父スレイマン1世の命令でムスタファ皇子が処刑されました。
イランと密かに同盟して謀反を企んだという罪で処刑されたのですが。ムスタファ皇子は無実で殺されたといわれます。
ムスタファ皇子は処刑後。ブルサに運ばれてムラディエ・キュリエスィ(ムラト2世モスク複合施設)の敷地内に埋葬されました。
その後、セリム2世の時代になって霊廟が作られました。
ムスタファ皇子の霊廟は今もトルコ共和国ブルサ県オスマンガジ地区にあるムラディエ・モスクの敷地内にあります。
トルコドラマ「オスマン帝国外伝」で日本にも知られるようになった悲劇の皇子ムスタファのお墓を見てみたい。
私はトルコ旅行はしたことありませんし。今は海外旅行はできないけれど。グーグルマップなら見られる。
というわけでヴァーチャル旅行に出かけてみましょう。
ムスタファ皇子のお墓があるのはブルサの街
ブルサの位置はここ。
トルコの首都イスタンブールから南、直線距離で約60km。
ブルサはオスマン帝国最初の首都です。オスマンの国がまだアナトリアの小さな国だったころからの首都。領土拡大とともに首都がエディルネ、イスタンブルに移っていきました。でもイスタンブルが帝都になってからも祖先ゆかりの場所ということで多くの皇族の墓が作られました。
初代国王オスマンの墓を始め多くの王族の墓があります。
ムスタファ皇子の墓もそのひとつです。
ムスタファ皇子の墓はムラト2世モスクの敷地内にあります
現在のトルコ共和国ブルサ県のムラディエ・キュリエスィの敷地内にあります。
住所は 〒16050 Bursa, Osmangazi, Muradiye
キュリエスィ(Külliyesi)とはモスクや学校、浴場などが集まった複合施設のことです。ムラディエ・キュリエスィはムラト2世のモスクを中心に建っているのでムラディエ・モスクと紹介されることもあります。モスクはその一部です。広大な敷地にモスクや王族の墓が集まっています。オスマン帝国当時はここに学校や浴場、食堂がありました。現在は建物だけがあります。
ムラディエ・キュリエスィをグーグル・マップで見るとこんな感じになっています。
ムスタファ皇子霊廟(Şehzade Mustafa Türbesi:シェフザーデ・ムスタファ・テュルベ)は敷地内にあります。
こちらがムスタファ霊廟。Türbesiとはお墓とそれを保護するための建物です。ムラディエ・キュリエスィの中では比較的新しい建物です。といっても作られたのは1573年。日本だと織田信長が生きていた時代です。歴史ある建物ですね。
この建物の中に石棺が入ってます。
この画像だと小さいように見えるかもしれませんが。意外と大きいみたいですね。
白い壁とレンガを組み合わせたデザイン。八角形の塔の上にドームがあります。このデザインはテュルク系遊牧民がイラン・イラクあたりに作ったセルジューク朝で始まったといわれます。最初は遊牧民のテントを模倣して作られれたとか。セルジューク朝滅亡後もテュルク系の国で作られ。オスマン帝国の王侯貴族や高官はこのような形の霊廟を建てました。
玄関を囲む白い部分は大理石。オスマン帝国の建物はビザンチン帝国の影響も受けています。
オスマン帝国時代に建てられた物にしてはきれいに見えるかもしれませせん。2013~14年に建物の外観を修復、周辺が整備されました。入り口のひさしもそのときに付けられた物です。
豪華な内装
中はこんな感じ。広そうです。壁は豪華なイズニックタイルで覆われています。オスマン帝国滅亡後、内部の壁は飯喰で塗り固められたようです。現代の修復工事で漆喰がはがされ、16世紀当時の壁が見えるようになりました。
石棺(石の棺桶)が4つあります。
オスマン帝国ではターバンが置かれている石棺、あるいはターバンを形どった墓石があるのは男性のもの。一番手前にある大きくてターバンがあるのが「ムスタファ皇子」の石棺です。
1553年に敷地内の墓地に埋葬されました。1573年に霊廟が作られこの施設に移されました。
他にも3つの石棺がありますね。他の棺は誰のでしょうか?
残り3つは誰の棺?
ムスタファ皇子の横にある棺の主は?
この写真で見ると手前から2つめ。ターバンが付いている小さめの棺桶。現地の説明版では「オスマン皇子」の棺桶とされています。
オスマン皇子とはバヤジット皇子の息子。皇帝スレイマン1世の孫です。
バヤジット皇子は兄セリムとの戦いに敗れ処刑されました。バヤジット皇子には5人の息子(オルハン、オスマン、アブドラ、マフムート、メフメト)がいました。そのうち4人の皇子を連れてイランに亡命。最終的には5人の息子全員が処刑されています。
皇帝セリム2世は1571年に「バヤジットの息子も建設する霊廟に入れろ」と命令しました。でもどの皇子なのか名前は記録されていません。
マヒデヴラン妃の棺
3番め。ターバンのない大きな棺はムスタファ皇子の母マヒデヴラン妃の棺です。
マヒデヴランはムスタファ皇子の死後、息子と孫が葬られた墓のあるブルサで過ごしました。霊廟完成後はお墓を見守りながら暮らして1588年に亡くなりこの地に葬られました。
日本風にいえば「息子と孫の菩提を弔いながら暮らした」ということでしょうか。
正体不明の小さな棺
一番奥の小さな棺は誰のものかわかりません。
棺の主の正体は誰?
