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マニサ・アマスヤ・コンヤ・キュタフヤ・オスマン帝国の皇子たちが暮らした都市

マニサ

オスマン帝国では皇子は成人すると地方都市の知事になります。

統治者としての経験を積むためです。

でもどの都市でもいいわけではなく、皇子が赴任する都市はあるていど決まっていました。

とくにマニサは「玉座の県」ともいわれ、有力な皇子の赴任先として選ばれました。

マニサだけではありません。他にも有力な都市はあります。

どのような都市が皇子の赴任先になるのか紹介します。

目次

オスマン帝国の町

 

オスマン帝国の都市

イスタンブール(İstanbul)

オスマン帝国の首都。
現在のトルコ共和国の首都。
イスタンブール県とイスタンブール特別市域が同じ。
2019年の人口は1550万人。ヨーロッパ最大の都市です。

普通は日本語でイスタンブールと書きます。トルコ語の発音は”イスタンブル”に近いです。

ボスポラス海峡を挟んでトルコ系民族が暮らしていたアジア側(アナトリア)とヨーロッパ側(バルカン半島側)にまたがる都市。

かつてはビザンティン帝国(東ローマ帝国)の首都・コンスタンティノポリスでした。
1453年。メフメト2世が占領。コンスタンティノポリスの占領は約1000年続いたビザンティン帝国の滅亡でもあったのでキリスト教世界には大きな衝撃でした。

オスマン帝国ではイスタンブルと呼ばれました。その後、オスマン帝国やトルコ共和国の首都になって今に至ります。

占領直後に市街地に造ったエスキサライ(旧宮殿)とその後、海が見える高台に造ったイェニサライ(新宮殿)があります。トプカプ宮殿とよばれるのは新宮殿の方。

皇帝とその家族が暮らしているのはトプカプ宮殿です。

皇子たちは成人するとここを出て各地方に向かいます。そのとき母親も一緒に赴任先に向かうのが普通です。その前例を覆したのがヒュッレムです。というよりスレイマン1世がヒュッレムを手放さなかったのです。

マニサ(Manisa)

マニサ

現在のマニサ市
提供:Dick Osseman

トルコ西部の町。

現在のトルコ共和国マニサ県マニサ市。県庁所在地。
2012年の人口は35万人。
イスタンブルからの直線距離は約350km。

かつてはビザンティン帝国の都市として栄えました。

1410年。オスマン帝国が占領。戦いで一時は廃墟になりましたが、オスマン帝国が復興。豊かな街になりました。

いくつかある皇子の赴任先でも一番イスタンブルに近いため。最も有力な皇子の赴任先とされました。オスマン帝国には「皇太子」という地位はありませんが、マニサを治める皇子が事実上の皇太子と考えられていました。

メフメド2世、スレイマン1世など歴代の皇帝が若い頃に知事を務めています。

スレイマン1世の皇子、ムスタファが知事を務めたのもマニサ。その後、メフメト、セリム2世も知事を務めました。いずれも赴任したときには最も次の皇帝に近いと考えられていた皇子です。

マニサはアナトリア州に所属していました。皇子が統治する地域のため大きな自治権が認められていました。

マニサは有力な皇子の赴任先になっていました。ところが1595年、皇子の赴任先から外されます。兵士たちが皇子をかついで反乱を起こす可能性が高くなったこと。この年に大きな地震があったのもきっかけの一つでした。

現在でもアマスィヤ、トラブゾンとともに Şehzadelerşehri(皇子の町)と呼ばれ歴史的な建造物が多く残る街です。日本でいえば「小京都」のような感じでしょうか。

スレイマン1世の母・ハフサスルタンが建てたキュリエ(モスク・病院・学校・食堂が併設された複合施設)があります。「オスマン帝国外伝シーズン4」でも「ハフサモスク」という名前で登場します。

マニサとイズミルの間にはスピル山(Spil Dağı)を含む山々が広がります。スピル山は紀元前にこの地域を支配したフリギュア人から女神シベル(Cybele、キュベレーともいいます)の山と考えられ聖地とされていました。現在では国立公園に指定され観光名所にもなっています。

