ピリー・レイスはオスマン帝国の海軍提督です。
15世後半から16世紀前半。第8代皇帝バヤジト2世から第10代皇帝スレイマン1世の時代に活躍しました。
レイスは「艦隊指揮官」の意味。
本名はAhmet Muhyiddin Pîrî(アフメット・ムヒッディン・ピリ)だといわれます。
オスマン帝国の海軍上級士官でした。地理学者、地図製作者としても有名です。
ピリー・レイスが1513年に作った世界地図は現存するものではトルコでは最も古い世界地図。世界的にみてもアメリカ大陸が描かれた世界としては最も古い地図のひとつといわれます。
現在では軍人としてよりも地図製作者としての方が有名です。
ピリー・レイスは功績をあげた人物でしたが、最後は命令違反の罪で処刑されています。
ピリー・レイスとはどのような人物だったのか紹介します。
ピリー・レイスの史実
名前:ピリー・レイス(Pîrî Reîs)
本名: Ahmet Muhyiddin Pîrî(アフメット・ムヒッディン・ピリ)
地位:オスマン帝国軍人
生年:1465年
没年:1553年
享年:88
父:ハジ・メフメト・ピリ(Hacı Mehmed Piri)
ダーダネルス海峡に面したゲリボル(トルコ共和国ゲリボル市)の出身。
彼の一族は中央アナトリアのカラマンで暮らしていましたが。ゲリボルに移住しました。
父ハジ・メフメトの死後、叔父のケマル・レイスに育てられました。
叔父ケマル・レイスはオスマン帝国艦隊の提督でした。ピリーもオスマン帝国海軍の軍人になりました。
バヤジト2世の時代
当時は第8代皇帝はバヤジト2世の時代。
15世紀から16世紀にかけて。地中海ではキリスト教国やイスラム教国の私掠船(しりゃくせん)が活動していました。私掠船は船や人が国から委託を受けて戦闘や略奪を行う船です。国家公認の海賊です。
若いいころのピリーは、叔父のケマル・レイスとともに、1481年にオスマン帝国の支援による私掠船に参加したました。
その後も、ピリーは叔父とともにオスマン帝国のいくつかの海戦に参加しました。
オスマン帝国はスペインに併合されそうになっていたアンダルスのムスリムを救援するためイベリアに艦隊を派遣しました。このときにもピリーは参加していました。
1499年から1502年までオスマン帝国とヴェネツィア共和国との間で戦争がおこりました。ピリーはシチリア島、コルシカ島、サルデーニャ島、フランス南岸などの海で作戦に参加しました。
「船長・艦隊指揮官」を意味する「レイス」の称号が与えられました。
1511年。エジプトに向かう叔父の船が地中海で嵐に遭いました。嵐で叔父ケマル・レイスは死亡しました。この事故の後、ピリはゲリボルに戻り、航海術の研究に専念するようになりました。
セリム1世の時代
1512年。第9代皇帝セリム1世が即位。
1513年。北回帰線からサハラ砂漠を中心とした世界地図を作成しました。
1517年。完成した地図をセリム1世に献上しました。現存する地図はその一部ですが。北アフリカ、ヨーロッパの西海岸、南アメリカの東岸が詳細に描かれています。
ピリーは自分で世界を探検したわけではありません。コロンブスが作った地図や他にも各国から20枚ほの地図を入手。それらをくみあわせて世界地図を作りました。ピリー・レイスの作った地図は当時としては精度が高いものでした。様々な情報を分析してまとめる能力が高かったようです。
セリム1世の時代。オスマン帝国は積極的に領土拡大を続けました。海軍も活動の場が広まります。
1516年から17年にかけてオスマン帝国とエジプトのマムルーク朝エジプトとの間で起きた戦闘に参加。海からセリム1世のマムルーク朝征服を援護しました。
スレイマン1世の時代
1521年。第10代皇帝スレイマン1世が即位。
航海に関する具体的なデータ、地中海の重要な都市や港の概要を記した当時の精密な海図をまとめた著書「キターブ・バハリーイェ」を出版しました。さらに1524年から25年にかけてこの本に手直しを加え改訂版を作りました。この本をスレイマン1世に献上しました。この本は290枚の地図が載った総ページ数434ページの大作でした。