公式見解では以上のようになってるんですけど。
ムスタファ皇子とマヒデヴラン妃の棺はまあ間違いないでしょう。
ムスタファ皇子のために作った霊廟ですし、本人と墓守をしていた母がここに葬られたのは当然だと思います。
でもなぜムスタファ皇子とマヒデヴラン妃の間にバヤジットの息子の棺を置くんでしょうか?
ムスタファ皇子がオスマンを実の子以上にかわいがっていたというならともかく。そんな話はありません。セリム2世の嫌がらせでしょうか?
これは私個人の考えになりますけど。長い年月の間に誰の棺かわからなっている部分もあるし。この表示は違うと思いますね。
そもそもこの話の出どころはオスマン帝国滅亡後、トルコ共和国の軍人兼歴史家のカミル・ケペシオグルが1935年に書いた本。この本によるとムスタファ霊廟の棺は「ムスタファ皇子、オルハン、マヒデブランのもの」と書かれています。彼がなぜこの棺をオルハンのものとしたのかはわかりません。現在の説明札ではオスマンとなってますけれど問題はそこではありません。
バヤジット皇子の息子の遺体がなぜムスタファ霊廟にあるかというと。
ムスタファ皇子亡き後。セリム皇子とバヤジット皇子が後継者争いが激化、ついに武力衝突しました。戦いに負けたバヤジット皇子は4人の息子(オルハン、オスマン、アブドラ、マフムート)を連れてイランに亡命しました。スレイマン1世の要求でバヤジット親子はオスマン帝国に戻され処刑されました。バヤジット親子はシヴァルに埋葬されました。
一方、バヤジットの妻(名前不明)と当時3歳のメフメトはオスマン帝国に残っていて亡命していません。バヤジットの妻と息子はブルサ城に幽閉。その後、メフメトはブルサで殺害されました。
セリム2世の即位後。1571年にムスタファ皇子の霊廟を建設。そのとき「バヤジットの息子も建設する霊廟(ムスタファ霊廟)に入れろ」と命令しました。でも具体的に誰なのか記録がないです。
つまりバヤジット皇子とオルハン、オスマン、アブドラ、マフムートの息子たちはシヴァルの墓地に埋葬されている。なんでシヴァルにあるオスマンだけここに移したの?となります。
普通に考えれば、ブルサで殺害されたバヤジットの末息子の亡骸がここに安置された。となりそうなものです。
私個人の考えでは。
ここに葬られたバヤジットの息子とはブルサで死んだ末息子メフメトだと思います。
そして。棺の主は。
一番手前がムスタファ皇子、
2番めがムスタファ皇子の息子メフメト、
3番めがマヒデヴラン妃、
一番小さくて一段低い所に置いているのバヤジットの末息子メフメトの棺。
だと思うのです。
偶然にもメフメトが二人になりますね。オスマン帝国って名前のバリエーションが少なすぎ(当時のヨーロッパも似たようなものですが)。
これは私個人の考えです。
実際はどうなんでしょうね?
16世紀最高のイズニックタイル
ムスタファ霊廟の内側の壁は豪華なイズニックタイルで覆われています。16世紀のオスマン帝国で最高品質のタイルが使われいるそうです。
イズニックタイルとはこんな感じのデザイン。カーネーション、ユリがあしらわれたデザイン。
実はこの画像はタイルそのものではなくて楽天で売ってる「イズニックタイル柄のペーパーナプキン」です。このデザインはムスタファ皇子のお墓に使われているイズニックタイルのデザインとほぼ同じ。16世紀のトルコを代表するデザインのようですね。
ムスタファ皇子の霊廟は当時最高のもので作られていました。当時の人々のムスタファ皇子への想いが伝わってきそうです。
セリム2世がムスタファ皇子のお墓を造ったのはなぜ?
1553年。ムスタファ皇子が父皇帝スレイマン1世に処刑された時。ブルサの墓地に葬られましたが。霊廟を建てるのは禁止されました。
この霊廟を建てるのを命令したのはセリム2世。
スレイマン1世の死後、皇帝になったセリム2世は。1771年にムスタファ皇子の霊廟建設を命令。
1773年に完成しました。
セリム2世はムスタファ皇子とは王位を巡ってライバル関係にありました。二人が仲がよかったのではなく。セリム2は臣下からの進言でマヒデヴラン妃を援助、ムスタファ皇子のお墓を造ったのです。
セリム2世は結果的に皇帝になりました。でも彼自信に人望があったのではありません。ムスタファ皇子の死後や即位してからも兵士たちのご機嫌をとるためにいろいろやらざるを得ませんでした。
人々やイェニチェリ(歩兵)たちの支持の高かったムスタファ皇子のために霊廟を作り、皇子の母マヒデブランを保護することで。兵士や人々の支持を得ようとしたのかもしれません。
思惑はともかく。おかげでムスタファ皇子のお墓が現在まで残っているわけです。
トルコでもドラマ「Muhteşem Yüzyıl(壮麗なる世紀:日本語版は オスマン帝国外伝)」の放送でムスタファ皇子やその霊廟が有名になり見学者が増えたとか。まあトルコ共和国では長い間オスマン帝国は黒歴史になってたから仕方ないよね。今になってオスマン帝国時代を楽しめるようになったってことでしょうか。
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