ソコルル・メフメト・パシャはオスマン帝国の大宰相です。
10代皇帝スレイマン1世から11代セリム2世、12代ムラト3世の時代に大宰相を務めました。
ソコルルは有能な大宰相でした。セリム2世があまり政治に関心がなかったこともありセリム2世時代はほぼソコルルが中心になってオスマン帝国を動かしていました。
しかし大きすぎる力は反発も生まれます、ムラド3世時代には次第に遠ざけられ最後は暗殺されてしまいます。
ソコルル・メフメト・パシャについて紹介します。
ソコルル・メフメト・パシャの史実
通称:ソコルル(Sokollu)
名前:メフメト(Mehmed)
本名:バジカ・ネナディッチ(Bajica Nenadić)
地位:オスマン帝国
出身地:セルビア
生年:1506年
没年:1579年
父:ディミトリエ
母:不明
妻:イスミハンスルタン
子供:
セルビア人の羊飼いの息子
本名はバジカ・ネナディッチ。
オスマン帝国のヘルツェゴビナ県(現在のボスニア・ヘルツェゴビナ)で暮らすセルビア人の家に生まれました。
父ディミトリエは羊飼い。2人の兄とすくなくとも一人の姉がいました。
一家は熱心な正教徒でした。
1519年。デヴシルメ(徴用)で採用され、ディルネ宮殿に連れて行かれイェニチェリ(常備歩兵軍団)になりました。その後、イスタンブルに送られて国立学校のエンデルンで勉強しました。
イスラム教に改宗し、メフメトと名付けられました。
あだ名のソコルルはソコル出身者という意味です。ソコルルの住んでいた場所がソコルでした。現在のボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国ルードの近くです。
1535年。イスケンダーチェレビのもとで働く役人になりました。イスケンダーの死後、イスタンブルに戻りました。
トルコ語、セルビア語、ペルシア語、アラビア語、ベネチア語-イタリア語、ラテン語が話せました。
1541年。カプク(外交使節)になりました。
1546年。フズル・ハイレィンの死亡後。海軍提督に昇進。
トリポリ遠征に参加。
イスタンブル造船所の拡張や改修を行いました。
宰相時代
1549年。宰相(ビジエ)に昇進。ルメリベイラーベイ(ルメリ州総督)になりました。
1551年。エルデル遠征隊の指揮官に任命されました。8万の軍を率いてエルデル(トランシルバニア)に出兵。いくつかの城を落しましたが、ティミショア城(ルーマニア)を10月28日まで包囲しましたが陥落しません。そこで和平交渉を行いました。
1553年。アナトリアに派遣されたルメリア兵の指揮官として派遣されました。トカット(アナトリアの町)で冬を越したあと1554年6月にスレイマンの部隊と合流。サファビー朝と戦いました。オスマン軍、サファビー軍ともに大きな被害を出しつつ和平。オスマン帝国はアナトリア東部の領土を確保しました。
1555年。第三宰相になり。帝国評議会(ディバン)の一員になりました。
ところがムスタファを名乗る者がサロニカ(ギリシャのテッサロニキ)で反乱を起こしました。ソコルルは4千の騎兵と3千の歩兵を率いて反乱を鎮圧。偽ムスタファを処刑しました。
セリムとバヤジトの間で王位争いが激しくなりました。ソコルルは常にセリムの味方でした。
1559年。スレイマンはバヤジト討伐を決定。セリムに正規軍を任せました。セリムとバヤジトの戦いはセリムが勝利しました。
1561年。大宰相のリュステム・パシャが死亡。セミズ・アリ・パシャが大宰相になり、ソコルルは第二宰相になりました。
この年、スレイマンの孫・エスメハンスルタンと結婚しました。
1556年。大宰相セミズ・アリ・パシャの死後。大宰相になりました。
大宰相時代
すでに年老いていたスレイマン1世はソコルル大変信用して大きな権限をもたせました。
ハプスブルク家との戦争
1566年。神聖ローマ帝国との間で緊張が高まりました。神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世はかつて失った領土を取り返そうと宣戦布告してきました。
ソコルルは甥のボスニアにいるソコルル・ムスタファ・ベイに命令して軍を派遣させます。ソコルル・ムスタファ・ベイが前線で戦っている間に、ソコルル・メフメト・パシャが軍を率いて出陣。
あとから主力部隊を率いて来たスレイマンとベオグラードで合流しました。オスマン帝国軍はウィーンを目指しました。
ウィーンに向かう途上。ハンガリーのスィゲトヴァール城を包囲しました。ところがハンガリー遠征の最中に陣中でスレイマン1世が病死します。
ソコルルはスレイマンの死を秘密にして包囲を続行。シゲトヴァール城を陥落させました。
その一方で、セリムに使者をおくり呼び寄せ、セリムが来ると即位させました。
