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イブラヒム・パシャ:スレイマンに寵愛されて捨てられたオスマン帝国大宰相

オスマン帝国国旗

パルガル・イブラヒム・パシャはオスマン帝国の大宰相。スレイマン1世時代に活躍した政治家です。

ギリシア出身で奴隷としてオスマン帝国に来ましたが、スレイマン1世と親密になり。大宰相にのぼりつめます。しかし最後はスレイマンの命令で処刑されました。

テレビドラマ「オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜」でも最初は小姓頭のイブラヒムとして登場します。

パルガル(Pargali)はギリシアのパルガ出身者という意味。
パシャ(Pasha)は大臣に付けられる称号のようなものです。大臣には名前のあとにパシャと付くのが普通です。

歴史上のイブラハム・パシャについて紹介します。

目次

パルガル・イブラヒム・パシャ

イブラヒム

名前:イブラヒム(İbrahim )
地位:オスマン帝国大宰相
生年:1493年
没年:1536年
父:ユスフ
母:不明
妻:ムシャン・ハトゥン、ハティージェ・スルタン

イブラヒムはヴェネツィア共和国の領土だったギリシア北部の町エピルスで産まれました。父親は漁師か船員でキリスト教(正教)徒だったといわれます。

子供時代(1499~1502年)にデヴシルメ(徴用)でイスタンブルにつれてこられました。

イブラヒムはオスマン帝国で教育を受け知識を身に着けます。イブラヒムはキリスト教徒(正教徒)の家に産まれましたが、オスマン帝国に来てイスラム教徒に改宗しました。

オスマン帝国のボスニア総督イスケンダー(Iskender Pasha)の領地で暮らしました。イスケンダーの娘・ハフス(Hafs)がイブラヒムに愛情を注ぎ教育を行ったといいます。

1514年ごろ。イブラヒムはオスマン帝国のマニサの宮殿に売られました。マニサでイブラヒムはスレイマンと出会い親しくなりました。ハフスがイブラヒムをスレイマンに紹介したといわれます。

スレイマンの側近として頭角をあらわす

1520年。スレイマンが皇帝に即位。イブラヒムは皇帝直属の鷹匠頭になり、その後も様々な役職を経験しました。

イブラヒムは政治や軍事で才能を発揮して昇進を重ねました。

しかしイブラヒムは他の高官からの反発をおそれて「これ以上昇進させないように」とスレイマンに直訴します。スレイマンはイブラヒムの謙虚さに満足し、自分が即位している間はイブラヒムを処刑しないと言いました。

イブラヒムはギリシアのパルガル出身だったため「パルガ人」とよばれることもあったようです。

イブラヒムはトルコ語以外にギリシャ語、アルバニア語、スラブ語が話せました。

イブラヒムはイスラム教徒に改修していましたが、キリスト教の習慣を完全に捨てたわけではありません。

両親を首都に呼び寄せました。イブラヒムの父親はユスフという名前を与えられました。オスマン帝国の官僚となりエピラフの総督を勤めました。

大宰相になる

1523年。イブラヒムは大宰相になりました。その後13年間大宰相の地位にありました。歴代の大宰相と比べても強い権力を持っており、皇帝のスレイマンに匹敵するほどの権限を持っていたといわれます。

イブラヒムは自分を捕らえたイスケンダー・パシャの孫娘、つまりハフスの娘ムシャン・ハトゥンと結婚しました。豪華な結婚式だったといわれます。

ムシャンは最初はかつての召使いだったイブラヒムを快く思っていなかったようでしたが、次第に心を通わせるようになりました。

スレイマンの妹・ハティジェとは結婚していない?

一般にはイブラヒムはスレイマンの妹ハティジェと結婚したと考えられています。しかしハティジェとの結婚したという直接の記録はありません。

そのためイブラヒムはハティジェとは結婚していない、あるいはイブラヒムと結婚したのは別の皇女ではないかという説もあります。

ムシャンとの結婚は確実。離婚した様子もありません。ハティジェと結婚した場合はイブラヒムには二人の妻がいたことなります(イスラム教では妻は4人までもてるため)。

ムシャンの死後にハティジェと再婚した可能性もあります。

皇帝並みの力を持ち外交で活躍

1525年。オスマン帝国の属領エジプト州の総督アフメト・パシャが反乱を起こしました。アフメト・パシャは処刑され、後任としてイブラヒムがエジプト州総督になりました。イブラヒムはエジプト赴任中に法律や軍の制度を改革しました。

イブラヒムはヨーロッパ諸国との外交でとくに高い成果をおさめました。イブラヒムはカトリック国との交渉では自分自身を「オスマン帝国の全ての権力は私のもとにある」と主張して有利に交渉を進めました。神聖ローマ帝国のカール5世、ヴェネツィア、フランスとも交渉を行いオスマン帝国に有利な条件で交渉をまとめています。

