リュステム・パシャはオスマン帝国の大宰相。
ヒュッレムの娘ミフリマーフ皇女と結婚してオスマン帝国の大宰相になりました。
オスマン帝国でも最も影響力のあった大宰相一人だといわれます。
ダマト・リュステム・パシャとも呼ばれます。ダマト(damat)とは「義理の息子」という意味。皇帝スレイマン1世の娘と結婚して皇帝の義理の息子になったためです。
リュステムは背が低く顔がはれぼったい人物だったといわれます。決して美形とはいえません。しかし冷静さと頭の良さで実績を重ね、スレイマンの信頼を勝ち取りました。とくに経済の知識はすぐれていたといいます。
リュステム・パシャについて紹介します。
リュステム・パシャの史実
名前:リュステム
地位:オスマン帝国大宰相
生年:1500年
没年:1561年
父:ムスタファ・ベイ
母:不明
弟:シナン・パシャ
姉妹:ネフィーゼ
妻:ミフリマーフ皇女
子供:2男1女
長女:アイシェ
長男:オスマン
次男:メフメド
1500年。現在のクロアチアのスクラディンで生まれました。親はクロアチア人だったといわれます。家の名前(名字)はオプコヴィッチといわれます。
子供の頃にデヴシルメ(徴用)によってイスタンブルに連れてこられました。デヴシルメされる男子は8~10歳が理想とされ8歳未満は禁止されていました。リュステムも8~10歳のころに連れてこられたようです。
イスタンブルでは国の造った学校に通いました。学校ではイスラム教に改宗し、トルコ語を含めた3つの言語の読み書きができるようになりました。当時の最新の科学の知識や経済も学びました。軍人としての訓練も受けました。
学校を卒業後、リュステムは軍人や官僚としての経歴を積み重ねました。
1526年のモハーチの戦いではシラハーダ(騎兵師団の武器持ち)として参加しました。シラハーダで勇気と忠誠心が証明されれば正規の兵士になることができます。
皇室との繋がりができる
数年後、リュステムはミラフル・イ・エヴヴェル・アガ(皇室の馬小屋の監督)、リカブ・ダル(支配者が馬に乗るときのアブミ持ち)主馬頭になりました。
リュステムはスレイマンの遠征中に付き従っていました。そのためミフリマーフと知り合う前からスレイマンはリュステムを知っていました。
リュステムはヒュッレムの息子の家庭教師だったのでその影響でスレイマン付きの馬係になったのかもしれません。
リュステムは理性的で冷静な人物でした。またリュステムは皇帝への忠誠心が高くスンニー派でもあったので法学者のエブッスード・エフェンディとスレイマン1世との関係を良くするのに貢献しました。リュステムの仲立ちでスレイマンの信頼を得たエブッスード・エフェンディはオスマン帝国内でもイスラムの最高の地位につきました。のちにエブッスードはスレイマン1世やあとを継いだセリム2世をイスラム法の立場から助けます。戦争をするにも大義名分が必要なため宗教的指導者の協力は必要なのです。
1536年。大宰相イブラヒム・パシャが処刑されました。しかしこのときリュステムはミフリマーフと結婚する前。イブラヒムの失脚には関わっていないようです。
1538年。アナトリアの総督になりました。
ミフリマーフ皇女と結婚
1539年。スレイマン1世とヒュッレムの娘ミフリマーフ皇女と結婚しました。このときは宰相の一人でした。この年、第三宰相になりました。
1541年。第ニ宰相になりました。
1544年。大宰相になりました。
リュステムはヨーロッパ諸国やインドとも外交を行い貿易協定を結びました。フェルナンド1世やカール5世と協定を結び以後14年以上オスマン帝国とヨーロッパ諸国は戦うことはありませんでした。フェルナンド1世はハンガリーの権利を放棄して毎年3万ドルをオスマン帝国に支払うことに合意しました。
サファビー朝との戦後交渉もまとめました。
ムスタファの処刑
1553年。ヒュレムは息子を王位後継者しようとしていました。スレイマンに対して、ムスタファが父を殺そうとしていると告げ口したのはリュステムでした。またムスタファにスレイマンのもとに来るように連絡しました。スレイマンのもとにやってきたムスタファはその場で殺害されました。殺害の命令を出したのはスレイマン1世ですが、そのようにしむけたのはリュステムやヒュレムたちといわれます。
兵士や国民はリュステムのせいでムスタファが死んだと信じていたためリュステムを処罰するように批判が起こります。ヒュレムはスレイマンに義理の息子を処罰しないように懇願しました。
スレイマンも兵士たちの意見を無視できずリュステムを大宰相から外しました。その後、ユスキュダルで暮らしました。
1555年。リュステムは大宰相カラ・アーメド・パシャを贈賄容疑で告発。カラ・アーメド・パシャは処刑されました。
この年、ヒュッレムの協力もありリュステムは再び大宰相になりました。
莫大な財産
リュステムは大宰相の任期期間に莫大な富を蓄えました。
