シナン・パシャは16世紀のオスマン帝国の海軍提督です。
シナン・パシャの兄弟はダマット・リュステム・パシャ。スレイマン1世の娘ミフリマーフと結婚した大宰相のリュステムです。
シナン・パシャは兄を通じて皇帝の親戚になったことになります。
ソコルル・メフメト・パシャの次に海軍提督になりました。でも同じ時期に活躍したトゥルグット・レイスとは対立しました。でもトゥルグット・レイスの方が有能で人気があり。シナン・パシャは部下たちから人気がありませんでした。
シナン・パシャはどのような人物だったのか紹介します。
シナン・ユスフ・パシャの史実
通称:シナン・パシャ(Sinan Paşa)
別名:シナヌッデン・ユスフ・パシャ(Sinanüddin Yusuf Paşa)
地位:オスマン帝国海軍提督
出身地:ヘツツェゴビナ
生年:不明
没年:1553年
父:ムスタファ・ベイ
母:不明
兄:ダマット・リュステム・パシャ、
妹:ネフィス
シナン・パシャはクロアチア人かボスニア人。
サラエボ近くのブトミルまたはサラエボポリェという村のキリスト教徒の家で生まれました。
父の名前はムスタファ・ベイと言われます。これはイスラム教徒に改修後の名前です。キリスト教を信仰していたころの本名はわかりません。
名字は「キスジョビッチ(Öpuçovic)」もしくは「シガル(Cığaliç)」といわれます。
シナン・パシャの本名もわかりません。
シナン・パシャはイスタンブールにあるエンデラン(国立学校)を卒業後、海軍に入隊。
海軍提督のソコルル・メフメト・パシャのもとで働いていました。
海軍提督になる
1550年。宰相になったソコルル・メフメト・パシャの後任としてシナン・パシャが海軍提督になりました。
シナン・パシャの兄は大宰相のリュステム・パシャです。
リュステム・パシャはムスタファ皇子がアナトリアから海を渡りイスタンブールに来るのを阻止するために弟を海軍提督にしたようです。
しかしシナン・パシャが海軍提督になった時期には、さらに有能なトゥルグット・レイスという艦隊司令官がいました。
トゥルグット・レイスは船長や船員からの人気が高い人物でした。海軍の兵たちは海軍司令としての才能ならトゥルグット・レイスの方が上だと思っていました。提督にはシナン・パシャではなくトゥルグット・レイスが相応しいと言う人もいました。
トゥルグット・レイスとシナン・パシャは北アフリカで一緒に多くの遠征に参加しました。でも二人は作戦への考え方からシナン・パシャとトゥルグット・レイスはしばしば対立しました。
1551年。マルタ騎士団に対してトリポリを包囲。このときの海軍提督はシナン・パシャでしたが、実際には地中海艦隊をひきいていたトゥルグット・レイスの功績と言われています。
この作戦の後。
オスマン帝国の艦隊全体が海軍提督シナン・パシャの指揮を離れ、トゥルグット・レイスを追ってティレニア海に行ってしまいました。
彼らは「自分たちの指揮官はトゥルグット・レイスだけだ」と宣言しました。でもトゥルグット・レイスはそれでは反逆罪になってしまうので、シナン・パシャのもとに戻るように言いました。トゥルグット・レイスの命令で艦隊はシナン・パシャのもとに戻りました。
皇帝スレイマン1世はこの事件に非常に腹を立てましたが、一方ではトゥルグット・レイスの能力と忠誠心を高く評価しました。
そしてシナン・パシャに「トゥルグット・レイスの勧めることは何でもやるように」と命令しました。
1553年。彼はフランスを支援するための地中海作戦でオスマン帝国海軍の司令官を務めました。
1553年12月。シナン・パシャはイスタンブールの自宅で亡くなりました。
ユスキュダルにあるミフリマースルタンモスクに埋葬されました。
彼が亡くなったとき、彼には2人の娘と1人の息子がいました。
シナン・パシャは生前 ベシクタシュにシナン・パシャ・モスクを建てていました。設計したのはミマール・シナンです。
ところがシナン・パシャの死には間に合わなかったので、ミマール・スシナンがユスキュダルに建てたミフリマーフ・スルタン・モスクに埋葬されました。
ミフリマーフはシナン・パシャにとって兄の妻(義姉)になります。
シナン・パシャの人柄
人物像については、正反対の説がああります。
オスマン帝国の歴史家イブラヒム・ペチェヴィーは「シナン・パシャは高飛車な誇大妄想狂で、他人の意見やアドバイスに耳を貸さず、冷たい目を持っていた」と書いている。
一方、スペインの年代記作家は「シナン・パシャは勇敢な心を持ち、友好的な性格の人物であった」と書いています。
どちらが正しいのでしょうか。
国内では偉そうにして人の意見を聞かず、ヨーロッパ人には愛想が良かったのかもしれません。
スペインはオスマン帝国と激しく対立していた国です。オスマン帝国国内では絶大な人気を誇るフズル提督がキリスト教圏では「バルバロス(赤ひげ)」と呼ばれ悪魔扱いされていたように。有能なオスマン帝国軍人はたいていはキリスト教圏の人々から嫌われています。
シナン・パシャが敵対国の人に「友好的」と言われたり褒められるのはおかしな話です。
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