イブラヒムは普段は人に親切でしたが、規則を破った人には非常に厳しい人でした。また一般人同様に王族にも税を支払うように要求しました。イブラヒムのこのような態度は不公平だと感じている人々からは歓迎されました。

イブラヒム自身も膨大な富を得ましたが、学校、病院、モスクを作り福祉のために使っています。

スルタン・イブラヒム

しかしサファヴィー朝ペルシャとの戦いをめぐって財務長官イスケンデル・チェレビと意見が対立。

さらに自身の称号として採用した「セラスケル・スルタン」がスレイマンへの冒涜になるとしてスレイマンの支持を失います。

「セラスケル」とは「軍隊の頭」という意味。オスマン帝国では陸軍の最高司令官に与えられる称号です。

「スルタン」の称号はイラク周辺では部族長が一般的に名乗る称号でした。だからスルタンは何人もいるのです。

ところがトルコ系民族のオスマン帝国では「スルタン」を名乗ることができるのは「皇帝」ただ一人でした。

イブラヒムは占領地の習慣にあわせて「セラスケル・スルタン」と名乗ったのかもしれません・

でも、イスタンブルにいる人々にとっては皇帝に対する侮辱と受け止められました。

スレイマンの命令で処刑される

1536年3月15日。イブラヒムはスレイマンの夕食会に出席しました。

ところがイブラヒムは何の説明も受けずに、その場で死刑執行人によって絞殺されました。

スレイマンは自分の在任中はイブラヒムを処刑しないという誓いをたてていたため、モスクを建造して誓いを取り消したといわれます。

イブラヒムの財産は国に没収され息子も処刑されました。

イブラヒムは大きな権力と財産を手にしました。しかし宮廷内にはイブラヒムの成功を妬む人も多かったようです。

皇后ヒュッレム・ハセキ・スルタンもイブラヒムを快く思わない一人です。ヒュッレムは財務長官イスケンデルの発言を指示。イブラヒムの悪口をスレイマンに吹き込みます。スレイマンは幼馴染の裏切られたと思って激怒して処刑の命令を出しました。

ヒュッレムは自分の息子を次の皇帝にしようと考えていました。しかしイブヒムはマヒデブランの産んだムスタファを支持していました。そのため宮廷内のイブラヒムへの反発を利用したのではないかといわれます。

スレイマンは晩年イブラヒムの処刑を後悔するようになりました。晩年のスレイマンが作った詩のなかに友情と信頼を強調する詩があります。そこに描写された人物像はイブラヒムのものでした。しかし後悔は遅すぎたのでした。

イブラヒムの屋敷は現在トルコイスラム美術館になっています。

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コメント

コメント一覧 (4件)

  • 「オスマン帝国外伝〜愛と欲望のハレム〜」は、以前BSで放送していましたが、イスラム国のドラマ(トルコ)というのは大変珍しいので、とても興味深く見ました。

     しかし、当時の慣習・制度などがわからないため、奇妙に思うことがありました。それは奴隷を側室にするということです。素性の知れない者を傍に置くというのは非常に危険ではないでしょうか? 現にスレイマンに痛めつけられたヨーロッパの国が、因果を含めた美女を刺客として送り込んだエピソードもありました。

     アジアやヨーロッパであれば、国王あるいは皇帝の後宮に入るのは、貴族や高官の娘であることがほとんど(まれに平民)ですが、イスラム国では考え方が異なるのでしょうか?

     また、スレイマンの長子ムスタファが任地で平民の娘と恋に落ちた際に、母親のマヒデブランから猛反対され、別れるよう強く命じられたのも解せません。奴隷はいいけど平民の娘はダメというのはどういうこと? さっぱり理解できません。

    • 確かに戸惑いますよね。最初は「なんで?」と思いました。

      >それは奴隷を側室にするということです。素性の知れない者を傍に置くというのは非常に危険ではないでしょうか?

      安全性だけからいうと。むしろ奴隷を側室にするほうが安全です。
      名門一族の女性を後宮に入れるとその一族が敵になった場合は命を狙われる可能性があります。さらに。息子ができたら妻は実家と共謀して夫を殺害、または無理やり譲位させるとか。日本や東アジアの王朝ではたまにそういうことがあります。

      でも奴隷は故郷や家族との縁を絶たれ孤立しています。しかも成人前に連れてきて教育します。奴隷は皇帝しか頼るものがいません。生きていたいなら皇帝に危害を加えわけにいはいかないのです。

      イスラム法では母親が奴隷でも父親が自分の子と認めれば身分の高い母親から生まれた子と同じ権利が与えられます。
      だから奴隷から生まれた子でもハンデはありません。