ドラマ「オスマン帝国外伝」でも、場面がマニサに切り替わるときに山の麓に広がる街が映されます。マニサにとってスピル山は重要な場所なのです。

アマスィヤ(Amasya)

アマスヤ

イェシル川とアマスヤの市街地

トルコ北部の町。黒海につながるイェシル川沿いに広がる街。

現在のトルコ共和国アマスィヤ県アマスィヤ市。県庁所在地。
2019年の人口は15万人。

ローマ帝国時代には文化の町として発展。11世紀にテュルク系遊牧民に征服され、その後は歴代のイスラム王朝が支配しました。教育や文化が栄えた町です。

1390年代、4代皇帝バヤジト1世時代にオスマン帝国の領土になりました。

オスマン帝国の皇子が経験を積むために赴任先として選ばれることが多いです。トルコ人の他、ギリシア人、アルメニア人、ボスニア人、タタール人など様々な民族が暮らす町です。そのため帝国の統治者が学ぶ場所として最適と考えられました。

若い頃アマスィヤの知事を務めた皇帝はメフメド1世、メフメド2世、バヤジット2世、ムラド3世など。

1541年。スレイマン1世の皇子ムスタファも知事になりました。

オスマン帝国末期に、トルコ革命宣言が行われたのもアマスィヤです。

トラブゾン(Trabson)

トルコ北東部の黒海沿岸にある都市。
現在のトルコ共和国トラブゾン県トラブゾン市。県庁所在地。
2012年の人口は31万人。

ビザンティン帝国時代にはペルシャやコーカサス地方に向かう交通の要衝でした。商業が発展した町です。

1204年にトラブゾン帝国の首都になりましたが。1461年。メフメド2世に占領されオスマン帝国の領土になりました。

バヤジト2世、セリム1世が皇子時代に知事をしていました。その間にセリム1世やスレイマン1世が生まれています。

皇子の赴任先になることも多いのですが、イスタンブルから遠いため王位争いには「不利」といわれます。

マニサ、アマスィヤとともに「皇子の街」と呼ばれます。

コンヤ(Konya)

セミリエモスク

セミリエモスク(Selimiye Camii)

現在のトルコ共和国コンヤ県コンヤ市。県庁所在地。2019年の人口は223万人。トルコで7番目に人口の多い都市。

紀元前、フリギュア時代から存在する都市。アレクサンドロス大王やローマ帝国の支配下で栄えました。ローマ帝国・ビザンティン帝国時代にはキリスト教徒が多い街でした。1076年、セルジューク朝の領土になりイスラム教徒が増えました。セルジューク朝滅亡後はカラマン君侯国の首都になりました。

1466年。オスマン帝国第7代皇帝・メフメト2世に占領されオスマン帝国の領土になりました。

イスラム神秘主義のメヴレヴィー教団発祥の地。くるくる回るスーフィダンスで知られた教団。現在は観光向けに公開されています。

スーフィーダンス

オスマン帝国時代には宗教都市として栄えました。

日本でいえば奈良や京都のような街。

イスタンブルから遠いため有力な皇子の赴任先としては一般的ではありません。
1549年。ムスタファがコンヤの知事になりました。

現在でも多くのモスクや歴史的建造物があり、観光地になっています。京都市の姉妹都市です。

キュタフヤ(Kütahya)

キュタヒヤともいいます。

現代はトルコ共和国キュタフヤ県キュタフヤ市。県庁所在地。
2019年の人口は27万人。

アナトリア側の内陸にあり交通の要衝でした。古代にはビザンティン帝国、その後はセルジューク朝の支配下にありました。

1381年にオスマン帝国の領土になりました。その後、オスマン帝国から分裂したこともありましたが、1402年にオスマン帝国の領土になりました。

オスマン帝国ではアナトリア州の州都でした。

陶磁器の生産が盛んな都市です。

皇子の赴任先としては一般的ではありません。

1541年。スレイマン1世の皇子バヤジトが知事になったこともあります。

 

 

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