ザール・マフムート・アガ (パシャ)は16世紀ごろのオスマン帝国の役人。
スレイマン1世の息子ムスタファ皇子の殺害に関わったとされる人物です。
スタファ皇子は人気のある皇子でしたが謀反の疑いをかけられスレイマン1世の命令で処刑されました。
そのとき死刑執行人を指揮していたのがザール・マフムート・アガ です。
ザール・マフムート・アガの役目は宮廷や要人の警護や死刑執行人の監督です。
役目上、皇帝の命令があれば皇子でも殺害しなければいけません。でもザールは殺人者の代名詞のようになってしまい。ドラマでも暗殺者のような汚れ仕事をする人のように描かれます。
歴史上のザール・マフムート・アガはどのような人物だったのか紹介します。
ザール・マフムート・アガの史実
通称:ザール・マフムート・アガ(Zal Mahmut Ağa)
地位:オスマン帝国
出身地:不明
生年:不明
没年:1580年
父:不明
母:不明
妻:シャー・スルタン(セリム2世とヌールバーヌーの娘)
ザール・マフムート・アガはボスニア出身とも言われます。おそらくデヴシルメ(徴用)で集められイスタンブールで教育を受けた中のひとりでしょう。
学校を卒業後、様々な役職を担当したようです。
トルコドラマ「オスマン帝国外伝」では大宰相のリュステム・パシャに仕える暗殺者のように描かれています。
でもリュステム個人に仕えてわけではなく、皇帝スレイマン1世に仕えていたようです。リュステム・パシャは仕事上の上司だったのでしょう。
名前にアガやパシャが付くのは社会的な地位のある男性ですから、個人的に雇われて汚れ仕事をしている人に相応しい称号ではありません。
ザール・マフムート・アガは宮殿や邸宅、城壁の警備を担当していたといいます。また死刑執行人を監督する立場にありました。
ザールは英雄の名前
ザールとはペルシャの伝説に登場する英雄の名前です。マフムートはレスリングの腕前がすばらしかったのでこのようなあだ名がついたと言われます。伝説ではザールの息子はロスタム(トルコ語でリュステム)。ロスタムも強い英雄でしたが悲劇的な最期をとげます。ギリシヤ神話のヘラクレスに例えられます。
ザールとロスタム(リュステム)はペルシャ人やトルコ人の間では戦士の代表のように思われていました。
そこでオスマン帝国でもザール・マフムート・アガとリュステム・パシャは関係があると考えられるようになりました。でもオスマン帝国ではザール・マフムート・アガよりもリュステム・パシャの方が上官なので立場は逆です。
ムスタファ皇子の暗殺に関わる
皇帝スレイマン1世がムスタファ皇子の処刑を決めた時。ザール・マフムート・アガは死刑執行の命令を受け取りました。そして配下の死刑執行人に命じてムスタファ皇子を処刑しました。
イランとの戦争中。ムスタファ皇子は謀反の疑いをかけられました。スレイマン1世の呼び出しを受けたムスタファ皇子は部下たちが止めるのを聞かずにスレイマン1世のもとを訪れました。ムスタファ皇子は皇帝から与えられた白い長衣(カフタン)を身に着けていました。戦場で着るにはふさわしくないほど豪華だったといいます。ムスタファ皇子は自分が会って話をすればわかってもらえると思っていたようです。
ムスタファ皇子はスレイマン1世がいるというテントに案内されました。ムスタファ皇子はテントに入りましたが、そこにはスレイマン1世はいません。
すると7人の死刑執行人が襲いかかりました。ムスタファ皇子は勇敢で戦いも得意だったので抵抗して死刑執行人を手こずらせたようです。でも、一度に7人もの死刑執行人に襲われたら逃れられません。最終的には首を絞められて殺害されました。
オスマン帝国では高貴な身分の人間を処刑するときは血を流さず絞首刑にします。これはトルコ人の祖先が中央アジアの草原で遊牧民をしていたころからの習慣のようです。
また別の話では配下の死刑執行人が手こずっていたのでザール・マフムートが直接手を下して斧で殺害したとも言われます。
またこれも噂話ですが。ムスタファ皇子の死を知らされたジハンギル皇子はショックを受け、ザール・マフムート・アガの顔を見てさらに憂鬱になり食欲がなくりました。ジハンギル皇子の直接の死因は結核です。でも皇子は食事も水分ととらずに死期を早めたと言われます。
