ドラマ「オスマン帝国外伝」ではオスマン帝国のハレム(後宮)の様子が詳しく描かれています。
ハレム(後宮)には大勢の女性がいます。皇帝妃や側女はほとんどが「奴隷」と紹介されています。
オスマン帝国では王の母が奴隷なのも珍しくありません。
奴隷と言っても日本人が想像する奴隷はアメリカの黒人奴隷のような「強制労働させられる人たち」でしょう。
でもイスラム圏の奴隷。とくにハレムにいる人達は違います。
確かに自由はなく、自分の意志でなったわけでもありません。一般市民に比べれば制限された世界で暮らさないといけません。でもだからといって権利が無視されているわけではなく。イスラム教の範囲内で権利は認められています。
でも、そうだったとしても。どこからか連れてこられた人たちには違いありません。
なぜ素性のわからない人たちを王や皇子の妃や側室にするのでしょうか?
オスマン帝国の社会は私達が知ってる常識は通用しない部分もあります。
他の国の後宮とも違うオスマン帝国のハレムの事情について紹介します。
他の国とは違うオスマン帝国の事情
当たり前ですが。オスマン帝国は日本や中国・朝鮮の王朝とは違います。ヨーロッパの王朝とも違います。民族も宗教も文化も違います。
オスマン帝国はヨーロッパの王朝に比べれば中華王朝に似た制度があります(後宮や宦官など)。
ヨーロッパ諸国はキリスト教なので一夫一婦制です。ヨーロッパの王朝には後宮はありません。でも跡継ぎを残すために王が愛人を持つのは黙認されています。ヨーロッパの王には寵姫と呼ばれる人がいます。でも王が個人的に囲ってるだけで制度としてのハレムはない。というのがキリスト教国の主張です。
だからオスマン帝国は制度としての後宮を持つ中華王朝に近い部分が多いです。
外戚の影響を阻止するため
オスマン帝国が妃や側室を奴隷から選ぶ最大の理由は、外戚の力をなくすためです。
外戚とは妻(配偶者)の親兄弟親戚。次世代の王にとっては母方の親戚です。
様々な王朝では外戚が王の親戚になって権力を持ちました。
日本でも藤原氏や蘇我氏が権力をもっていたのは娘を天皇の妃にして、その子を次の天皇にして一族が権力を握ったから。
他の国でも似たようなことは起きていました。そうなると君主といっても操り人形です。
オスマン帝国では皇帝が親族の操り人形になるのを阻止しようとしました。そのためには皇帝の母親は力のない家出身の方が望ましい。極端にいえば身寄りのない方がいい。ということになります。
オスマン帝国でも最初のころは他国と政略結婚をしていました。でもそうなると妃の出身国の影響を受けます。
スレイマン1世の時代になるとオスマン帝国は圧倒的に強い国になったので政略結婚は必要はなくなりました。
でもそれだけが理由ではありません。
イスラムの制度があるから
オスマン帝国はイスラム教国です。イスラム教国にはイスラム法があります。これは王でも守らないといけません。宗教で法律を作ってきっちり守る。というのがイスラム教の特徴です。
オスマン帝国はアッバース朝やセルジューク朝など先輩のイスラム教国から様々な制度を学びました。
イスラム法では妻は4人まで。と決められています。
イスラム教国の王も妻は最大4人です。
イスラム教国でも普通は平民は夫一人につき妻も一人です。妻を複数もてるのは相当な財力を持ち、複数の妻と子を養える人だけです。
でも王の場合。
それだと跡継ぎを残すのにに不安がある。とか、もっと多くの女性をもちたい。と思った王もいたでしょう。
そこで女性の奴隷が必要とされました。奴隷は妻ではないので人数制限はありません。財力があれば数を増やしてもかまわないのです。
この辺の事情は中国や朝鮮のような儒教国と似ています。儒教は一夫一婦制なので、皇帝や王も妻は一人だけです。建前では。
でもそれでは満足できなかったのでしょう。側室(妾)を持つのを許されました。儒教国では側室(妾)は家来なので妻ではない。という理屈です。
屁理屈にしか聞こえませんけれど。女性の地位が低いのはイスラム教と儒教で共通する部分です。
ハレムの女性たちはどこから来るの?