ソコルルはセリム2世に忠誠を誓います。しかし兵士たちの士気は落ちていました。反乱が起きるかもしれないと考えたソコルは、セリム2世に兵士に褒美を与えるよう説得。褒美をもらった兵士たちはセリム2世に従いました。
ソコルとセリム2世はスレイマン1世の痛いとともにイスタンブルに戻りました。
セリム2世の時代
スマトラ遠征
1567年。ソコルルはオスマン帝国と東洋との物流を盛んにしようと考えました。スマトラ島にあるイスラム教国家アチェ王国に遠征を行い、軍や人の援助を行いました。アチェ王国はポルトガル領マラッカや周辺国との戦いを有利にするためオスマン帝国の援助を必要としていたのです。
1568年。ソコルルはマクシミリアン2世と和平条約を結びました。
イエメン遠征
スマトラへの遠征直後。イエメンで反乱が起こりました。イエメンの反乱を鎮圧するため、アチェへのさらなる支援は後回しになりました。
スエズ運河計画
インドやインドネシアに進出するため、地中海と紅海を繋ぐ航路が必要になりました。そこでスエズに運河を作ろうと計画します。技師をよびよせ調査をさせました。技術的・予算的に難しいとわかり中断しました。
19世紀になって、ソコルルが計画したのと同じ場所にスエズ運河が造られます。スエズ運河ができる300年前にその必要性を理解していたソコルルは先見性が高かったといえます。
また、ロシアやサファビー朝との戦いを有利にするため、ドン側とボルガ側を結ぶ運河も計画しました。完成すれば黒海とカスピ海がつながることになります。工事のため人員も派遣しましたが、ロシア軍の妨害によって中断しました。
キプロス遠征とレパントの海戦
チュニジアを奪回するため遠征軍を組織しました。スペインで弾圧されるイスラム教徒を救うためスペイン遠征の足がかりとなるチュニジアが必要になったのです。
ところがソコルルの政敵、ピアーレ・パシャ、ララ・ムスタファ・パシャがセリム2世にキプロス遠征を提案。ソコルルは反対しましたが、セリム2はキプロス遠征を決定。チュニジア遠征は実現しませんでした。
ララ・ムスタファ・パシャ率いるオスマン軍はキプロス島を占領しました。キプロス島奪回を目指すキリスト教連合艦隊とオスマン艦隊は、ペロポネソス半島沖のレパントで戦います。この戦いでオスマン艦隊は壊滅しました。
この戦いはオスマン帝国に対する、キリスト教国の初めての大勝利としてヨーロッパ中に宣伝されました。
しかしキリスト教国はキプロス島の奪回には失敗。オスマン帝国はキプロス島は占領し続けました。
ソコルルはヴェネツィアとの和平交渉をまとめ、ヴェネツィアから貢納金を得ることに成功しました。
ソコルルはピアーレ・パシャを海軍提督にしてただちに艦隊を再建させました。1572年には250隻の船を完成させました。
神聖ローマ帝国、ロシア、フランス、ポーランド、リトアニアとは良好な関係を築きました。
このころソコルルは莫大な財産を持っていました。大宰相として標準的な給料をもらっていましたが、それ以外に他の役人からの贈り物、貿易の利権などで莫大な収入があったのです。
1574年。再建された遠征軍をチュニスを攻略。スペイン遠征の準備が整いました。ところが1574年12月。セリム2世が死去してしまいます。
スペイン遠征は中止になりました。
晩年
ムラト3世が即位しました。
ところが若いムラト3世は、母后ヌールバーヌ。妃サフィエ・スルタンの影響を受けていました。ムラト3世はハレムの組織を整備。母后(ヴァリデスルタン)と黒人宦官長を中心にした組織的なハレムに作り変えました。
また、ソコルルの大きな力を嫌うムラト3世はソコルルの政敵ララ・ムスタファ・パシャやコジャ・スィナン・パシャを重用しました。
ソコルルは次第に冷遇されるようになり影響力は弱まります。
1578年。ムラト3世はサファビー朝遠征を決めました。
ソコルルは反対しましたが、決定は覆りません。
1579年。10月11日。ソコル・メフメト・パシャは面会に来たダーヴィシュ(イスラム教の修行僧)によって暗殺されました。
犯人は翌日処刑されました。
ソコルに恨みを持つ者の仕業。ソコル・メフメト・パシャを排除したかったムラト3世が関わっているともいわれます。
ソコルの死後、ムラト3世は10回も大宰相を交代しました。以後、しばらくはソコルルのような大きな力をもつ大宰相が現れなくなります。
ソコルルは世界的な広い視野でオスマン帝国の利益を考えられる政治家でした。スレイマン1世が目指した世界帝国の思想を受け継いだのがソコルルでした。しかしセリム2世や彼らの取り巻きはトルコ周辺の利害に囚われ広い視野で考えることができませんでした。ソコルルの死とともにオスマン帝国の黄金時代は終わりを迎えたといえるかもしれません。
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