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オスマン帝国の皇帝が「兄弟殺し」をする理由

オスマン帝国国旗

オスマン帝国外伝ではシーズン3以降「兄弟殺し」の慣習が話題になります。

皇帝になった者は「兄弟を殺してもよい」という慣習です。

たいへん残酷な制度のように思えますよね。

もちろん、どこの王朝でも後継者争いや王族間の権力争いは起こります。その争いを避けるために始まった制度です。

とってもオスマン帝国では最初から兄弟を殺していたわけではありません。反乱者を処分することは行われていました。やがて反乱を起こしていない兄弟への処分も行われるようになります。

なぜこのような習慣ができたのかそのいきさつを紹介します。

目次

オスマン帝国の皇帝はなぜ兄弟を殺すのか?

ムラト1世が行った反乱者への目潰し

1362年ごろ。第3代皇帝ムラト1世が即位。

1371年。息子のサヴジュがビザンツ帝国の皇子アンドロニコスと同盟して反乱を起こしました。

ムラト1世は反乱を鎮圧。息子のサヴジュを捉えて目を潰しました。アンドロニコスもビザンツ皇帝に捕まり目を潰されました。

このときは反乱を行った者への処分。兄弟ではなく息子でした。

ムラト2世が行った兄弟への目潰し

1421年。第6代皇帝 ムラド2世が即位しました。ところが即位直後の不安定な時期を狙って反乱が起こりました。

ひとつは伯父ムスタファ(オスマン帝国では偽ムスタファと呼んでいました)。もうひとつは弟ムスタファの反乱です。

即位したばかりのムラト2世は伯父と弟の二人のムスタファの反乱を鎮圧。捉えて処刑しました。彼らは反乱を起こしたので処刑されても仕方ないかもしれません。

ところがムラト2世は反乱をおこしていない2人の弟ユースフとマフムトの目を潰しました。

目が見えなければ将来、王の役目を果たすことはできません。ふたたび反乱がおこらないように弟たちの目を潰したのです。

王位争いに負けた者への処分はオスマン帝国だけではなかった

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では王位争いに破れた者が「目潰し」されるのはよくあることでした。他にも手を切り落とす、鼻を削ぎ落とす、去勢することもありました。

またイスラム社会ではカリフ(イスラム国家の指導者)になる者は「五体満足でなければいけない」という決まりがありました。身体障害者は指導者にはなれないのです。そのためイスラム教国でも王位争いに破れた者が「目潰し」された例がありました。

ムラド2世はこうした当時の習慣に従って処分をおこなったのでしょう。

兄弟殺しの始まり メフメト2世

メフメト2世

メフメト2世

 

反乱を起こしていない兄弟を殺した皇帝はメフメト2世が最初です。

1451年。メフメトは第7代皇帝になりました。

このとき、メフメト2世は弟のアフメトを処刑しました。当時、アフメトは生まれてまもない乳児でした。アフメトがすぐに反乱を起こすとは考えられません。ところがメフメト2世は幼い弟の処刑を命じたのです。

メフメト2世が幼い弟を殺した理由は何でしょうか?そこにはオスマン帝国独特の事情があるようです。

オスマン帝国では外戚が力を持つのをを非常に嫌いました。

外戚とは、妃の実家、皇子の母方の実家です。

日本でいえば蘇我氏、藤原氏、平氏のように天皇の妃として娘を嫁がせ、生まれた皇子を次の天皇にしてその母方の祖父が実権を握る。というパターンです。

アジアの王室ではよくあるパターンです。

これが行われると王家の権力が弱くなってしまいます。

オスマン帝国では外戚に力を奪われて皇帝がお飾りになるのを非常に恐れました。そのため政略結婚で仕方ない場合を除いて皇子の妃にはできるだけ実家の力がない人物を選んでいました。そのため側女(奴隷)が皇帝妃になるのは当たり前でした。

ところがアフメトの母ハティージェはジャンダル侯国の王女。という立派な家柄の女性です。いずれジャンダル侯国がアフメトを担いで反乱を起こしたり、圧力をかけてくるかもしれません。

またオスマン帝国では王子が息子をもうけたら君主は新しい子供を作らない。という慣習がありました。

幼すぎる皇帝が誕生するのを防ぐ狙いがありました。臣下が幼い皇子をかついで操り人形の皇帝が誕生するのを防ぐためです。

息子が子供ができるくらい成人したら皇帝は子供を作る必要がないのです。

しかしそれを破ったのがムラド2世でした。

犠牲になったアフメトには気の毒ですが、メフメト2世にしてみれば「慣習を破った父・ムラド2世が悪い」と言うかもしれません。

兄弟殺しを正当化

しかしやはり自分の行ったことへの後ろめたさがあったのでしょうか。メフメト2世は自分の行ったことを正当化しようとしました。

メフメト2世が晩年に作った法令集では「世界の秩序のために兄弟を処刑することは許される」という規定が作られました。

この法律で兄弟殺しが正当化されたのです。

この規定がドラマ「オスマン帝国外伝」でも語られる「兄弟殺し」の根拠です。

違法行為の法律

イスラム教の世界では、罪のないイスラム教徒の自由人を殺すことは禁止されています。しかしオスマン帝国では、皇帝は「兄弟」という理由だけで処刑できると決めたのです。

オスマン帝国の「兄弟殺し」の規定はイスラム教社会では違法行為です。ところがオスマン帝国はアラブ諸国ほどイスラム教の教えには忠実でありません。独自の解釈で法律を作ることがありました。