政略結婚で来た人、ハレムで生まれた人を除けば。ハレムにいる人はほとんど奴隷です。
オスマン帝国の奴隷は主に次のような方法でやってきます。
これはハレムの女性にかぎらず、宦官やカプクル(皇帝に仕える役人、イブラヒムやリュステムのような人達)も同じです。
戦争の捕虜
古代から世界各地で行われている方法です。
オスマン帝国の初期はよく戦争をしていました。戦闘で勝てば捕虜を連れて帰って奴隷にします。
領土拡大が落ち着くと戦争は減ります。オスマン帝国が直接戦争をしなくてもクリミアハン国のような従属国や取引のある遊牧民族、イスラム教徒の海賊が捕虜をオスマン帝国に売っていました。彼らにとってはオスマン帝国はお得意さんなので。略奪目的の戦争も行っていました。ハレムにスラブ系(ロシアや東ヨーロッパ)の人が多いのはそのためです。
もちろん略奪される側はかなり悲惨です。捕虜になっても従順な奴隷にならないと判断されれば始末されることもあったようです。
奴隷商人から買う
戦争が減ると奴隷商人から買うことが多くなります。イスタンブールにはビザンティン帝国の時代から奴隷市場がありました。イスタンブールを占領したメフメト2世はそこをオスマン帝国初の奴隷市場にしました。その後も主要都市には奴隷市場が作られました。
中世~近世のヨーロッパ・中東には奴隷商人がいました。オスマン帝国以前からイスラム社会には奴隷売買の市場がありました。
オスマン帝国以外の国や遊牧民、海賊が捕虜にした人は奴隷商人に買い取られオスマン帝国につれてこられます。オスマン帝国はそのような奴隷商人から買っていました。
このように書くとオスマン帝国は酷いことをしているように思えます。実際ヒドイです。でもオスマン帝国だけが人身売買を行っていたのではなく、ムハンマドの時代から続く方法です。
キリスト教とイスラム教に共通なのは「異教徒は奴隷にしてもよい」こと。だからお互いに異教徒には容赦ないです。
例えば。ヨーロッパのキリスト教国はアフリカ・南北アメリカ・アジアの人々を奴隷にして売り買いしていました。世界各地で黒人の差別問題が起きるのはキリスト教国の奴隷売買の名残です。オスマン帝国以上の規模で人身売買が行われていたことがわかります。
また、戦国時代に日本に来ていた宣教師は奴隷商人と癒着して日本人を奴隷として海外に連れ出していました。
それを知った豊臣秀吉が日本人が奴隷として売られるのを阻止しようとしました。それがキリスト教禁教令がでた理由の一つです(カトリック教国は布教と貿易がセットなので、布教禁止=貿易禁止です)。
でも全盛期のオスマン帝国はキリスト教国より強かったので、キリスト教国がイスラム教徒の奴隷を獲得するのは難しかったようです。
身売り
貧しい家庭では奴隷商人に娘を売ることもありました。これも世界中で似たようなことが行われていました。中国や朝鮮王朝では年貢が払えないと平民の身分を返上して奴婢になることがあります。
イスラム教国では奴隷として売られてしまうのです。
日本でいう「身売り」はオスマン帝国でも行われていました。
ハレムに来る女性の奴隷はほとんどが奴隷市場で買われた人たちだったといわれます。
男の奴隷は役人、兵士、宦官などになります。
現代人からみると確かに非道いことですが。一部だけをみてオスマン帝国が当時としても特別残酷な国とはいえないのです。
素性がわからない人でも大丈夫なの?