      > 現にスレイマンに痛めつけられたヨーロッパの国が、因果を含めた美女を刺客として送り込んだエピソードもありました。

      このエピソードはドラマの作り話です。実話ではありません。
      ハレムに入る女性は成人する前に連れてきて教育します。すでに成人した女性をハレムに入れることはありません。
      教育が終わっても下働きの侍女になるかもしれませんし、他の高官の奴隷にされることもあります。皇帝の側室になるのは厳選された一部の人だけ。
      刺客を皇帝の側室に狙って送り込むのは不可能に近いです。

      >奴隷はいいけど平民の娘はダメというのはどういうこと? さっぱり理解できません。

      皇帝の正妻の座は政略結婚するときのために空席にするのがオスマン帝国の習慣です。ムスタファは将来皇帝になる可能性があるので正妻を平民にすることはできません。たとえムスタファがよいと思っても、親は反対するでしょう。

      奴隷ならいいというのは側女にできるから。
      イスラム法ではイスラム教徒の平民は奴隷にはできません。
      領内の平民は普通はイスラム教徒です。
      側女=奴隷ですから。皇子でも平民の娘を側女にしたら訴えられてしまいます。だからドラマでも娘の親は正妻にしてもらえると思って期待していました。イスラム社会ではイスラム法はそのくらい効力が強いです。
      ムスタファが訴えられたら反対派(ヒュッレム達)の思うツボです。

      イスラム社会ではマヒデブランの言ってる事が正しいです。
      ちなみにこのエピソードも実話ではありません。

      イスラムやオスマン帝国は私達の知ってる王朝と習慣が違うことも多いです。
      できる限りお答えしますので。疑問に思うことがあったらまた質問してくださいね。

  • オスマン帝国外伝と混同しての感想になってしまうのですが、
    生涯を皇帝捧げて帝国の礎を築いたのに処刑されたイブラヒムは可哀そうですね。
    また、イブラヒムは権力で増長して自業自得な部分もあったとは思いますが、一途に父を信じて帝国に貢献してきたのに処刑されたムスタファとその母はもっと可哀そうですね。

    ヒュッレム妃がここまで皇帝の心を掴んで失脚することなく生涯を遂げたのはすごいと思いますが、イブラヒム、ムスタファという帝国の貢献者を排除しておいて、自分はその権力で何を成し遂げたんだろう??と思います。慈善事業はしたでしょうが、それは割と皆してますよね。彼らの代わりが自分に務まるとでも思っていたのでしょうか?
    彼女は帝国の未来に1ミリも興味がなく、自分と自分の子供さえ良ければ良いという、女性特有の視野の狭さと自分勝手さを持っていたと思います。権力を欲しがったのも保身と虚栄心からでしょうし、そのような浅はかな考えの犠牲になった彼らとオスマン帝国自体が残念です。

    皇帝の寵愛を盾に権力を握った女性は多くいますが、ポンパドゥール夫人は誰よりも政治に貢献したし、デュバリー夫人は皇帝との愛と楽しい生活で満足し、誰も必要以上に排除することはなかったです(全部フランス・・)。
    また、カトリーヌ・メディシスは皇子の摂政として権力を握り愛妾のディアーヌを追い出しましたが、それ以上の報復はせずに政治に集中しフランスに尽くしました。

    権力を握った女性の中で、ヒュッレム妃は唯一尊敬できないし彼女を愛したことで皇帝は家族、親友、帝国の威光、歴史上の名誉と、本当に全てを失ったと思います。
    そこまで好きなら王位をムスタファに譲ってヒュッレムと隠居すればよかったのに、と思いますが、絶対に権力は渡さない上に長生きしたので周囲を不幸にしましたね・・。
    権力を求めるものは己の欲求に従ってはいけないと思います。

    • 板チョコさん、こんにちは。
      確かに国全体をみればイブラヒムが長生きしてムスタファが次の皇帝になったほうが良かったかもしれませんね。確かにイブラヒムも皇帝の信頼を過信しすぎたとは思います。
      ヒュッレムは決して国を良くしようと思って力を得たのではないと思います。自分と子どもたちが生き延びるためにしたことだと思います。でも当時のオスマン帝国では皇帝が兄弟を殺してもかまわない。とされていました。実際に皇帝になるとその兄弟が殺される前例がありました。ムスタファが即位したら弟たちを殺したかどうかはわかりません。でもヒュッレムはムスタファやマヒデブランが信用できなかったのでしょう。
      皇子を支持する大臣や、娘婿のリュステムたちの思惑もありますし。「兄弟殺し」の前例もあるのでヒュッレムだけが悪いのではありませんが。オスマン帝国の損失を思うと残念ですね。

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