またテントの中にはスレイマン1世もいたという説もあります。
というわけで、ムスタファ皇子の死については様々な情報が飛び交いました。
歴史上はムスタファ皇子を直接殺害したのは命令を受けた死刑執行人とされます。ザールは命令を出す立場だったので直接ザールが殺したかどうかはわかりません。でもその場にはいたでしょう。そこでムスタファ皇子の死をよりドラマチックにするために話が盛られて、ザールが直接殺害したという話になったようです。
ただオスマン帝国の人々がザール・マフムート・アガがムスタファ皇子の処刑に関わったと信じていたことは確かです。
なぜムスタファ皇子が殺害されたのか理解できなかった人々は、リュステムやザール・マフムート・アガに怒りを向けました。
イスタンブールの人々は町でザール・マフムート・アガを見かけても顔をそむけていました。ザール・マフムート・アガはあまり外を出歩かなくなったと言います。
ザール・マフムート・アガは皇帝の命令で仕事として行ったので仕方ないのですけれど。人々に与えた衝撃はそれだけ大きかったということです。
ムスタファ皇子の死後
ムスタファ皇子の死後、セリム皇子とバヤジト皇子の争いが起こりました。ザール・マフムート・アガはセリム皇子に協力しました。
ザールはスレイマン1世に仕える立場だったのでスレイマン1世が支持しているセリム皇子を助けた。ともいえます。
彼は1564年にアナトリアのベイレルベイ(総督)に任命されました。
アナトリアのベイレルベイ(総督)就任は出世コースです。
セリム2世の時代
1566年。スレイマン1世が死去。セリム2世が即位しました。
セリム2世の治世にはザール・マフムートはさらに昇進しました。
1567年にはザール・マフムートは宰相になりました。
ザール・マフムートに「パシャ」の称号がつくようになります。
セリム2世の時代。大宰相の座にはずっと「ソコルル・メフメト・パシャ」がいたので、ザール・マフムート・パシャは大宰相にはなっていません。
さらにザール・マフムート・パシャにはかつて大宰相を努めたパルガル・イブラヒム・パシャの屋敷が与えられました。イブラヒム・パシャの家はイブラヒムの処刑後に没収され、皇帝一族や高官のゲストハウスとして使用されていました。
1574年。ザール・マフムート・パシャはセリム2世とヌールバーヌーの娘シャー・スルタンと結婚しました。スレイマンの妹のシャー・スルタンとは別人です。
シャー・スルタンは3度めの結婚(前の夫は二人とも死別)で当時30歳でした。皇帝の娘と結婚したのですから、世間の評判とは別に宮廷内ではそれなりの信頼を得ていたのでしょう。
ザール・マフムート本人は皇帝に忠実に仕える役人だったようです。
もっとも贅沢な暮らしに慣れた皇女と結婚するとかなりの出費を覚悟しないといけません。そのため臣下を散財させるための手段として皇女を嫁がせる。ということも行っていました。
晩年にモスクを建造
1577年。ザール・マフムート・パシャとシャー・スルタンは寄進してモスクを建設。建築を担当したのは有名な建築家ミマール・シナンです。
しかしその年の11月3日。妻シャー・スルタンは病気でこの世を去りました。33歳でした。
1580年。ザール・マフムート・パシャは病死。
ザール・マフムート・パシャはザール・マフムート・パシャ・モスクの敷地に埋葬されました。
モスクはその後、何度か改修され現在に至ります。
寄進者の名をとってザール・マフムート・パシャ・モスクと呼ばれますが。ムスタファ皇子を殺した者が建てたモスク。ムスタファ皇子を殺した者が眠るモスク。という事もあって参拝者は少なかったようです。
現代では、モスクそのものは名建築家ミマール・スィナンの晩年の作品として紹介されることの多い建物です。
ところがトルコでテレビドラマ「Muhteşem Yüzyıl」(壮麗な世紀:日本語版タイトルは「オスマン帝国外伝」が放送されると「殺人鬼ザールのモスク」として再び知られるようになりました。ドラマのザールは脚色されていますから変な形で知名度が上がってしまったかもしれません。
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