前の所有者がわからない土地や財産もありました。イブラヒムから没収した財産ではないかといわれます。
投資家としても有能だったようです。インドやヨーロッパとの貿易でも莫大な利益を得ていました。さらにリュステムに取り入る者たちからも献金を受け取っていました。彼らに役職を与えることもあったので、そうなると賄賂政治家です。
お金に対しては抜け目がなく貧欲でお金を含む自分の利益を得ることが大きな関心でした。
蓄財には熱心な一方で贅沢な暮らしにはあまり興味はなかったようです。資産家のわりには生活は質素だったと言います。でもリュステムはオスマン帝国が行った遠征や建築など、様々なプロジェクトに資金を提供しました。
リュステムは生涯を通じて何度も贈収賄や盗難で告発されました。でも罪に問われることはありませんでした。トルコの歴史家は彼が陰謀や腐敗とは無縁の人物だったからだといいますが、スレイマンがリュステムを盲目的に信用していたというのも大きな理由でしょう。
リュステムと会ったヨーロッパの人々は彼を「抜け目のない人物」「常に悲観的で無作法な人物」だと書き残しています。
しかしリュステムの生活スタイルは豪華ではなく控えめで、一見すると賄賂をもらわない政治家と考えられていたためスレイマン1世からも高く評価されていました。
リュステムは自分の財力で道路を整備して自分の土地に学校、病院、公衆浴場を建てるなど、慈善事業に熱心でした。その影響からかミフリマーフもいくつかの慈善事業をおこなっています。
自分の生活は控えめ、国のためにはお金を出す。そうしてリュステムはスレイマンや人々の評判を良くしようとしていたのでしょう。イブラヒムがヨーロッパ調の派手な生活をしてイスラム教徒の反感をかったのを見ていたので反面教師にしたのかもしれません。
ミフリマーフとの関係
リュステムとミフリマーフは当時の王侯貴族と同じように親の決めた政略結婚でした。22歳も年の離れた結婚は決して幸せとはいえなかったかもしれません。二人の間には、スレイマンとヒュッレムののような恋愛の詩はみつかっていません。
しかしミフリマーフはリュステムを弟の先生として、父の忠実な部下として尊敬はしていたようです。
ミフリマーフはいつもリュステムのそばにいて彼のいいつけを守りました。慈善事業に熱心だったリュステムの影響で、リュステムの死後もミフリマーフは慈善事業に積極的に取り組むようになりました。ミフリマーフにとってリュステムは夫婦というより人生の先輩のような存在だったのかもしれません。
1561年。リュステムが死亡。水頭症だといわれます。
このとき、ルメリアとアナトリアに815の土地、476の工場、1,700人の奴隷、2,900頭の軍馬、1,106頭のラクダ、5000冊以上の本などがあったといわれます。
イブラヒムを反面教師にして地位を守る
リュステムはイブラヒムと似たような経緯でオスマン帝国にやってきて大宰相になりました。イブラヒムとはタイプが違いますが、策略家としては優秀でした。
しかしイブラヒムがキリスト教様式の生活を守っていたのに対して、リュステムはイスラム教関係者と交流してイスラムの世界に馴染んでいました。イブラヒムは「宮殿」といわれるほど大きな豪邸を立てて贅沢な暮らしをしていましたが、リュステムは莫大な財産をもつにもかかわらず生活は質素でした。人に対しては厳しかったイブラヒムに対してリュステムは冷静で人前では感情を表に出すことはなかったようです。
リュステムの行いはまるでイブラヒムを反面教師にしたかのようです。
軍人としても優秀だったイブラヒムに対して、リュステムは軍での目立った功績がありません。そのかわり経済の知識が優れていました。
ムスタファの失脚に加担して一度は地位を失いますが、再び大宰相になり死ぬまでその地位を守りました。
記録からはあまりにも非の打ち所のない姿ばかりがでてきます。野心を持ちつつも人にさとられない賢さがあったのでしょう。イブラヒム以上にしたたかな人物だったようです。
現代のトルコ共和国では意外と評価が高い人物で、どちらかといえばイブラヒムのほうが悪役のように扱われています。
コメント
コメント一覧 (2件)
明治天皇にアブデュルハミト2世より、贈られた絵画の中に、リュステム・パシャ・ジャーミイという
作品があり、16世紀にイスタンブールに建てられたジャーミー(礼拝堂)の入り口に立っているリュステム・パシャを描いています。 和歌山と皇室 宮内庁三の丸尚蔵館名品展という小冊子
和歌山県立博物館の図録で、19ページ、番号22です。
歴史上の実在の人物であったのだと、リュステム・パシャを見つけて、とても、うれしくなりました。
前山由紀子こんにちは。
リュステム・パシャ・ジャーミイはドラマの中でもリュステムがミマール・シナンに建設を指示していた礼拝堂(モスク)ですね。オスマン帝国は明治の日本とも交流があったことは聞いたことがありますが、リュステム・パシャが建てた礼拝堂を描いた絵画が日本にあったとは知りませんでした。見てみたいですね。