イスラム教では奴隷は悪ではない
イスラム教の教祖ムハンマドは奴隷を所有していましたし、戦争捕虜のユダヤ人を妻にしていました。だからイスラム教の世界では奴隷をもつことは悪ではありません。
むしろキリスト教徒が奴隷を労働力として酷使していたのに対し。イスラム教では奴隷のあつかいにもルールがあってそれなりの待遇を与えないといけない。とされています。もちろん個人差はありますので、ヒドイ主人に仕えると虐待を受けます。それに奴隷には自由はありません。
私達が考える奴隷は西洋の奴隷のイメージがほとんどですが。イスラム社会では違う部分もあります。
ハレムに来る女性の多くが奴隷市場で買われた人です。買われるのは未成年です。
王宮の役人が市場に買いに行く場合もあれば、高官が購入した奴隷を皇帝に献上することもあります。ヒュッレムは奴隷市場で売られていました。彼女を買ったのがイブラヒムで。イブラヒムがスレイマンに献上しました。
でも誰もが皇帝の側室(側女)になるわけではありません。
奴隷商人から買われた少女たちは施設に集められて教育を受けます。トルコ語やイスラム教、様々な教養を身につけます。
ハレムの女性は成人する前に故郷から切り離されて、遠く離れたイスタンブルにつれてこられます。若いときに教育するので抵抗する意欲も起こりません。宮殿をいきなり追い出されたら行きていく術がありません。とくにイスラム教社会では女性が一人で生きていくのはかなり難しいです。
教育を受けた女性たちは。宮廷で働く侍女、高官に与えられる人、皇子や皇帝のハレムに行く人など。選別が行われます。
当然、皇帝のハレムに入るのは厳しく選ばれた人だけです。
王宮の役人に買われたからといって皇帝の側女になるとは限りません。
ドラマのように女性工作員を皇帝のハレムに送り込んで皇帝を暗殺する。というのはかなり難しい。というか現実的には無理です。
イブラヒム達、スレイマン時代の大宰相や宰相もほとんど男の奴隷(カプクル)ですが。彼らも事情はハレムの女性と同じです。
子供の頃に連れてこられ、故郷から隔離されて教育されているので帝国に頼ってそこで生きていくしかありません。
逃げずにそこで暮らしているのはそのためです。
例えば奴隷というとキリスト教国で使われていた黒人奴隷を思いうかべるかもしれません。戦国時代に日本に来たヨーロッパの宣教師が連れている黒人の従者も同じです。彼らも子供の頃に拉致されたり売られてきた奴隷です。
子供の頃に故郷から離されて教育を受け。適切と判断されれば宣教師の従者になります。彼らは鎖で繋がれたりムチで叩かれなくても、宣教師に付き従って街の中を歩いていました。身体能力では勝る立派な体格の黒人男性が、体力では劣る白人宣教師に付き従っているのはそのように教育されているからです。
王の母が奴隷でも問題ない
遊牧民世界では母親の血筋も重要です。他の多くの王朝も母親の血筋も重要とされます。
でもオスマン帝国は母親の血筋は関係ありません。それはイスラム法を採用しているからです。
イスラム法では子供の身分は母親の身分には影響されません。父親が「自分の子だ」と認めていれば。貴族の母から生まれた子供も、奴隷の母から生まれた子供も権利は同じです。
オスマン帝国よりも古いアッバース朝(一般にイスラム帝国と呼ばれます)から続く伝統です。アッバース朝では奴隷の母をもつ王が何人もいました。
「母が奴隷」でも王の権威が落ちたりはしないのです。
オスマン帝国は奴隷戦士の子孫?
もうひとつ。奴隷とオスマン帝国の関わりを紹介します。
オスマン帝国を作ったのはトルコ人。トルコ人の祖先は中央アジアにいた遊牧民族のテュルク人。テュルクは漢字で「突厥(とっけつ)」と描きます。隋・唐と戦っていた突厥ですね。
オスマン帝国では建国者オスマン1世の祖先はテュルク系遊牧民の英雄オグス・ハンの子孫だと名乗っています。
歴史的には、中央アジアにいたテュルク人の一部はイスラム帝国(アッバース朝)に敗れ捕虜になりました。戦争捕虜以外に人身売買で連れてこられた人もいます。イスラム商人は各地で人身売買をおこなっていたので、中央アジアの遊牧民から子供を買ってはイスラム帝国に奴隷として売っていました。このやり方はのちのイスラム諸国やオスマン帝国に引き継がれます。
テュルク人は強力な騎兵になるのでイスラム社会ではマムルーク(奴隷戦士)と呼ばれ傭兵になりました。
やがてイスラム帝国から独立したマムルークたちが自分の領地を持ち。その中から自分の国を持つ者が出てきます。それがオスマン帝国を作った人たちです。
遠い祖先が奴隷戦士だったから。
というのが影響してるかどうかわかりませんが。ヨーロッパや東アジアの王朝みたいに両親ともに良血や純血にはこだわりがなかったようです。
皇帝(王)の息子ならそれでいい。
というのがオスマン帝国や当時のイスラム系王朝でした。
コメント