兄弟の争いが続く

8代皇帝 バヤジト2世は弟に反乱を起こされる

メフメト2世の死後。皇帝になったのはバヤジト2世。

バヤジト2世には弟のジェムがいました。

バヤジト2世の即位後、ジェムは反乱を起こしました。戦いに敗れたジェムはヨーロッパに落ち延びますが亡命先で死亡します。

9代皇帝 セリム1世は自分で反乱を起こして兄弟を処刑

バヤジト2世の死後、皇帝になったのはセリム1世です。バヤジト2世には成人した皇子が3人いました。3人が王位を巡って争っていました。

軍の指示を得たセリムは父バヤジト2世が生きている間に反乱を起こして皇帝になりました。セリム1世は兄弟のアフメトとコルクトを破り処刑しました。

10代皇帝 スレイマン1世は兄弟殺しはしていないが息子は処刑

セリム1世の次に皇帝になったのがスレイマン1世です。スレイマン1世が即位した頃には兄弟はいなかったので兄弟殺しは行ってません。

スレイマンの時代までにも歴代の皇帝が兄弟を処刑した例はいくつかあります。ほとんどが争っていた相手です。争っていない兄弟を殺したのはメフメト2世くらいです。

しかしメフメト2世の作った「兄弟殺し」の規定がある限り、争いに破れた兄弟は「殺される」という恐怖感がつきまといます。帝国を安泰にするはずの規定が逆に争いを起こしてしまう可能性もあったのです。

そのため、スレイマンの皇子同士の争いは激しくならざるを得ません。

でも「兄弟を処刑することは許される」ですから。必ず処刑しなければいけない。と決まってるわけではありません。殺すかどうかは皇帝次第です。でもこの規定があるかぎり「ころしてもいい」と正当化できます。

 

11代皇帝セリム2世は兄弟殺しをしなくですんだ

11代皇帝セリム2世が即位したときは、兄弟はいませんでした。

スレイマン1世が生前にライバルになりそうな兄弟を処分していたためです。ある意味。セリム2世が兄弟殺しをしなくてすんだのは、スレイマン1世のおかげといえます。

12代 皇帝ムラト3世は慣習通り兄弟殺しを実施

ムラト3世の即位後。兄弟は処刑されました。慣習を守ったのです。

13代 皇帝メフメト3世 は19人の弟を処刑

メフメト3世が即位したとき、19人の弟がいました。「兄弟殺し」の規定を知らされていない弟たちは兄の即位を祝いました。しかし19人全員が処刑されてしまいます。

この行いはあまりにも酷い、ということで人々は非難しました。

兄弟殺しの終わり 14代 皇帝 アフメト1世

1603年。アフメト1世が即位しました。わずか13歳の皇帝でした。

その理由は父メフメト3世が若くして死亡したこと。長子マフムトを謀反の疑いで処刑してしまったからです。

アフメト1世には弟のムスタファがいました。慣習どおりならムスタファは処刑されるところでした。でもあまりにも幼い皇帝に不安を覚えた高官たちは兄弟殺しは実行しませんでした。

先代の悲惨な出来事に対する人々の批判もありました。

ムスタファは生かされました。アフメト1世に子供ができた後もムスタファが処刑されることはありませんでした。一説には病だったから。ともいわれますが。皇帝が即位したら「慣習だから」と兄弟殺しが行われることはなくなりました。

鳥籠制度

その変わり兄弟は宮殿内で隔離されて暮らすことになります。この制度を 鳥籠(カフェス)制度といいます。外の人と会うことはできませんし、自由はありません。

皇帝の方針によってはある程度の自由が認められたり、後継者としての教育が行われることもありました。

アフメト1世の死後。皇帝になったのは弟のムスタファ1世。しかし精神の病を抱えていたため、皇帝の役目を果たすことができません。すぐにアフメト1世の息子・オスマン2世が即位しました。

でも兄弟殺しを免れた者が皇帝になる。という前例破りがおきたのです。

兄弟殺しが存在した理由

どうしてこのような悲惨な制度があったのでしょうか?

忘れられがちですが、オスマン帝国はモンゴル・テュルク系遊牧民族のトルコ人が中心になって作った国です。

遊牧民の国はカリスマ的なリーダーがいるときは団結して強いです。でも飛び抜けたリーダーがいなくなると後継争いがおきて国が崩壊します。遊牧民社会は実力社会なので「長子だから」「皇太子だから」という理由だけでは納得しないのです。

世界最大の規模を誇ったモンゴル帝国が実質100年程度で分裂崩壊したのはそのためです。

他にもモンゴル・テュルク系民族の国は強いときは強いのですが、長続きしません。でもオスマン帝国は600年以上続きました。

早い段階で遊牧生活を止めてイスラム法を取り入れ、しっかりした組織を作った。という理由もありますが。後継者問題で争って国が分裂・崩壊するのを防いでいたから。というのも理由の一つにありました。

出家の制度がないイスラム社会では反乱の材料になりそうな王族は殺すしかないのです。

しかしそれではあまりにも酷い。というわけで悪名高い兄弟殺しは引き継がれなくなりました。

 

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