1522年。オスマン帝国はロードス島から聖ヨハネ騎士団を追放するため「ロードス島包囲戦」を実施。ピリー・レイスはこの作戦に参加しました。
この戦いでオスマン帝国は勝利。騎士団は島から去りました。
1522年。スレイマン1世のロドス島遠征に参加しました。フズル・ハイレッディン(バルバロス)が帝国海軍司令官となると、その麾下の提督として活躍しました。
1524年。ピリー・レイスの船は大宰相パルガル・イブラヒム・パシャをエジプトに送りとどけました。このとき嵐が来てピリー・レイスの船はロードアイランドに避難しました。大宰相イブラヒム・パシャはピリー・レイスが素晴らしい才能の持ち主だとわかり彼の知識をまとめるように提案しました。
1528年。2つめの世界地図を作りました。この地図にはグリーンランドのほか、北はニューファンドランドとラブラドルから、南はキューバ、ジャマイカ、フロリダ、中央アメリカの一部までの北アメリカ大陸が描かれています。
ピリー・レイスの作った地図は大宰相イブラヒム・パシャを通して皇帝スレイマン1世に届けられました。
1547年。ピリー・レイスは高齢になっていましたが。スレイマン1世によって紅海に駐留するインド洋方面艦隊の司令官に任命されました。さらにエジプトでも艦隊司令官を務めました。
1548年2月26日。ペルシャ湾に進出しようとするポルトガルと戦いになり、イエメンのアデン港を占領に成功しました。
1551年にはアデンを征服、アラビア海、ペルシア湾に出動してマスカット、ホルムズ海峡を攻撃し、ポルトガルの進出を阻止しました。
最後の遠征とピリーの死
1552年。ピリー・レイス率いるオスマン艦隊はポルトガルが占領していたオマーン湾の街オールド・マスカットを攻略。その後、ペルシャ湾のホルムズ島を奪取しようとしました。ところがポルトガル軍は城に立てこもり守備をかためていたので城を占領できませんでした。ピリー・レイスは島の奪還は難しいと判断して、包囲を解いて退却しました。
ポルトガル軍に備えるために艦隊の多くをバスラに残し、ピリー・レイスは3隻の船に戦利品を積み込んで出港。エジプトのスエズにある海軍中央造船所に戻り船の修理とメンテナンスを行い船員を休息させました。
そこにバスラ知事クバド・パシャからポルトガル軍がペルシャ湾を封鎖しようとしているためピリーに出動要請が来ました。ピリーの艦隊はメンテナンス中でした。ピリー・レイスは遠征は難しいと断りました。
ピリー・レイスはホルムズ島の奪還を放棄したこととクバド・パシャの支援要請を断った罪で捕らえられました。そして皇帝スレイマン1世の命令で斬首刑になりました。ピリー・レイスの死後。彼の財産は没収されました。
なぜ、80歳を越えた高齢の提督を急いで処刑したのかはよくわかっていません。
バスラ総督のクバド・パシャとエジプト総督のメフメト・パシャはピリー・レイスと険悪だったらしく。クバド・パシャたちは皇帝にピリー・レイスを批判する報告を送っています。クバド・パシャはピリー・レイスがペルシャ湾の戦いで得た戦利品をエジプトまで持って返ったのが気に入らなかったとも言われます。
ピリー・レイスの処刑には現在でもわからない部分もあります。
テレビドラマのピリー・レイス
トルコのドラマ「オスマン帝国外伝シーズン4」に登場。
政府高官としてスレイマンに仕えながらも陰でムスタファ皇子を支える秘密組織のトップという設定。その目的はスレイマンがカプクル(徴用で集められた皇帝の下僕、イブラヒムやリュステムたちはトルコの名門出身ではなくヨーロッパから連れてこられた元キリスト教徒)を重臣に取り立てるやり方に不満を持ち、スレイマン以前の貴族中心の政治を取り戻すこと。
そのためムスタファを担いで次の皇帝にしようとしています。アトマチャたちもピリー・レイスが送り込みました。ムスタファの意志とは関係なく動いています。
ピリー・レイスは詳しい地図を作ったり情報収集能力が高く軍人としても功績を残すなど能力の高い人物です。それにも関わらず最後は謎に満ちた処刑のされ方をしているので創作作品では秘密組織の一員になっていることがよくあります。
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